12 : 大陸の力。2
*「」はディアル語、『』は大陸の公用語となっています。
ツェイルと歩いた。
手を繋いで、引っ張られているようなものだったけれども、その中を歩いた。
最初は静かだった道も、進むにつれて賑やかになり、今ではあちこちで公用語が飛び交っている。
ラヴァウニという街だと教えてくれたのは、ツェイルが小日向を連れて邸の外へ出てすぐ、慌てて追いかけてきた騎士だ。
「ユグドと申します。ノフィアラさま、でよろしいですか?」
この騎士は、小日向、と発音できないようだった。
「さま、とつけられるほど偉くないので、そんなに畏まらないでください」
「お客さまにそのような失礼はできかねます。お許しください」
律義な騎士は、その傍らに一匹、猫にしては大きく、犬にしては猫の顔をした獣を連れていて、そちらはバルサという名だと教えてくれた。
「猫……ですよね?」
「山猫です」
「……大きくないですか?」
「精霊ですから」
「せいれい……って、精霊っ?」
街の中で見られる生きものではない、と驚いて、改めてバルサという猫の精霊を見つめる。なぁう、と鳴いた精霊は、どう見ても猫なのだが、大きさが猫ではない。
「街では見かけませんからね……と、姫?」
歩きながら話をしていたので、ユグドという騎士が追いついてもツェイルの足は止まることなく、進行形で小日向を引っ張っている。そのツェイルの足が止まったかと思ったら、ユグドの袖を引っ張って露店を指差した。
「……貨幣をお持ちでないのですね」
と、ユグドに問われて、なぜかツェイルは首を傾げる。
ああ、と小日向は気づいた。自分にとって当たり前の言葉は、しかしツェイルには非日常の言葉だ。ユグドはとても流暢にディアル語を遣っている。ツェイルにわかるわけがない。
それをユグドに伝えた。
「ノフィアラさまの前で公用語を遣うわけにはいきません」
「え?」
なぜそんなことに、と目が丸くなる。
「わたし、べつに公用語が理解できないわけじゃないですよ?」
「ヴァリアスでは、ディアルの言語は教育の過程で教わります。それが貴族であればなおのこと、あらゆる言語の習得が必須となるのです」
客が来たら客に合わせた言語を遣い、不自由なく快適に過ごしてもらうのは当然のことだと、ユグドは教えてくれた。
「姫が遣えないのは……」
ふう、とユグドは一息入れる。
「覚える気がなかったからだそうです」
思わず視線がツェイルに移る。未だユグドの隊服の袖を引っ張って、小首を傾げていた。
「……買ってあげてください」
「すみませんがそうさせていただきます」
言葉の理解とは大切だ。身ぶり手ぶりでもどうにかなるものではあるが、困ることも多い。苦手でもとりあえずは習得していてよかったと、小日向は実感する。
ツェイルはユグドに露店の、甘そうな匂いを漂わせた焼き菓子を買ってもらい、小袋に入った一口大のそれを一つ、小日向に寄こしてきた。
「くれるの?」
こくん、と頷く。ありがとう、と礼を言って受け取ると、じっと見つめられた。今すぐ食べなければならないらしい。
「いただきます」
にこ、と笑って一口で頬張る。サクッとした食感のあと、とろりと甘い汁が口の中に広がった。
「おいひい……」
「くらんめる」
「ん?」
「くらんめる」
「クランメル?」
どうやらクランメルという焼き菓子らしい。小日向の手を取ると、ころころと手のひらいっぱいにクランメルをくれた。こんなにいっぱい、と思ったが、二つめにもすぐ手が伸びるほど、美味しい。
三つめを食べるまで小日向の様子を見ていたツェイルは、今度はユグドに振り返り、小日向と同じように手のひらにクランメルを転がした。ユグドはそれに小さく笑いながら礼を言い、バルサにも、と頼んでいる。ツェイルは屈んで、いくつかバルサにもあげていた。
「美味しいですね、このお菓子」
ぱくん、とふつうに食べているユグドにそう言うと、ユグドは仄かに笑った。
「これに合うお茶もありますよ」
「なんていうお茶ですか?」
