11 : 大陸の力。1
朝、柔らかい寝台から起きて、見渡した景色がいつもと違うことに気づいたとき、小日向は思いっきりため息をついてしまった。
帰りたい。けれども帰れない。紫武に帰る気がないから、巻き込まれて小日向はここヴァリアス帝国に留まらなくてはならない。
いっそひとりで帰ろうかとも考えたが、小日向は空間移動などという高度な魔法は使えないし、ろくに家から出たこともなければ街からも出たことがなかったので、大陸から大陸に移動する手段がまず思い浮かばない。海路であることはわかるのだが、なんの船に乗れば帰国できるのかわからないのだ。たとえ船がわかって帰国できたとしても、邸は王都の外れにあり、港から王都までの陸路すらわからないときている。
「だ、だめだ、わたし……ひとり旅もできないなんて」
今さらだが、落ち込む。研究以外にもっと勉強することがあったのではないかと気づいたところで、あとの祭りだ。自分ひとりではなにもできないのだ、とさらに気づいてしまえば、その落ち込みも半端ない。
なんてことだと己れの情けなさにふらつきながら寝台を離れ、適当に着替えて寝室を出ると、居間であるそこには食事が用意されていた。
「おはようございます、こひなさま」
「都記さん……おはようございます」
用意、というか配膳をしてくれていたのは都記だ。朗らかな笑みに、見知らぬ土地へきて落ち込んだ小日向の心は、少しだけ安堵する。
「洗面所はこちらです。ひどい顔ですよ」
「う……ちゃんと眠ったつもりなんだけどなぁ」
「緊張されましたか?」
「するよ、もちろん。わたし、街からも出たことなかったのに、いきなり国外に出たんだよ?」
「それもそうでしたね」
うっかりしていました、ととぼけた都記に、げんなりと肩が落ちる。
案内してもらった洗面所で顔を洗ってからすっきりさせると、用意してもらった朝食をいただいた。昨夜の夕食もそうだが、小日向の食事情を考慮してくれているようで、見た目は少し違っていても食べ易い。もともと食文化は似ているのだ、と都記に教えてもらった。
「ディアルはヴァリアスから派生した国、のようなものですからね。言語も、習得にはそれほど難しくありませんでしょう?」
「まあ、確かに……覚え易くはあったかな」
「街並みも特出して変わったところはありませんから、このあとはお出かけになられたらどうですか?」
「うーん……紫武は?」
出かける、となると、どうしても紫武が気になる小日向である。昔からそうなので、これはもう癖だ。
「紫武さまでしたら、今朝早くからサリエ殿下と出かけられました」
そうか、サリヴァンと出かけたのか。
と、理解しかけて顔が引き攣る。
「殿下?」
紫武もそう呼ばれていたが、都記は紫武をそう呼ばない。
「ああ、お聞きになりませんでしたか。ヴァルハラ公爵は、ヴァリアス帝国の皇弟殿下であらせられます」
思わず、うわぁ、と顔が歪む。
わたしはなんてとんでもない人の邸にお邪魔しているのだろう。そもそも紫武も、どうしてそういう大事なことを教えてくれないのか。
紫武とサリヴァンの繋がりは国と国だろうかとも思ったが、まさか互いの立場が同じだという繋がりだったとは予想外だ。サリヴァンがただの貴族ではないだろうことは雰囲気的に理解できていたが、その正体が皇弟であれば頷ける。
「……帰りたい」
どうかわたしを平穏な研究一途な生活に戻して、と切に願う。薬草や研究道具でまみれた部屋が恋しい。
「帰れますか?」
どうしてそこでそれを訊くかな、とイラッとした。
「どうせひとりで帰れないよっ」
ああすればいい、こうすればいい、ということは考えられても、出足のものがない。ほとんど手ぶらで国境を越えた小日向には、路銀をまったく持っていないのだ。都記がまとめてくれた荷物には数日分の着替えしか入ってなかった。
「帰るには惜しいと思いますがね、わたしは」
含みのある都記の言葉に、ぴくりと眉が不機嫌に歪む。
ああ、せっかく美味しかった朝食の余韻を味わえない。朝からこんなことを考えているなんて、気分も滅入る。
「お兄さんに……殺されるから?」
問えば、都記は少しだけ驚いたような顔をした。
「紫武さまから聞きましたか」
「ヴァリアスに来た理由と、六年前のこととかいうものなら、少しね」
「そうですか……いえ、わたしが言いたかったことは、そのことではないのですがね」
都記は苦笑する。その意味もわからなくて、小日向の気分は下降の一途を辿った。
