20 : 昔話をしようか。2
紫武視点です。
くたりとなった小日向に、いとしさと切なさと、ほんの僅かな笑いが込み上げる。せっかくなので小日向の可愛らしいものを味わっていたら、こんこん、という扉を叩く音がわざとらしく響いた。
「都記……」
邪魔された。
そう思った紫武だったが、朝食を運んできてくれた都記に止められなければ、危うかった。
「まだ、早いのでは?」
それは茶化すような言い方ではなく、案じていた。
「まあ、ね……あれくらいで倒れるようなら、もう少し時間が必要かもしれないな」
腕の中でくったりとしている小日向を抱き直し、寝間着を着せ直してやる。寝台に座り直すと、小日向を横向きに抱き、大きくて柔らかな枕に背を預けた。
「小日向さまに魔法をかけて、もう六年ですか……」
「ああ……やっぱり、難しいね」
涙を流しながら眠る小日向の頬を撫で、その涙を拭いながら、紫武は悲しみにも似た笑みを浮かべる。
「どうしたら、こひなとずっと一緒にいられるのかな……こんな力を持っていたって、なんの役にも立たないよ」
「紫武さまはそのお力で、小日向さまを護っておられます」
「そうかな? 本当に僕は、こひなを護れている?」
「ええ、確かに」
都記の言うことはいつだって当てにならない。紫武を中心にものを考えるから、それを知っているから、訊いても無駄だ。
それでも、肯定されると嬉しいものだ。
「ねえ、都記」
「はい、紫武さま」
「僕は……こひなを愛しているようだよ」
「……、それはようございました」
「いいの?」
「もちろんです」
「本心から?」
「ええ」
都記の笑みに、疑いを持ってしまうのも仕方ない。
それでも、肯定されると、やはり嬉しいもので。
「この子を僕のものにしてよかった……今、すごく、生きていてよかったと、思うよ」
ほうっと安堵すれば、都記も安堵したように微笑む。
「紫武さまがそう思われるようになってくださって、わたしはとても嬉しいです」
「僕が幸せだと、都記は嬉しいのかい?」
「当然でしょう。どれだけ一緒にいるとお思いですか」
紫武は都記と、それはもう小さな頃から、ずっと一緒だ。この関係も、ずっと長く、続いている。
その年月を思うと、ふと、笑ったらいいのか泣いたらいいのか、わからなくなる。
「きみを僕から解放してあげたい」
そう言えば、都記は苦笑した。
「わたしが勝手にそばにいるだけですが」
「僕は、それをよしとしている。同じことだよ」
「いいえ、わたしの勝手ですよ。どうしても、わたしはあなたのそばを離れられません。気になさらないでください」
都記はのんびりと、寝台の横に置いた机に朝食を並べていく。その手つきは優しく、柔らかく、楽しそうだ。
「……都記」
「はい?」
「必ず、兄上を殺すから」
ふと手を止めた都記は、しかしすぐに動きを取り戻し、茶器を紫武に差し出してくる。
「お気持ちだけで、充分ですよ」
いつも見ている、柔らかな笑み。
茶器を受け取って、紫武はまっすぐとその双眸を見つめた。
自分が持っている片方の、濃紺の瞳を両方に宿した、稀代の魔法師を。
「僕は兄上を殺す」
「……意味のないことだと、小日向さまに言われたのでは?」
「僕にとっては、意味のないことだよ。けれど、僕以外には、意味がある」
互いにじっと目を逸らさず見続けて、ふと空気が割れたのは、腕の中にいた小日向が身動ぎしたからだった。
「う、ん……」
「……こひな?」
もうそろそろ目を覚ますだろうか。枯渇した力を補っただけであるから、満たされれば目を覚ますのも当然だ。だが、少し待ってみてもそれ以上の反応はない。
くす、と紫武は笑った。
「朝食にしようかな」
「そうしてください」
小日向の眠りを妨げないよう腕から解放して、寝台を下りた。