「このクランメルは、もともとお茶になる前のもので作られていますから、クラン茶と言います」
「へえ……」
食文化の発展はどこも似たようなものだ。お茶になるもので作られる料理というのは、ディアル国にもある。
「せっかくですからご馳走しましょう。姫、移動しませんか」
蹲ってバルサと一緒に食べていたツェイルにそう声をかけて、ユグドは先のほうに見える広場を指差す。言葉は理解していないが仕草は理解したツェイルは、頷くと立ち上がり、再び小日向の手を取って歩き出した。
広場まで行く道中で、ユグドはご馳走すると言ったお茶をやはり露店で買っていた。
「もう食べたんですか」
ふたり分のお茶を持ったユグドに思わずそう言ったら、もちろん、と返された。小日向の手のひらにはまだいっぱいある。
「ゆっくりなさってください」
そう言われて、広場に隅にあった長椅子に、小日向はツェイルと並んで腰かけた。お茶を渡されて、水分に誘われて口に含むと、こちらは少し苦みのある、けれども不快にはならない味が口に広がる。なるほど、焼き菓子とは相性がよさそうだ。
お茶を傍らに置いて、焼き菓子を一つずつ、ゆっくり咀嚼する。
なんだか穏やかな時間だなぁと思っていると、同じようにツェイルも、ゆっくりと焼き菓子を咀嚼し、広場を行き買う人々を眺めていた。
「そら」
「……ん?」
「そら」
ツェイルが空を指差し、ディアル語で「そら」と言う。
「くも」
「……うん」
「とり」
「鳥だね」
「いえ」
「家というより店かな」
「猫」
「いや、バルサは精霊だって言っていたよ?」
「ていれ?」
「精霊」
「……ていれい」
「惜しいな。精霊、せいれい」
「せいれい」
ツェイルは耳がいいと思う。
いくつかディアル語で単語のやり取りをした。ユグドは傍らに控えながら、ときおり口を挟みつつ、バルサを撫でていた。
「そろそろ昼食です。邸に戻りましょうか」
「あ、そうですね。ツェイル、帰ろうか」
太陽の光りも強くなってきた頃、ツェイルが憶えた単語も増えたので、ユグドにそう声をかけられて椅子を立つ。手を繋いで歩いていたので、帰りもそうすべきかと小日向はツェイルに手を差し伸べたのだが、ツェイルはその手をじっと見つめるだけだった。
「どうしたの?」
「ここにいる」
「え?」
ふるふると首を左右に振ったツェイルに、小日向は戸惑う。ユグドが痛ましそうな顔をして、ツェイルの前に屈んだ。
「姫、帰りましょう」
「ユート、ことば、しらない」
なにを言っているかわからない、とツェイルはさらに首を左右に振る。さすがのユグドも、このときは公用語を口にした。
『帰りましょう、姫。殿下も姫と同じ気持ちです。わかるでしょう』
ツェイルに表情はない。だからなにを考えているのか、小日向には理解しようがない。けれども、なにかあるのだろうというのは、そういう場面をいくつも見ているせいか、把握することができた。
ユグドの言葉に納得したのかどうかわからないが、ツェイルは椅子を立つと小日向の手を取り、また引っ張って、邸のほうへと歩き始めた。
「ツェイル……?」
言葉がわかれば、話を聞いてあげられるのに。いや、小日向のほうは公用語をどうにか扱えるので、なにがどうしたのか訊くことはできるだろう。出逢ったばかりだが、訊いてもいいだろうか。
『ツェイル、なにか、あったの?』
公用語で、その後ろ姿に話しかけると、紐で緩くまとめられているだけの髪が大きく揺れ、驚いた顔をしたツェイルが振り向いた。
『話せるのか』
え、と思う。
『話せるけど……え? 知らなかった?』
『ディアル語しか話せないから、公用語は遣うなと……なんだ、騙された』
いや、騙されたというか、必須である習得言語を覚える気もなく生活していたのなら、習得を強要されたのではなかろうか。
『どれくらい話せる?』
『日常会話には困らない、程度かな? 専門用語になると、わからない言葉が多いかもしれない』
『けっこう話せるのか……なんだ、苦労したのに』
