00 : なまえ。
この物語は、ふぃっくしょん! です(古っ)。
たまに造語がありますのでお気をつけください。
冷たい雨が降っていた。
とても、とても冷たい、凍えるような冷たさの雨が、ずっと降っていた。
そんな雨の中で一際目立っていたその男は、しのぶ、と呼ばれていた。だから、しのぶ、と呼びかけたら、その男は誰もが見惚れるような美しい笑顔を浮かべた。
「なんだい?」
「どうして、おれを、たすける」
「助ける? それは違うよ。僕はきみを拾っただけ」
男は、地べたに転がっていたせいで泥だらけの服を、その綺麗な手のひらでポンポンと払ってくれた。髪まで泥だらけだったが、男はそんなことなど気にする様子もなく、汚れきった頭もくしゃくしゃに撫で回してきた。
「このところずっとここにいるけれど、寝床がないから、ここにいたんだろ? だったら、僕のところにおいで」
「……どう、して」
笑みを深めた男は、さも当然のように、それを口にした。
「生きるためだよ」
あまりにもふつう過ぎる言葉で、けれども泥だらけの怪我だらけの人間が必死に足掻いて手にしようとしているものでもあって、とても惹かれる言葉だった。
「名前は?」
「……ない」
「そう。じゃあ、僕が名前をあげる。僕はきみもさっき呼んだように、しのぶ、だ。綺堂紫武だよ」
「きどう、しのぶ?」
「シノブ・キドウと言ったほうが、わかり易いかな?」
「しのぶ、が、名前?」
「そう」
にこりと微笑む男に、頬を優しく撫でられる。とても暖かくて、とても心地よくて、うっとりとするほどだった。
「しのぶ」
「うん」
呼ぶと、返事をしてくれた男は、今まで見てきたどんな人間よりも、美しかった。
「きみは……そうだね。今日から、小日向だ」
「こひなた?」
「そう、小日向。おいで、小日向」
伸ばされた手のひらを、拒絶できるほどの力はなくて、むしろ強過ぎるほどに魅了された。
「帰ったら沐浴しようね、小日向」
「いいの?」
「なにが?」
「おれ、みたいなの、きみわるいって、おとなはいう」
「それ言ったら、僕も同じだよ。小日向と同じ目だからね」
そういえば、男と自分は同じ瞳の色だ。それは初め見る自分と同じ色だ。
ただ、男の瞳は片方が黒に近い濃紺だった。
自分はといえば、片方は男と同じでも、もう片方は薄い茶色をしている。
互いに、左右で色の違う瞳。
「しのぶは、おれと、おなじ?」
「そう、同じ。小日向は僕が気持ち悪い?」
「ううん。きれい」
「なら、同じ。小日向も綺麗だよ」
だからだいじょうぶ、と男の手に引かれた。
「帰るよ、小日向」
男が、どうして自分のような小汚ない子どもを助けてくれているのか、それはよくわからなかったけれども、暖かく優しい手のひらを知ってしまっては、振り払うこともできなかった。
「しのぶ」
男に手を引かれながら、その身長差に驚きつつも、頑張って顔を上げる。
「ん?」
「ありがとう、しのぶ」
「……どういたしまして」
一瞬だけ驚いたような顔をして、けれどもすぐにまたにっこりと笑って、男は握った手のひらを強く引いてくれた。
そうして、薄汚いただの子どもは、小日向になった。
* *
とんでもないところに来た、と思ったのは初めのうちだけで、数日はそれまでの疲れのせいか高熱にうなされ、それどころではなかった。そのせいか、いつのまにかそのとんでもなさに慣れてしまったらしい自分に、小日向は驚いた。
自分の順応の早さには、呆れる。
ついでに、もう一つ呆れた。
「あれ……男の子じゃないの?」
「ちがうけど」
自分を拾ってきた男は、小日向が男の子だと思っていたらしい。歳のわりに背が低く、成長が遅れているのもそう勘違いさせる要因の一つではあったらしいが、あとから聞いた話だと、彼は小日向に沐浴させる前からずっと、男の子なのかとその言葉遣いから勝手に判断していたらしい。
「だめ?」
「いやべつに」
一瞬だけ、男の子じゃないなら捨てられるのだろうかと、そう不安に思ったのだが、紫武はきょとんとした顔でそれを一蹴した。どうやら性別に拘りはなく、どうでもいいらしい。
「そっかぁ、女の子かぁ」
「なに?」
「うん、間違えた」
なにを、と問おうとして、紫武がそのときずっと手に持っていたものを、改めて目にした。
「僕のお古じゃ悪いと思って、買ってきたんだよね」
そう言った紫武が持っていたのは、男の子が着るような服だった。
「それ、おれに?」
「うん。でも間違えたから、買い直してくるよ」
「いいよ。きる。しのぶが、くれるから」
自分のために買ってきてくれたのなら、と小日向は嬉しくなって両腕を広げ、紫武からそれを受け取ろうとした。
