01 : まほうつかい。1
身長が伸びた。
碌な栄養も取れなかった分だけ小さかった身体は、やはりどれだけ食べても代わり映えしなかったが、それでも身長は伸びた。なかなか筋肉がついてくれないことは悔しいところだが、昔に比べれば、格段の差がある。そこらの暴漢や盗賊に襲われたところで、投げ飛ばせるくらいには力がついた。
「最近のこたは可愛くない」
今日は小日向を「こた」と呼ぶ気分らしい紫武が、やはり家主だからといってなにもせず、広い居間でぐうたらしながら、都記に就いて魔法学に勤しむ小日向を見て退屈そうに言った。
「暇なら、紫武もやったら?」
「えー……」
言ってやったら、いやそうな顔をされた。
紫武にそんな顔をされても動じなくなったのは、魔法学の基礎を理解し始めた頃のことだ。そのときは今よりもっと身長も低かった。言葉も上手く理解できなかった。きちんと喋ることさえできなかった。
それが今は嘘のように、すべてが上手くできるようになっている。
「魔法薬学なんて、楽しい?」
「楽しいとか、そういう問題じゃない。役に立つものだ」
「……昔、役に立つとは思えないって言ったこと、根に持っているね」
「憶えてるの?」
「生憎と僕は無駄に記憶力がよくてね。なんだ、やっぱりそうか」
不貞腐れるさまは、紫武のほうが子どもっぽい。
そう思って、ふと気づいた。
「ねえ、紫武」
「んー?」
寝椅子の上で器用に身体を反転させた紫武が、ぐだぐだとしながら肘掛に頭を乗せ、顔を逆さまにした状態で小日向を見る。
なんというか、紫武はいつも、なにに対してもやる気がない姿が印象的だ。ちゃらんぽらんとか言ったか。
「歳、いくつなの?」
「え、今さら?」
びっくり、と紫武は顔で表現する。
「訊いたことないから」
紫武は、小日向を拾ってくれたときから、どこも変わらない。顔も、その性格も、態度も、なにもかも変わらない。だから歳を訊けずにいたというわけでもないが、実は小日向も実年齢は教えたことがない。
「きみはいくつなの、こた」
「今年で……十七かな?」
「ここに来て?」
「六年とちょっと、かな」
季節を数えていたから、間違いがなければ小日向の年齢はたぶんそれくらいだ。
「はあ……大きくなったねえ、こた」
「紫武の歳は?」
「今年で還暦」
「……都記さん、かんれき、ってなに?」
「ちょっとちょっと、どうしてそこで都記に訊くかなあ? 還暦っていうのは、まあ僕らの世界の専門用語みたいなもので、つまりはお祝いする歳だよ」
紫武が後ろでなにか言っていたが、小日向はそれを無視して都記に再度問うた。
紫武の誤魔化したような言葉の遣い回しには慣れてきたので、その中で、紫武の言葉が十のうち八くらいが信用ならないことは学習済みだ。
しかしながら、還暦というものについては、嘘はないらしい。
「生まれた年の暦に還ることから、還暦と言うのですよ」
「いくつで還るの?」
「六十年です」
訂正だ。
紫武は嘘を言っている。二十代中頃の顔をしておいて、六十歳だというのは胡散臭過ぎる。
「なにその目」
「わたし、もう子どもじゃない」
「そう言っているうちは子どもだよね」
「おとなはみんなそう言う」
「そんなこと言っちゃうから子どもだって言われるんだよ?」
揚げ足を取られた。
ムカついたから、近くにあった分厚い魔法学の本を、力いっぱい紫武に投げつけてやった。
「ほーら、子どもだ」
あっさりと避けられた。
余計ムカついた。
さらにムカつくと疲れるので、深々とため息をつくと紫武を無視することにした。
「都記さんは、歳いくつ?」
「無視しないでよ、こたぁ」
「紫武より、歳上?」
「こたぁ」
煩い。
かまうとさらに煩くなるから、無視だ。
「紫武さまとそう変わりませんよ。一つか二つ……歳上ですかね」
「都記さん、昔と変わらない。紫武も」
「そうですか?」
そうだ。都記も、紫武のように、どこも変わらない。相変わらず小日向のことを「小日向さま」と呼ぶし、それがたまに「こひなさま」とか「ひなたさま」になることもあるが、それくらいで敬語も変わらない。