「六年前っていったら、わたしが紫武に拾われた頃なんだけど……そのちょっと前ってことだよね。紫武が、お兄さんを殺し損ねたっていうのは」
「ええ」
「死にかけたって、紫武は言った」
「わたしは捕まっていたので、お助けすることができませんでした。今でも悔しいですよ」
「……捕まっていた?」
そうか、と閃く。
都記は紫武の従者だ。いつから一緒にいるのかは知らないが、六年前にはすでにそばにいて、その状況下にいたのである。紫武とオリアレムの関係を訊ねた小日向に言葉を濁したのは、その状況下にあったからこそ、口にはできないなにかがあるのだろう。
「……都記さん、今なら教えてくれる?」
「なんですか?」
「どうして紫武とお兄さんは、殺し合いなんかするの?」
朝から重い話題だ。けれども気になる。無意味な殺し合いだと紫武は理解していたから、それならなぜ今も続いているのかと、気になるのも仕方ないと思って欲しい。
小日向は紫武をオリアレムに殺されたくないし、紫武にオリアレムを殺して欲しくない。無意味だからこそ、そんな争いはやめて欲しい。
「紫武さまにお訊ねください。それが答えです」
このときも、都記はその言葉を濁し、紫武中心で世界を回らせた。いや、紫武を想うからこそ、なにも言えないだけかもしれない。
「紫武は、無意味だから殺し合うって、言ったよ」
「ではそうなのでしょう」
「無意味な殺し合いなんて、本当にあると思ってるの?」
「紫武さまとオリアレムさまが、そうでしょう?」
「そういう意味じゃない。殺し合いに、意味がないわけがないって、そういうことだよ」
ただ人を殺してみたかった、というのも、一つの意味だ。殺したかったから殺した、という意思が存在する。
だが紫武は、無意味だと言いながらそこに、義務のようなものを潜ませている。殺したいのではなく、殺さなければならないという義務、いや責任だろうか。
「……こひなさま」
ふと都記が、小さく息を吐いてから、その困ったような笑みを小日向に向けた。
「とりあえず死んでおいたほうがいい人間はいますでしょう?」
以前にも聞いた言葉だ。オリアレムがそれに該当するのだと、紫武も言っていた。
「わたしは怨恨から、オリアレムさまに対してそう思っていますが、紫武さまは違います」
「前にも聞いた」
「わたしのそれと、紫武さまのそれは、まったく意味が異なります。わたしの怨恨に、紫武さまは関係ありません」
「都記さん個人の問題だから?」
紫武を中心に世界を回す人の言うことだ。自分の想いは紫武と関係のないことだと言っても、特に違和感はない。個人が所有する独自の気持ちだとでも言いたいのだろう。
都記から紫武のことを訊き出すのは、やはり得策ではないようだ。
「……もういい」
「こひなさま?」
「紫武も都記さんも、隠しごとばっかり……わたしには、隠せるものもないのに」
小日向のすべてを知っているくせに、一方的だ。そんなのはずるい。ずっと一緒にいるのに、まるで信じられていないようで悲しい。口にできないちゃんとした理由があるなら、その理由だけでも教えてくれたら、小日向はそれだけで満足できる。それすらもおしえてくれないなんて、なんて寂しいことだ。
小日向は座っていた椅子を離れると、露台のほうへ足を向けた。窓を開けて、外の空気を中へ入れる。そのままするりと外へ出てしまうと、後ろから「こひなさまっ」と珍しく都記が慌てた声が聞こえたが、無視して露台に出て、さらに露台からも下りて地面に足をつけた。
緑に溢れた邸内は、植物を愛する小日向の心を、少しだけ落ち着かせてくれる。不思議なのは、護られている、というのが緑から伝わってくることだ。
「こひな?」
と、名を呼ばれて振り返る。森のようになっている庭の奥から、ツェイルがこちらに向かってきていた。その腰には剣が提げられていて、可愛いのにやはり男の子にしか見えない。これで歳上だというのは詐欺だよなと、小日向は思う。
「おはよう、ツェイル」
「おはよう」
簡単な単語なら昨日のうちに覚えてしまったツェイルの口から、するりと流暢なディアル語が紡がれて、少し驚いた。しかし、やはり単語しか覚えていないせいか、それ以上の言葉はなく、ゆっくりと小日向のところまで来る。
「こひな」
また呼ばれたと思ったら、見上げてきたツェイルの手のひらが、小日向の頬を撫でた。ツェイルのその顔に表情はないが、さらさらと撫でてくるぬくもりからは、心配が伝わってくる。どうやらひどく情けない顔になっているようだ。
小日向は俯き、逢ってまもないツェイルの優しさを噛みしめた。