14 : 大陸の力。4
* 「」はディアル語、『』は大陸の公用語になっています。
外の気配が明るくなってきたのを感じて、小日向は眠れなかったことに長くため息をついた。
一睡もできなかったなんて、いつ以来だろう。紫武に拾われたばかりの頃以来ではないだろうか。
そんなことを思いながら寝台を離れ、さっぱりとするために着替えてすぐ洗面所で顔を洗う。鏡に映った自分は、昨日よりもひどい顔をしていた。
「わたし、なんでこんなに疲れてるんだろう」
知らなかったことをたくさん教えられたから、だろうか。都記にいろいろ教えてもらっていたときでさえ、こんなに疲れたことはないのだけれども、そう思ってしまう。
「これはまた……一段とひどいお顔の色ですね」
小日向が洗面所を使っている間に、都記が朝食の用意をしてくれていた。小日向の顔を見るなり、朝の挨拶を飛ばして顔色のことを言い、それからふつうに「おはようございます」と頭を下げられる。
「おはよう……」
「……朝食のあと、また眠られたほうがよさそうですね」
「許されるなら」
「だいじょうぶですよ。特に用事があるわけでも……いえ、そういえば今朝、ツェイルさまが気にされていましたね」
「ツェイル?」
朝食の席についてから、ツェイルの昨日の姿を思い出した。
ツェイルの寂しそうな背中は、眠る挨拶をしたあとも変わらなかった。サリヴァンが帰ってこなかったからだ。
「サリヴァンさまは……帰ってきた?」
「夜更けに帰られたようですが、今朝早く紫武さまと」
「また行っちゃったのか……」
また紫武も出かけてしまった、ということだ。紫武が出かけるのはまったくかまわないのだが、これでは遊びにきたというよりも、仕事しにきたみたいだ。
「ツェイルの様子はどんなだった?」
「昨日と変わらず」
「……そっか」
寂しいよね、と思う。なにか力になれたらいいのだけれども、小日向は子どもの代わりになることなどできないし、サリヴァンにもなれない。
今日も今日とて美味しい食事で腹を満たしたあと、小日向は寝台ではなく長椅子に埋もれて、はあと息をついた。
なにをしにここに来たのだろう。
なんのために、ここにいるのだろう。
ここで、わたしになにができるというのだろう。
帰ることはできないし、紫武の考えを変えることはできないし、ツェイルのためにできることもない、とできないことだらけだ。
「ガーナムさんとアクセルは元気かなぁ……」
国を離れてから、まだ三日も経ってない。それが嘘のように感じるのは、知った内容が濃かったからだろうか。
ガーナム、アクセルは元気だろうか。置いてきてしまった植物たちは元気だろうか。
考えながら、うとうととしていたときだ。
「こひな、こひな」
と呼ぶ声と、身体を揺すられる感覚に、意識が浮上する。
「……ツェイル?」
目を擦りながら見ると、ちょこんと前に、ツェイルが屈んで小日向の膝に両手を置いていた。
『起こしてごめん。わたし、ここにいていい?』
まだツェイルはディアル語を流暢に喋れないので、ここは公用語だ。寝ぼけた頭でどうにか言語を変換して、うん、と頷く。
『眠っていていい。ここにいさせてくれたらいいから』
『うん……ごめん、眠い』
昨夜眠れなかったせいか、眠気がひどい。ツェイルが隣に腰かけたのを感じ取ったあとは、転寝どころから熟睡だった。一度、都記に無理やり起こされて、ツェイルと一緒に昼食を摂りはしたものの、そのあとも眠ってしまったくらいで、気づくと午後も中頃になっていた。
「ね、寝過ぎた……」
と、さすがに夕暮れを迎えそうになっている外の気配に、顔が引き攣る。小日向が眠っていたせいか、ずっとそばにいたらしいツェイルも眠っていたので静かだったのも、眠り過ぎた原因だろう。初めての異国、初めての外泊というのは、小日向に意外な疲労を抱え込ませていたらしい。
「ああ、漸く起きられましたね」
という都記の声は、呆れているというよりも、安堵していた。
「ごめんなさい、寝過ぎました」
「いいえ。ツェイルさまのほうも、このところはよく眠られていなかったようで、リリさんが一緒に眠ってくれてよかったと安堵しておられましたよ」