変わったのは、小日向だけだ。
身長が伸びで、学がついて、ぼさぼさだった髪は綺麗に整えられて、身なりも綺麗になった。
そのすべてが、紫武のおかげである。変わらないところといえば、言葉遣いだけだろうか。
紫武がもし拾ってくれなければ、小日向は今、ここにはいない。
こうして生きていることもない。
「ああ、そうだ。こたに訊こうと思ったことがあった。ねえ、こた、学校に通わない?」
「通わない」
「え、即答? しかもそこだけ無視しないでくれたのに、即答で拒否?」
学校、という言葉の単語は無視できなかったので、小日向は紫武に振り向く。寝椅子から起きてこちらを見ていた。
視線が絡む。
左右で色の違う瞳が、小日向の左右で違う色の瞳を見つめている。
「学校なんて行かない」
「……どうして?」
「都記さんが全部、教えてくれる」
「都記だけでは教え切れないことだって、あるよ。学校でしか学べないこともある」
それでも、小日向は行かない。首を左右に振って、否定した。
「行かない」
「理由を教えて、小日向」
ぎっくん、と身体が強張る。
昔はあれほど名を呼んでもらいたくて強調したのに、今はその名をきちんと呼ばれると緊張する。紫武の声色が変わり、真剣味を帯びるから、なんとなく怖いのだ。
「小日向」
また呼ばれて、小日向は視線を外して俯いた。
「……外に、出たくない」
「ずっと引き籠もっているつもり? 都記に訊いたけれど、このところは部屋からも出なかったそうだね? 遡れば、この一ヵ月、裏庭の薬草摘みに外へ出るくらいで、あとはずっと家に籠っていたそうじゃない」
「それは……研究、してたから」
「勉強熱心なのは、いいことだよ。小日向の作る薬はよく効くって、この辺りでは好評のようだし、その努力は認めるよ。けれど、僕ら以外の人たちとは逢わないっていうのは、駄目だよ」
どうしてそんなことまで知っているのだ、と思って、すべて筒抜けなのは都記がいるからか、と思い至る。
小日向は深く息を吐き出した。
未だ鮮明に残る記憶が、脳裏を掠める。
「気持ち悪いって……」
「なにが?」
「目が、左右で、色……違うから」
髪の色は、周りの人たちと変わらない。薄い茶色だ。左の瞳だって、薄茶色をしていて周りの人たちと変わらない。
けれども右の瞳は、同じ色は紫武しかいない、金色だ。
小日向の姿を見た人は、みんな、気味悪そうな顔をする。その顔はとても嫌いだった。紫武に拾われる前までのことを、鮮明に思い出して体調を崩すほどに、嫌いだ。
「小日向」
呼ばれて、けれども顔を上げられなかった。
「小日向、僕を見なさい」
強く言われて、仕方なく、恐る恐る顔を上げる。
紫武の、金と濃紺の双眸が、穏やかな光りを携えて、小日向を捉えていた。
「僕が気味悪い?」
紫武は綺麗だ。この辺りでは黒に近い濃紺色の髪は珍しく、同じ色の瞳も珍しい。都記もそうだから、珍しい色を持っている。
そんなふたりを、小日向は綺麗だと思う。
「世の中には、確かに僕らみたいな人のことを、気味悪いって思う人もいる。けれどね、僕らも人だ。その心を大切にして、小日向」
「……うん」
わかっている。
世の中すべての人が、小日向を気味悪いと思っているわけではない。
それでも、嫌いなものは、変えられない。
怖い。
「ん……もう時間か」
時計を見上げた紫武が、寝椅子から立ち上がる。
定期的に出かけているその時間になっていたようだ。どこに行くの、と訊いては「散歩」と答えられ、都記を連れて行くことはあっても、小日向を連れて行くことはなかったところへ、今日も紫武は行くらしい。
「今日は行くの、やめようかな」
「え……?」
小日向がしょぼんと肩を落としたのかわかったのか、紫武は小日向に背を向けて軽くそう言った。
「自ら進んで行きたい場所でもないしねぇ……むしろなんとなくというか、無理やりというか、気分だったし……うん、今日は行かない」
「え、紫武……いいの?」
「だって行きたくないもの」