こんこん、と扉が叩かれたのは、朝食を摂り終えたあとのことだ。
都記が応対に出て、小さく開かれていた扉が大きく開かれると、サリヴァンが入ってきた。
「おはよう、サリエ」
「ああ、おはよう。調子は?」
「見たとおり。そっちは?」
「歩き始めた」
肩を竦めたサリヴァンが、「今はよそうか?」と眠る小日向を見て言ったので、名残惜しいが紫武は小日向のそばを離れ、サリヴァンを隣室に促した。
「ツェイルが歩き始めたなら、そばにいてあげたほうがよくないかな」
「あんたと少し話があるだけだ。すぐに戻る」
「そう。まあ、座って話そうか」
サリヴァンを長椅子に促して、紫武は向かいの椅子に腰かける。都記が気をきかせてお茶を用意してくれた。それに口をつけながら、「話って?」とサリヴァンの言葉を待つ。
「話といっても、とくに話すことはないんだが……伝えておくことはあるからな」
「伝えておくこと?」
「……聞くか?」
「そこまで言って、聞かないなんて選択はあるのかな」
肩を竦めて笑うと、サリヴァンは少しだけ、言いにくそうな顔をした。
「……使者が来た」
「使者っていうと……」
どこから、と言おうとした口が、言葉を発することなく閉じる。
サリヴァンが言いにくそうな顔をした理由がわかった。
とたんに紫武は、目を据わらせる。
「そう……兄上が、来るんだね」
「……ああ」
頷いたサリヴァンはため息をつき、埋もれるように椅子に沈むと天上を仰ぐ。
「おそらく、昨日のことと関係はなく、来るだろう。あんたの様子を伺いに、な。どうする?」
「その使者は、いつ来たの?」
「朝方、到着したらしい。おれのところには、ついさっきだ」
「兄上が来るのはいつ?」
「明日の夕方には、到着する予定だ」
随分と早いな、と思うのと、やっぱりね、と思うのは、同時だった。
紫武は口許に手のひらを当て、少しだけ考える。
「ねえサリエ、僕らの滞在は非公式だけれど公式的なものだよね」
「んん」
「僕らがここにいることは、皇帝陛下……きみの兄上も知っていることだよね」
「翌日には伝えてあった」
「きみの兄上は口が堅いほうかな」
「女性以外になら」
「……、なにそれ」
ちょっと真面目に考えていたのに、かくんと肩の力が抜けてしまう。
「博愛主義と言えば聞こえはいいが、ようは人間好きなんだ。しかも年齢層に際限がない。その中で、女性と子どもには特に甘い人だ」
「え……それ、皇サマとしてはどうかと」
「そういう人だから仕方ない」
生来のものを直せるか、とサリヴァンはため息をつく。なるほど、苦労させられているようだ。
「んー……それなら、質問の方向を変えよう」
「ん?」
「サリエが捜していたものの中に、ディアルは最初から含まれていたのかな」
「今回は……いや、考えてもいなかったな。ディアルとの友好は続いていると兄上もおっしゃっていたから、襲撃がなければこれからも考えなかっただろう」
「これからも、ということは、ディアルは帝国の射程圏内に入ってしまったということ?」
「帝国というより、メルエイラだな」
「メルエイラ……?」
それは、としばし考える。
かつて帝国の剣とか皇の剣とかなんとか謳われていた、没落貴族のメルエイラ家のことだろうか。
「かなり久しぶりに聞いた家名だな……なんでメルエイラ?」
「ツェイはメルエイラ家の天恵者だ」
瞬間的に、紫武は黙した。ついでに瞠目する。
「……もしかして僕、ものすごい敵を作ってない?」
「ツァインはメルエイラ家の当主だからな」
うわ、と心で悲鳴を上げ、息を詰め、限界がきて吐き出す。
「そういうことは早く言ってよー……」
わが兄に殺される前に、サリヴァンの妻の兄に殺されそうだ。
「六年前、失踪したあんたを捜索にきた魔法師の小隊がいたのは、憶えているか?」
「うん? うん、憶えているよ」