もしかして、ここで小日向が公用語を遣ったら、ツェイルにディアル語を習得させようとした人たちの思惑を潰してしまうことになるのでは、と思ってユグドを振り返ったら、手のひらで目許を覆い隠して項垂れたユグドがいた。
「あ……えと、ごめんなさい?」
「いえ……お気になさらず」
目論見を潰してしまったようである。しかし、ツェイルの様子が気になったのだから、許して欲しいところだ。
『礼儀を欠いて、申し訳ない。わたしはディアル語が得意ではないんだ。許してくれるだろうか』
『ああ、気にしないで。礼儀を欠いているのはこっちだから』
おもに紫武が、と言うと、喋り口調がちょっとぶっきら棒なツェイルはほっとしていた。
『こひなはいい子だ』
『そんな……失礼なことをしたのは紫武のほうだし』
なんの連絡もなく邸への滞在を強要した紫武だ。あの穏やかそうな顔をしたサリヴァンだって、最初のうちは戸惑って紫武を帰そうとしていたくらいである。それなのに気を遣われるのは、本当に申し訳ない。
『しのか……しのは、自由だな』
『自由過ぎて迷惑だけど』
『楽しいだろう』
『まったく』
あの生きものは自由が過ぎる。どうやったらあれだけ迷惑な生きものになれるのか、小日向には不思議だ。
はあ、とため息をつけば、ツェイルが仄かに笑んだ。初めて見る笑顔だ。
ちょっと、ほっとした。もともと表情に乏しいのだろうが、それでもやはり、笑えない事情をツェイルは抱えているのだろう。
『ツェイル、なにか、あった?』
『え……?』
『いや、わたしなんかが、聞いていいものじゃないのはわかってるけど、聞くだけならできるから』
一瞬だけ呆けたツェイルは、しかし次には先ほどと同じように淡く微笑む。
『こひなは、いい子だ』
ぽんぽんと、頭まで撫でられた。小日向より華奢なツェイルにそうされるのは、なんだか照れくさいというよりこそばゆい。少しだけ恥ずかしい。
『子どもが、国を離れているんだ』
『子ども?』
『五つになる』
あ、と思い出した。そういえばツェイルは女の子で、あのサリヴァンの奥さんで、一児の母なのだ。
『いろいろと、ごたごたしていて……このままだと、子どもの身が危険で……だから、逃げてもらったんだ』
『逃げてって……じゃあ』
『しばらく帰らない。いつ呼び戻せるかもわからない。すぐにどうにかすると、サリヴァンさまはおっしゃってくれたけれど……』
しゅん、とツェイルは肩を落とし、俯く。さらりと流れた淡い金の髪で、その顔は隠された。
『わたしも、行きたかった……でも、サリヴァンさまのそばも、離れたくなくて……どうしたらいいのか、わからないんだ』
つまりは、親子三人、一緒にいたいのだろう。小日向はまだ結婚していないし、その予定もないので、子どものことや旦那のことは考えられないけれども、その寂しさはなんとなくわかる。
紫武や都記と離れ離れになることがあったら、自分はどうだろう、と。
寂しいし、悲しいに決まっている。
『わたしも……今は、紫武や都記さんと一緒だから、いいけど……離れるのは、いやだな』
迷惑だなんだと思いつつも、小日向は紫武が嫌いなわけではない。むしろ紫武がいなければ、小日向は生きてもいけない。
だからけっきょく、紫武がなにをしようとなにを考えようと、なにをしでかそうと、小日向は受け入れて理解しようとするだけだ。その結果呆れたり、怒ったりするわけだが、そういう自分が嫌いではない。
『寂しいね、ツェイル……』
寂しいと、口にすることができれば、いくらかでも心は救われる。それがただの同情でしなくても、だって寂しいのだ。悲しいのだ。どうしたらいいのかわからないのだ。吐き出して、なにが悪いのだ。
『……うん、わたしは、寂しい』
ふらっと、ツェイルが小日向に倒れかかってくる。柔らかく倒れ込んできたツェイルを受け止めると、肩口に擦り寄られた。
可愛い仕草だな、と思った。
寂しいとき、人肌が恋しくなるのは小日向も同じだったから、苦笑してツェイルの背をぽんぽんと叩く。足許で、なぁう、と鳴いたバルサが、こちらを心配していた。
おまえにもわかるんだね、と小日向は目を細めた。