それだけの理由で行くのをやめる紫武も紫武だが、今日はずっと一緒にいられるのかと嬉しくなってしまう小日向も小日向だ。
「こひな、今から僕と出かけようか」
小日向を「こひな」と呼ぶ気分になったらしい紫武に、小日向はきょとんと目を丸くする。
「え?」
「僕が出かけるのと、こひなが外に出ないのと、話は別だからね」
「げ……」
嬉しいと思った気持ちが、一変する。
「よし、さっそく出かけよう。都記、なにか買いものある?」
「ちょ、紫武」
のんびり家で過ごしてもいいじゃないか、と小日向は言おうと思ったのだが、小日向が外へ出ることに協力的な都記は、紫武の提案に即座に賛同して、買いものを紫武に頼んでしまう。
「香料が切れかけていますので、それの補充と……菓子用に果物をいくつか、紫武さまのお好みでお願いします」
「香料はいいけど、果物? ふむ……菓子用なら、林檎がいいかな?」
「紫武さまのお好みで」
「まあ、料理するのは都記だからね。都記ならなんでも作れるし……と、こひな? ほら、行くよ」
行くよ、と声をかけられても、行く気になれない。
「……行かない」
一歩後退して、行く気満々な紫武と、行かせる気満々な都記との距離を稼ぐ。
「行くの」
にっこり笑った紫武の手が伸び、むんずと手首を掴まれた。無駄な足掻きだとわかっていても、小日向は掴まれた腕を自らに引っ張った。
「行かない、ってば!」
「駄々子だなぁ、こひなは。都記」
しまった。
敵は紫武だけではなかった。
「行きますよ、こひなさま」
小日向の背後に回った都記に、弱点のわき腹を掴まれた。
「にぎゃあ……っ」
くすぐったさに力が抜けた。そのせいで紫武に引っ張られ、都記に背を押され、玄関まで易々と運ばれてしまう。
「さあ行こう!」
元気な紫武にうんざりしながら、仕方なく諦めることにして、小日向は引っ張られながらしぶしぶ邸を出た。
邸の周りは、歩いて十分くらいは周りに家も人もない自然の中で、そこを抜けると住宅街に入る。
右には貴族たちの邸が並び、大きな道を挟んで左には庶民が住まう街だ。貴族と庶民に間に、紫武の邸があると考えればわかり易い。
「あ!」
歩き始めて三十分、浮かれているかのように脚が軽かった紫武が、だんだんと人が多くなり始めた街の入り口で唐突に立ち止った。
「どうしたの」
「……大変だ」
「なにが」
「お金忘れちゃった」
語尾が楽しそうだったのは気のせいではない。小日向に振り向いた紫武は満面笑顔だ。
「帰る」
家に帰れる、と小日向は即座に方向転換したのだが、「まあまあ」と言いながら小日向の腕を掴んだ紫武に動いた力を利用され、さらに反転し元の位置に戻った。
顔が引き攣った。
「遊んでるの?」
「……少し」
悪びれもなく言った紫武に、拳を握る。しかし、紫武はまたにっこり笑って、小日向を引っ張りながら街へ歩き始めた。
「お金はないけれど、だいじょうぶだよ」
「なにが、だいじょうぶだ」
「果物くらいなら、調達できる」
「はあ?」
お金もないのにどうするのだ。
そう思ったが、紫武は躊躇うことなく街に入る。
小日向は俯き、伸ばしていた前髪で瞳が隠れるようにした。
「前を見て歩かないと、転ぶよ?」
紫武は堂々としたもので、左右で色の違う瞳を隠そうともしない。濃紺色の髪だって、茶や赤の髪が多い街では目立ち、今もわざわざ振り向いている人やもの珍しげにしている人たちが見ているのに、気にする様子もない。
なんて神経だ。
「紫武、目立ってる」
「そう?」
「目立ってる」
ただでさえ紫武の恰好は、貴族のそれっぽい。紫武が貴族かどうかはさておき、そんな人が従者もつけず、小日向のような子どもを引き連れていれば、どうしたって目立つものだ。
「ルー・ティエナ公!」
そんな中、誰かが紫武をそう呼んだ。
「ん? ああ、ガーナムさん」
紫武は呼びかけに応じ、小日向が戸惑っているのにも関わらず、声をかけられたほうへと足を進めた。
「お久しぶりですな、ルー・ティエナ公」
「お久しぶり。元気そうだね」