「彼らはツェイを襲撃した。あんたを見つけるために。道理は今でもわからないが、ツェイがいればあんたを見つけ出すのも容易だとでも吹き込んだ、こちらの貴族に利用されて」
「僕もその道理はわからないな……そういえばあの小隊、ディアルに帰ったら壊滅していたけれど」
「ツァインが始末したようだが……やはり帰国が叶わなかったか」
もう決定打だ、と思った。先にサリヴァンの妻の兄に殺される。
「申し訳ないことをしたとは思うが、謝罪はしないぞ。六年前の当時、おれの立場は今よりも微妙だったんだ。前にも言ったが、本当に余裕がない状態だった」
「いや、きみを非道だとかなんとか、罵ったり責めたりする気はないよ。あれは僕の責任だし、捜索隊を派遣したのはディアルというよりも、一部貴族の勝手な行動だったからね。兄上は書面で確認してから動こうと思っていたようだし」
だからかまわない、と紫武は首を振る。
そもそも、六年前のことは、実を言うとそれほど鮮明に憶えているわけではない。ただひたすら兄を殺したくて、殺したくて、それだけで頭がいっぱいだった。それで死にかけて、サリヴァンに助けられて、手当てを受けて回復した頃から、漸く記憶がはっきりとし始めた。怪我の療養をしていた間に起きたことは、動くこともままならなかったので、そのほとんどをサリヴァンに任せていた状態でもある。憶えていないというよりも、偏に「わからない」だけと言えるかもしれない。
思考回路も危うかった六年前、サリヴァンが下した判断を、今さら紫武が識別しても意味はない。むしろサリヴァンの判断は、最良なのだ。
「兄上が先かメルエイラが先か……とりあえず僕は兄上を早々に片づけたほうがよさそうだね。国と国の均衡が崩れる前に」
「国交は良好だぞ」
「外面はいいからね、うちの王サマ」
肩を竦めて微笑むと、サリヴァンは怪訝そうな顔をした。
「おれは未だに逢ってないからな……」
「……顔だけは、僕にそっくりだよ。忌々しいほどにね」
「おれも兄上とはそっくりだと常々言われる。昔は気にならなかったが、今は最悪だと思う」
「はは、僕と同じだね」
そういえば、サリヴァンの兄だというヴァリアス帝国皇帝サライは、言われてみれば確かにサリヴァンと双子のように似ていた。それは紫武が兄と瓜二つであることと、同じように。
「サリエは……兄上を殺したいとか、思ったことはないの?」
「……、ないな」
「その間はなに?」
「殺したいとは思わないが、激しい憎悪ならあるな、と」
「憎悪?」
「兄上に対してではない。おれは血縁に乏しいからな」
ヴァリアス帝国の先帝は、実弟をその手にかけ、弑している。さらに数年前、先帝の妹であった元皇妹も亡くなり、その娘もなんらかの事件を起こして罰せられている。帝国の皇族は、実は少ないのが現状だ。
「なにを憎んで、なにを恨んでいるの?」
問うと、サリヴァンは皮肉げに、唇を歪めた。
「己れの血、天恵、地位」
「え……?」
「ふとした瞬間に、激しい憎悪が押し寄せる」
それは、自分が嫌い、ということと、同義語ではないだろうか。いや、だからといって自分が好きだと言って欲しいわけではないが、そういう考えを持っているというのは意外だった。
「サリエ……自分を否定したらいけないよ」
「わかっている。振り返れば必ず誰かがいて、愛してくれていた。ひとりではなかった。だがそれでも……この天恵さえなければと、思うことはあるんだ」
それはどうしようもないのだと、サリヴァンは苦笑した。
その気持ちがよくわかるのは、たぶん、紫武も同じように考えられるからだろう。
「サリエ」
「ん?」
「僕はきみが好きだよ。きみを慕う者たちと同じように。だから、自分をあまり否定しないでね」
「……しのも、な」
ふっと淡く笑んだサリヴァンに、紫武も微笑み返した。