26 : 優しい神さまに願う。
紫武視点です。
悲しいことなんてなにもないのだと、言い聞かせ続けたあの日々。
寂しいことなんてなにもないのだと、言い聞かせ続けたその日々。
それでもやっぱり悲しくて寂しくて、心も体もばらばらになりそうだった。
どこにぶつけたらいいのか、どこに吐き出したらいいのか、わからなくて自分を痛めつけることでやり過ごした。
「しの」
「……やぁ、サリエ」
「来たぞ。どうする」
「おや、おや、正面から堂々とおいでになりましたか」
「あの子はどうした?」
「今頃はもう眠ってるんじゃないかな? 調子よさそうにしてるけど、本調子ではないからね」
「……あんたも、調子がよさそうには見えないが」
案じるように顔色を曇らせたサリヴァンに、紫武は努めていつものような笑みを浮かべていたが、それが嘘だとわかるくらいには笑みが引き攣っていたらしい。
はは、と空笑いした。
「どうしようかなぁと、思ってね」
「今さら?」
「きみのところの怖い侍従長さんに、脅されてしまったからね」
「ああ……あいつはあんたのこと、だいぶ警戒しているからな」
「決着はつけるつもりだけれど……たぶん、力づくになると思うんだよね」
「それでは今までと変わらないだろう」
サリヴァンの的確な忠告に、わかりつつも、それ以外に適切な方法がないと、紫武は肩を落とした。
「今ここに、こんな夜中なのにきみがわざわざ知らせてくれた、その時点で、力づくになることは確定してしまったようなものだよ」
「まあ、な……正面から堂々と来たはいいが、時間は無視している」
「あの人、ほんと迷惑。けれど……正体が一国の王さまだと知られてはいけないから、それも仕方ないのかな」
動きたい気持ちが起きなくて居座り続けた椅子から、紫武は重い腰を上げる。ゆっくりと背筋を伸ばして凝りを解しつつ、窓辺に歩み寄って外の様子を眺めた。
「ねえ、サリエ」
「……なんだ」
「もし僕になにかあったら……小日向を助けてやってくれる?」
ちらりと振り向いてサリヴァンを見やると、不服そうな顔をしたサリヴァンが両腕を組んだ。
「あんたになにか起こっては困る」
「それは僕の台詞だ。こんなことにきみを巻き込むつもりなんてなかったのに、こんな事態を招いてしまった」
「予想していたことだ。それに……それはあんたの本心ではないだろう」
ここへ来た当初、匿ってよ、と冗談半分に、しかし半ば本気で言っていたことを、サリヴァンは疑うことなく信じていたらしい。
「猊下を頼ってまでその命を護りたいと、あんたは思ったんだろう。矜持もかなぐり捨てて、そうまでして護りたい命が、あるんだろう」
脳裏に浮かんだいとしい者の姿に、隠す気持ちもなく紫武は微笑む。
「小日向は僕の命だ」
大切な、大切な、いとしい命。
すべてを捧げようと決めたのは、もう随分と昔のことだ。
「護り通せ」
サリヴァンが、強い眼差しで持って、諌めてくる。
そんなに大切なら、そんなにいとしいなら、簡単に手放してやるなと言っている。
「もうなにもできないあんたでは、ないはずだ」
紫武が持つ魔法師の力は、古き魔法師のものだ。過去の記憶のせいで振り回されはしたが、小日向を得てその考え方も捉え方も変わった今では、振り回されていた頃がとても愚かに思えてくる。
だから、あの頃はなにもできなかったけれども、今ならどんなことでもできてしまう気がする。
サリヴァンの言っていることに間違いはない。
それでも。
「なにがどうなるか、わからないんだよ」
過去は知っている。
けれども未来は知らない。
「小日向を護りたい。ずっとそばにいたい。ずっとそばに置いておきたい。けれど……僕は王族で魔法師だ」
本当なら、もっとも偉大な権力を手にしているのだろうけれども、紫武にとってそれは偉大なものでも権力でもない。ただの厄介なものだ。
「兄上と真正面から向き合って、無事でいられる保証なんてないんだよ」
あのとき、本気で兄を殺してやろうと思ったとき、その力が跳ね返ってきたことはまだ記憶に新しい。死んでもよかった、死にかけていたくらいだから、そうなってもおかしくはない覚悟はあった。
だからこそ今は、その覚悟を持つことができない。
「あんたたちは面倒だな」
はあ、と息をついたサリヴァンに、紫武は苦笑する。
どうでもよかった昔の紫武は、今はもうここにはいないのだ。
「猊下を呼ぶ。采配は猊下に任せればいい」
「ありがとう、サリエ」
サリヴァンの親切心に、心から感謝しながら、紫武は閉まっている窓の鍵を外し、窓を開けた。
「しの」
「ん?」
開け放した窓から外に出ようとして、サリヴァンに呼ばれて振り向く。
「あんたは、本当に、変わったな」
「……今の僕には小日向がいるからね」
「今のあんたになら、猊下も力を貸してくださるだろう。あのひとは、誰よりも優しい神さまだからな」
「その優しい神さまに、僕は無茶な願いを押しつけてしまう……けれど、後悔はないんだ」
「しの」
きゅっと眉をひそめたサリヴァンが、乞うように紫武を見つめる。
「生き延びろ」
紫武はいっそう晴れやかに微笑んだ。
「当然だよ」
どうでもよかったあの頃の自分は、どこを探してもいない。
「小日向と生きたい。それが僕の望みだから」
いとしい者を得た。
いとしい者を見つけた。
いとしい者を護りたいと思うようになった。
いとしい者との永遠を願うようになった。
その未来を望むようになった。
「僕は生き延びるよ。だからきみに、猊下に、小日向のことを頼むんだよ」
この鼓動が繋がっているから、呼吸が繋がっているから、命が結ばれているから、自分が消えることなど考えてはいけないのだ。