「これでもいいの?」
紫武も小日向にそれを渡そうとしてくれたが、阻んだ者がいた。
「紫武さま。小日向さまは、女の子です」
そう言ったのは、小日向がここに来るときも、来てからも、小日向の身の回りを世話してくれている、雨宮都記という男だった。
「でも、いいって言ってくれたよ?」
「小日向さまがよくとも、常識的に、小日向さまは女の子です。買い直してきてください」
「……そう」
紫武がしゅんと肩を落としたので、小日向は慌てて紫武にしがみついた。
「しのぶが、くれるもの」
「こひな……」
「ありがとう、しのぶ」
「……小日向はいい子だね。どういたしまして、ありがとう、小日向」
よしよし、と頭を撫でられると、もうそれだけで胸がいっぱいになる。都記は不服そうな顔をしているが、紫武が笑っているのだ。小日向にはそれで充分である。
だから、小日向はその、真っ白で質素な白い服を着た。今まで着ていた服よりも柔らかく、心地いい肌触りに、身体が軽くなったように思った。
けれども、やはり都記が納得しなくて、結局その服は小日向の寝間着になった。寝間着ならこういった形のほうが子どもには合うのだという、都記の小日向への説得による力だ。
しかしながら、けっきょくそれから男の子が着る服が増えた。どうやら紫武の感覚は一般から途方もなくずれているようで、買ってくるものすべてが男の子が着るようなものばかりだったのだ。
そのときになって、漸く小日向は紫武が随分な金持ちであることを知り、だからこんなとんでもない邸に住んでいるのかと理解した次第だ。
「あまみやさん」
「都記でかまいませんよ」
「ときさん」
「はい」
「しのぶ、きぞくさま?」
「ええ、そうですね」
大凡それらしくなく感じるところがあるのは、きっと、とんでもない邸に住まうくせに、召使のような人がいないからだ。
小日向は、紫武と都記以外の人を、邸では見ていない。
「しのぶは、ひとり?」
「……小日向さま」
「はい」
「勉強しましょうか」
「べんきょう?」
「会話が少し、不便ですので」
紫武の話をしていたのに、都記がいきなりそんな発言をしたものだから、小日向はそれから勉強なるものを、生まれて初めて行うこととなった。
しかし、そうやって唐突に始まった勉強は、小日向に学をつけることとはなったが、都記が「会話が少し不便」と言って始めたのにも関わらず、小日向の喋り方が激変することはなかった。せいぜい、紫武と都記の名を、発音どおりに喋られるようになった程度だ。
「喋れること自体が奇跡、みたいだったものね」
「うん」
「誰とも会話したことなかったの?」
「あんまり……」
「そっか。じゃあ、仕方ないよね」
やはりこのときも、紫武はとくに拘りもせず、気にした様子もなかった。
「紫武」
「ん?」
小日向が、紫武の名をきちんと発音できるようになってからも、紫武の態度は変わらない。
「ありがとう」
「……どういたしまして」
にっこりと笑うその顔も、変わらない。
そうして、このときになって、気づいたことがあった。
「紫武さま、時間ですよ」
高熱から脱して、紫武が貴族であるらしいと知って、勉強を始めて、紫武と都記の名をきちんと言えるようになってから、約一ヵ月が経過していたが、紫武はある時間になると定期的に邸から出て行く。都記が「時間」だと知らせて、そうしてふらっとひとりで、消えるのだ。それから帰ってくるのは一時間後であったり、真夜中であったり、翌日だったりする。
「どこに行くの?」
訊ねてみた。
「散歩」
としか、紫武は答えない。
帰ってくる時間がまちまちなので、嘘か本当かもわからない答えだ。
「おれも、行く」
そう言ったことがある。
けれども、紫武は連れて行ってくれなかった。
「もう少し、小日向が元気になってからね」
にっこり笑って、流されてしまうのだ。
散歩なら、平気なのに。
そう言えればよかったのだが、言う前に紫武には逃げられた。
「……都記さん」
「はい」
「紫武は、どこ行ったの?」
「散歩です」
都記までグルになっているから、手に負えない。
「外に出たいですか?」
今日も紫武に逃げられたあと、都記に訊かれた。
べつに、軟禁されているわけでもないし、外に出るなと言われているわけでもない。出たいと思えば、外には簡単に出られる。けれども、小日向はそれができない。
「紫武が一緒じゃない。だから、いい」
「そうですか」
暖かくて優しい手のひらを知ってしまった。だから、ここから離れたくない。紫武が一緒ならば外に出る気にもなるが、そうでないならその気にはならないのだ。