「え……ツェイルが?」
表情に乏しいせいか、そういう、体調のことも小日向には把握できなかったのだが、やはり話を聞いたあとでは、眠れていなかったということも聞くとわかる気がする。
眠れるわけもないか、と思った。
まだ眠っているツェイルは、小日向に寄りかかって膝を抱え、丸くなっている。歳上にも、一児の母にも見えないツェイルは、このときも少年のようであったけれども、寂しさや悲しさは拭えられていない。
なにもできない小日向だけれども、こうやってツェイルを眠らせてあげることは、できたらしい。
「おふたりとも、お疲れですね」
「……っぽいね」
「休まれてください。いっそすべてを忘れる勢いで」
くす、と笑いながら言った都記に、肩を竦める。
「ここに来てから、疲れることばっかりだったように思うんだけど」
「ええ。ですから、今日はゆっくり休まれてください。おやつはいかがです? 街で、クランメルという焼き菓子を試食したのですが、美味しかったので真似て作ってみました」
「クランメル! うん、あれ美味しいね。ツェイルと一緒に食べたよ。あ、ユグドさんっていう騎士と、バルサっていう精霊も一緒に食べた。都記さん、やっぱり作れたね」
料理上手な都記のそれは魅力的だ。
起こすのは忍びないが、ツェイルにも一緒に食べて欲しくて、肩を揺する。なかなか起きなかったけれども、それはつまり熟睡してくれたということで、少しそれを嬉しく思いながら、小日向はツェイルと一緒に、都記が作ってくれたクランメルもどきを食べた。
その日、紫武は帰ってこなかった。
その次の日も、そのまた次の日も、紫武は帰ってこなくて。
同じようにサリヴァンも帰ってこないから、ツェイルとずっと一緒にいた。ディアル語を勉強したり、本を読んだり、片刃の剣士でもあるらしいツェイルに剣を教えてもらったり、植物に詳しい小日向が逆にそれらをいろいろ教えたり、そんなふうにふたりで過ごした。
ふたりとも、よく眠れる日々ではなかったけれども。
押し迫る感情を、どうにかできたわけでもなかったけれども。
ただ一緒にいることで、気を紛らわせて、微笑んだ。
「ミムの芽、スールの葉、リックの根……薬になる植物が多いね、ここ」
「姉、妹、やく……やくす?」
「ん?」
「こひな、一緒」
「薬師? へぇ……こっちにも薬師っているんだね」
「あまり、いない。メルエイラ、特殊」
「めるえいら……ああ、あのメルエイラ? 聞いたことある。皇の剣、だったかな。歴史の本で読んだよ」
「もういない」
「え?」
「メルエイラ、滅ぶ。皇の剣、違う」
ツェイルの語彙が増えた頃、とりあえず通じる程度にはなっていた。それくらい、ふたりで過ごしていた。
「ツェイルは、メルエイラの人?」
「昔。今、違う」
「そっか……悲しい?」
「いい。メルエイラ、滅ぶ。自然」
「……寂しいね」
「サリヴァンさま、護る。メルエイラ、喜ぶ。いい」
そのときだけ、ツェイルは幸せそうに笑ったから、小日向も笑った。
「わたしも護れたら、いいんだけどね」
「こひな?」
「うん。わたし、なにもできないから。紫武を護れるわけじゃないし、逆に護られてるし……わたしってなんだろうって、思うようになっちゃった」
少し寂しいな、と肩を竦めると、ツェイルにぽんぽんと頭を撫でられた。
「いい子。こひな、いい子」
「はは、そうでもないよ」
「いい子」
よしよし、とまるで宥められるかのように、慰めるかのように、ツェイルに撫でられ続ける。
少しだけ、切なくなって、涙が浮かんだ。
そのときだ。
急にツェイルが、屈んでいた庭のその場所から、立ち上がる。
「ツェイル?」
どうしたのだろうと思って、小日向も追いかけて立ち上がる。
「なにか、くる」
「え?」
数日前から、なぜかツェイルは邸内でも帯剣するようになっていて、今日も腰に銀色の剣を帯びていたが、その柄を握ることはなかった。それなのに、今は剣の柄を握り、探るように周りを見渡す。
「ツェイル?」
呼びかけるが、ツェイルは周りを警戒することに集中している。
しかし。
「上っ!」
握っていた剣が鞘から抜かれるのと、その声が響いたのは同時だった。