「あたしはいつも元気ですよ。しかし珍しいですなぁ、公がこちらをお通りになるとは。なにかお求めで?」
「香料と果物を。あとは、散歩。この子が出不精でね」
「ほう……この子が、あの?」
「そうだよ」
なにやら自分を知っているらしい声の主に、小日向は俯かせていた顔をそろそろと上げる。
どん、と目の前に顔があって驚いた。
「ぅわ……っ」
思わず身体を引くと、目の前にあった妙齢の美しい顔がにっかりと笑った。
「ガーナム・ウェルトだよ。おまえさんが噂の薬師どのか」
「う、うわさ?」
なんのことだ、と小日向は困惑しながらさらに身を引き、笑っている紫武に目で助けを求める。
「小日向だよ、ガーナムさん」
「そうそう、ノフィアラだ。魔法薬師ノフィアラ」
小日向だ、と言ったのに、ガーナムという異様に背の高い美しい女性は「ノフィアラ」と小日向を呼んだ。
「おまえさんが作る薬は、ここいらじゃあちっと有名になってんだ。よく効くってんで、お貴族さまも求めにわざわざ足を運ぶくらいに。しかし一番は、あたしらみたいな庶民に安価で薬を卸してくれるところですな。そこによく効くとなりゃあ、有名にもなるもんだ」
話はよく呑み込めないが、小日向が作る薬は都記が街に売りに出してくれているので、そのことを言われているのだというのは理解できた。
「こひな、ガーナムさんがこひなの作った薬を街で売ってくれているんだよ」
「え、そう……なの?」
この人が、とガーナムをまじまじと見てしまう。
「ちょうどいい。なあ公、専属契約しちゃ駄目ですかな?」
「僕じゃなくて、こひなに訊いてよ」
「ああ、そうか。なあノフィアラどの、あたしと専属契約しちゃくれませんかね」
いきなりのことに、眉が中央に寄る。そのときになって、ガーナムは小日向の左右で色の違う瞳に気がついた。
「ほほ。公と同じ金の目ですな」
「あ……っ」
小日向は慌てて俯くが、ガーナムの気配が目の前から消えることはなかった。
「いろいろと苦労なさってるようだな」
ふっと笑ったようなその気配に、幼い頃感じたおとなたちのものとは違うものを感じて、強張りかけていた身体の緊張が解ける。
「ノフィアラどの。それで、返事はどうです?」
「……返事、って」
「専属契約ですよ。あたしは医者なんで、薬師と専属契約できれば、薬の調達が楽だ。まあ、ずっとあたしが専売してるもんで、今とあんまり変わりないんですがね」
医者だったのか、と小日向はガーナムを再び見上げる。その顔は穏やかに笑っていて、小日向のことを気味悪がったおとなたちとは、まったく違っていた。
「あ、の……でも、わたし、まだ魔法師に、なってなくて」
「そうなんですか? え、公?」
魔法師として認められてはいない。そのことが申し訳なくなるくらいには、ガーナムのことは信頼できそうだった。
「だいじょうぶ。こひなは魔法師だよ。この前、その証をちゃんと渡したからね」
「あかし? そんなの……」
もらってない。
と思ったが、そういえばこの前、黒い外套を作ってもらった。背中に白い大鳥が描かれた、紋章の入った黒い外套だ。
「そう、あれが魔法師の証。あれを背負えるのは魔法師だけなんだよ、こひな」
「……そうなんだ」
魔法師は紋章を背負う。己れが作った陣になぞらえた紋章で、魔法師ひとりひとりでその紋が違うものだ。
「わたしを認めてくれたから、作ってくれたの?」
「ずっと前から認めていたけれどね。こひなの陣をなにになぞらえようかと考え過ぎて、遅くなっちゃっただけだよ」
肩を竦めて笑う紫武に、自然と小日向は微笑んだ。素直に、魔法師と認めてもらえたことが、嬉しかった。
「じゃあ、問題ありませんな。ノフィアラどの、返事はどうですかな?」
ガーナムに再度申し込まれて、小日向は少し照れを感じながら、小さく頷いた。
「わたしみたいな魔法師で、よければ」
「決まりですな。これからもよろしく頼みます、ノフィアラどの」
にっかり笑ったガーナムに、小日向も嬉しくて笑う。
魔法師としての第一歩を、進めた気がした。