「でも……」
庭には、出てみたいかもしれない。綺麗な草花や、美味しそうな果物が庭にはたくさん生えているのだ。
窓から外を、下を眺めると、紫武が外套を着た姿で出て行くところだった。
小日向は窓を開けた。
「紫武!」
上から呼ぶと、気づいてくれた紫武が顔を向けてくれた。
「行ってくるね、小日向」
ばいばい、と紫武は手を振って、ひらりと姿を消した。
本当にひらりと、まるで魔法遣いのように。
「……都記さん」
「はい」
「紫武、魔法遣いみたい」
「……そうですね」
都記は、小日向の感想に微笑むだけだった。
それからしばらくして、やはり紫武の出かける先は不明のままだったが、自由に邸内を自分の足で歩けるようになるほど体調も整い、今までくすんでいた髪に艶が戻ってくると、必然的に肌も本来の色を取り戻した。もちろん、荒れて傷だらけでガサガサしていた手のひらも、滑りがよくなった。
「小日向さま、怪我をしませんように」
「うん」
元気になった、と断言できるくらいになると、小日向は都記の後ろについて回って、手伝いをするようになった。
そんな小日向を、紫武がときどきつまらなそうな顔をして見ていることがある。
「こひな、どうして僕じゃないの?」
その頃になると、紫武は小日向を「こひな」とか「こた」とか、なんだか適当に呼ぶようになっていた。そのたび、小日向は紫武につけてもらった「小日向」という名を強調するが、一向に変える気がないのでこの頃は諦めている。
「紫武、なにもしない」
「だって家主だもの」
「都記さん、ひとりで大変」
「こひなが役に立っているとも思えないけれど」
グサッと心に痛いことを言われたが、仕方ない、身体が小さいのだ。それでも、ただ世話になるのはいやだから、小日向は都記の仕事を手伝う。それに、都記はひとりでこの邸を回しているので、手が回らないことがけっこうある。小さくとも小日向の手のひらが役立つことは、たまにあるのだ。
なにより、都記はさまざまなことを、そのちょっとした手伝いの中で教えてくれるので、それだけでも勉強になる。
「ねえ、こひな」
「小日向」
「魔法の勉強なんて、いつから始めたの?」
名を強調したのにさらりと無視さえたうえ、なんのことを言っているのかわからない紫武に、小日向は眉をひそめて首を傾げた。
「その陣、こひなの魔法陣だよね。いつのまに完成させたの」
「先頃、完成致しました」
首を傾げてばかりの小日向の代わりに、都記が答える。というか、なぜ都記が答えられているのかも、小日向には不明だった。
「あなたと同じ力を持っているだけに、やはり能力値が高いようです。呑み込みも早いので、陣の錬成にはそれほど時間がかかりませんでしたよ」
「おやまあ、予想外」
「……見越しておられたのではないのですか」
「まさか。僕はただ拾っただけだもの」
「……、そうでしたか。では、教えないほうがよかったですか?」
「いや、いいんじゃない? こひなの生きる道に、可能性が一つ増えたわけだから」
頭の上で飛び交う紫武と都記の会話に、小日向はまったくついて行けず、ますます首を傾げた。
クスッと、紫武が笑う。
「なんか、こひなが首傾げているのが、不思議なんだけれど」
「ああ、それは小日向さまが魔法遣いという言葉を知っておられたので、先入観は邪魔だと……説明しませんでしたからね」
「あらあら……やられちゃったね、こひな」
なにが、と思っても、やはり意味がわからない。
「ねえ、こひな」
「……なに?」
「魔法師になる?」
「え?」
紫武が、妖しく微笑む。少し不気味で、けれども綺麗で、不思議な人だなと小日向は思う。
「今、こひなの裡にあるその陣、魔法陣なのね」
「まほうじん?」
裡、と紫武は小日向の胸を指差したが、なんのことかわからないそんなものは、身体のどこにもないし、それ以外のどこにも見当たらない。
「説明は面倒だから、あとに回すよ。とにかくその陣、作れる人ってなかなかいないのね。こひな、作れたみたいだから、魔法師になれるの」
「まほうし、ってなに?」
「まあ、こひなの言葉で言うなら、魔法遣いかな」
「え……」
魔法遣いになれるのか、というのは理解して、驚いた。
「あ、びっくりした?」
おどけるように紫武は言い、おまけに顔が笑っているので、さっき言ったことが嘘か本当かがわからない。
「おれ、魔法遣いに、なれるの?」
「陣を作れたから、なれるよ」
さらりと肯定された。
「こひな、魔法師になる?」
そうして小日向は、魔法師になった。
誤字脱字、怪文書など、ありましたらお知らせください。
その折には優しく、お願い致します。