28 : 心が、生き返った。2
血だらけになりながら、紫武は微笑む。状況や状態を無視してのそれには、小日向も蒼褪めた。
「紫武……っ」
「はは、吃驚しているね、こひな」
「しゃべらないで」
「だいじょうぶだよ、これくらい。神さまの恩寵をいただいているからね」
痛みなど、感じていないのかもしれない。見ためほど、ひどい怪我ではないのかもしれない。
それでも、流れた血は夥しく、ひどい状態だった。
「あー、疲れた」
「つ……疲れたって」
少しして呼吸が整い始めると、紫武は暢気にも声を上げて笑い、それまでの小日向たちの心配や警戒を払拭するかのように無邪気な表情を見せる。
「お兄さんは……?」
「たぶんまだ庭のどこかに転がっていると思うけれど。側近とかあの犬とかがそれを許しておくわけもないから、そろそろ回収されたかな」
どうなったことかと思ったが、もしかすると、紫武と対峙したオリアレムも相当な状態にあるのかもしれない。だいじょうぶだろうかと一瞬だが案じ、しかし紫武のその言葉で、兄弟喧嘩が喧嘩で済んだらしいと知る。
本当の殺し合いになったかどうかは別として、互いに命はあることに、小日向はまず安堵した。
「こひな?」
「びっくり、した……紫武が、いきなり、またあんなこと、してたんだもん」
「ああうん、予想できたと思うんだけど、してなかったんだね、こひな」
「するわけないでしょ。お兄さんが来るの、明日だって聞いたんだから」
「律儀に来ることを知らせたのは王としての義務だよ。僕がここにいると知っているんだから」
早めの到着は予想できただろう、と紫武は言うのだが、それはオリアレムという王の性格をよく把握している紫武だからできたことだ。数度しか面会のない小日向に、そんな芸当ができるわけもない。
「だいじょうぶか、しの」
「ああうん、ごめんね、サリエ。結界があったから庭はだいじょうぶだけど、ちょっと汚しちゃったよ」
「いい迷惑だが、決着したならいい。おれが目を瞑っていられるのは今回だけだからな」
「あとは帰ってからにするよ」
サリヴァンに声をかけられてさらりと返した紫武に、サリヴァンだけでなく小日向も目を真ん丸にした。
「は? 終わってないのか?」
「叩きのめしただけだよ」
飄々と答えるさまには、顔も引き攣った。
「な……なんのために喧嘩してきたの?」
「なんのって……異国でやることじゃないから追い返してきた?」
「これで終わりじゃないのっ?」
「力で押すのは終わりだよ。だから徹底して叩きのめしてきたわけだし」
都記が「これで終わるのです」と言ったから、兄弟喧嘩はもう終わったのだと思ったのに、どうやら違うらしい。
「ど、どういうこと?」
「立ち上がれないくらい叩きのめせば、まあこのとおり僕もひどいことになるんだけどね」
自分の状態がひどいというのはわかっているようだ。
「誓約があるから、力が自分に跳ね返ってきた……んでしょ?」
「そうそう。今回は違うけど、兄上もね、その状態。けれど兄上は僕みたいな魔法師ではないから、回復には時間がかかる」
紫武は都記に治癒魔法をかけてもらっているので、都記のおかげで怪我の回復は早いだろう。しかし、オリアレムのほうは王と魔法師の誓約により、魔法師の力を受けつけないため、自然治癒となる。
ハッとする。
「王は魔法師に護られない……なら、お兄さんは」
「兄上はもともとだたの人間だよ。王ってだけで」
「だから魔法師が護らないと……」
「これまでいったいどれだけ僕が兄上を助けてきたと思っているのだかねぇ」
はあ、とため息をついた紫武に、小日向は閉口してしまう。
もしかしたら紫武は、殺し合いという名の兄弟喧嘩をすることで、オリアレムを王として護っていたのではなかろうか。
「……それが、あんたの生き延びる方法か」
サリヴァンが呟いた。
ニッと、紫武は笑う。
「僕は魔法師だから、王に力を揮えば跳ね返ってくる。けれど、僕は等しく王族で、人間だからね。人間としてなら、王と魔法師の誓約なんて意味を為さない。僕は人間として兄上を叩きのめしてきただけだよ」
「……天邪鬼め」
「いやだな、サリエ。僕は決着させてきたよ。兄上が卑怯だったんだ。自分が魔法師を傷つけられないからって、魔法師を連れて僕を攻撃してきたんだから」
「あんたらの喧嘩は本当にいい迷惑だ」
「ごめんね。でも、おかげで兄上を叩きのめすことができたから、帰ったら僕は兄上にいろいろな要求ができるよ」
「……その怪我は?」
「兄上が連れてきた魔法師から受けた怪我。都記がいるからすぐ治るよ」
にこにことしながら事後報告する紫武に、なぜだろう、ため息がでる。いや、怪我がひどいので心配なのだが、あまりのお気楽さに身体から力が抜けてしまうのだ。
ちらりと、無言で紫武の怪我を治療している都記を見やると、こちらもにこりと微笑んだ。小日向を護るため、紫武を中心にものを考えた都記は、小日向が余計な心配をして怪我をすることがないよう、それに徹したのだろう。都記はやっぱり都記だった。紫武のためにしか動かない。
「これで終わると、思ったのに……」
「……終わったよ?」
「どこが? なにも終わってないじゃないか。始まってもないよ」
これでもう二度と、兄弟喧嘩をしなくなると思っていたのに。
たとえ関係が修復されなかろうとも、殺し合いはしなくなると思ったのに。
根本にあるものは、やはりどうしても絶たれないのだろうか。
恨みはない、憎んでもない、と紫武は言っていたけれども。
「こひな」
「なに」
「僕は人間として、兄上を叩きのめしてきたんだよ」
「だから?」
「こひな、僕は魔法師だ。けれど、人間なんだよ」
笑みを消し、真面目くさった顔をした紫武は、真摯な眼差しで小日向を見つめてくる。
「僕はあのひとの、弟なんだよ」
そう言った紫武に、目を丸くしたのは都記だった。
「紫武さま……」
「都記、僕は諦めたと言ったね。兄上はあのまま、変わることがないのだと」
「……そうですが」
「だから僕は、また、諦めることにしたよ。僕は魔法師として生きていく。綺堂紫武として、ただの魔法師として」
「それは……」
「継承権の放棄と、爵位の返還を宣言してきた」
はっと、息を呑む。誰もが紫武の宣言に瞠目していると、宣言した当人は淡く微笑んだ。
「今の僕はただの綺堂紫武だ。もう、王弟でも大公でもない」
紫武が言う、諦めた、という意味が、漸くわかった気がする。
そして、サリヴァンが言っていた、心が生き返ったのだという言葉の意味も、紫武の穏やかな表情を見て、漸く理解できたように思う。
「魔法師として生きていこうか、都記」
そう言った紫武に、都記が笑いたいような困ったような、それでも少し嬉しげに相好を崩した。