第76話 彩度のない日常。 〜新宿アルタ前の群衆は、全員「テクスチャの貼られたNPC」だった〜
翌朝。
目覚まし時計のアラーム音で、俺は目を覚ました。
午前11時。少し遅めのいつもの朝だ。
「寝坊か……。まあ、やることはやったし、別に誰も文句言わないだろ」
隣を見ると、ベッドの上には綺麗に畳まれた毛布だけが残されていた。
三条は、俺が寝ている間に帰ったらしい。
テーブルの上には、『ご迷惑おかけしました。お先に会社行ってます』というメモと、缶コーヒーが一本置かれていた。
「……夢じゃ、なかったか」
俺は重い体を起こし、シャワーを浴びてスーツに着替えた。
鏡に映る自分は、相変わらず目の下に隈を作った、くたびれたサラリーマンだ。
何も変わっていない。
なのに、ネクタイを締める手が、ひどく不器用なものに感じられた。
◇
電車に揺られ、会社に向かう。時間が遅いこともあって空いてて快適だ。
窓の外を流れる東京の景色は、灰色だった。
ビルも、アスファルトも、空さえも。彩度が落ちたようにくすんで見える。
(……変だな。今日は快晴のはずなのに)
スマホでニュースをチェックする。
芸能人のスキャンダル、政治家の失言、どこかの国の紛争。
文字情報の羅列。
以前なら、それを見て「世の中クソだな」と毒づいていただろう。
だが今は、それらの情報が頭に入ってこない。
まるで、自分とは関係のない「背景テクスチャ」を見ているような感覚。
会社に着くと、いつも通りの喧騒が待っていた。
「工藤さーん、昨日の修正パッチ、バグ残ってますよ!」
「あー、そっちは仕様だって言っといてくれ」
デスクに座り、PCを起動する。
キーボードを叩く感触。モニターの光。
全てが現実的で、物質的だ。
「……先輩。ここのレイアウト、また先方から変更入りました」
隣の席から、三条が声をかけてくる。
彼女もまた、昨夜のことは何もなかったかのように振る舞っている。
だが、その顔色は悪く、目の下にはファンデーションで隠しきれない隈があった。
「……分かった。俺が直す」
俺は作業に取り掛かる。
コードを書く。論理を組む。エラーを吐かせる。修正する。
かつては、この作業に誇りを持っていたはずだ。
自分の書いたコードが世界を動かしているという、ささやかな万能感。
だが今は。
虚しい。
ただの文字列の羅列にしか見えない。
俺が求めているのは、もっとこう……世界そのものを書き換えるような、ダイナミックで、熱のある「構築」だったはずだ。
(……疲れてんのかな)
俺は眉間を揉んだ。
ふと、視界の端にノイズが走った気がした。
――師匠!
聞き馴染んだような声。
金色の光。
誰かが、俺を呼んだ気がした。
「……え?」
顔を上げる。
そこには、蛍光灯に照らされた無機質なオフィスがあるだけだ。
「先輩? どうしました?」
「……いや。なんでもない」
幻聴だ。
俺は再びモニターに向き直った。
だが、胸の奥のざわめきは消えなかった。
◇
昼休み。
俺と三条は、会社の屋上でコンビニ弁当を広げていた。
空は青いはずなのに、やっぱり灰色に見える。
「……味、しませんね」
三条がサンドイッチを齧りながら呟いた。
「……ああ。ゴム食ってるみたいだ」
俺のおにぎりも、砂の味がした。
三条は膝を抱え、フェンスの向こうのビル群をぼんやりと見つめている。
「先輩。私、昨日……変な夢を見たんです」
「夢?」
「はい。……すごく、綺麗な場所の夢です」
彼女が語り始める。
「空には二つの月があって。空気は澄んでて、魔法みたいな光が溢れてて。……私はそこで、何かを作ってました。ここみたいなウェブサイトじゃなくて、もっと……世界のルールそのものを作るような、すごい仕事を」
俺の手が止まる。
既視感。
俺も、同じような光景を覚えていた。
「それから……私の隣には、いつも先輩がいて。それと、他にも誰か……」
三条が眉を寄せる。
「金色の髪の、元気な女の子。……銀色の髪の、クールで綺麗な人。……それから、妖精みたいな可愛い小さな銀色の髪の女の子」
ドキリとした。
脳裏に、映像がフラッシュバックする。
元気いっぱいに白金の剣を振るう少女。
『師匠!』と呼ぶ声。
黒い服を着て、氷の魔法を操る美女。
『マスター』と呼ぶ声。
そして、俺の膝の上で笑う、小さな天使のような少女。
『ナオト』と呼ぶ声。
「……っ!」
頭が痛い。
映像は鮮明なのに、名前が出てこない。
顔も、声も覚えているのに、肝心な部分にモザイクがかかっているみたいだ。
「……俺もだ」
俺は絞り出すように言った。
「俺も、その夢を見た。……あいつらは、俺にとって、すごく大切な……家族みたいな連中だった気がする」
「家族……」
三条が涙ぐむ。
「そう、です。私、あの子たちと喧嘩したり、笑い合ったりして……。なのに、思い出せないんです。名前も、あの子たちが誰だったのかも」
彼女は自分の胸を強く握りしめた。
「ただ、胸が苦しいんです。ここにいちゃいけないって。あの子たちを置いて、私だけこんなところにいていいはずがないって……そう叫んでるんです」
俺たちは、沈黙した。
風の音だけが聞こえる。
ビルの下からは、車のクラクションや雑踏の音が響いてくる。
平和な日常の音。
でも、それは俺たちにとっては「ノイズ」でしかなかった。
「……ここは、現実だよな?」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
痛覚もある。空腹もある。論理的な整合性もある。
どう考えても、ここが現実で、あっちが夢だ。
「でも……」
三条が俺を見た。
その瞳は、縋るように揺れていた。
「もし、こっちが『偽物』だとしたら?」
ゾクリと背筋が凍った。
偽物。
そうだ、この違和感の正体はそれだ。
この世界は、あまりにも「整合性が取れすぎている」。
バグの一つもない、綺麗すぎる箱庭。
まるで、誰かが用意した「都合のいい夢」の中にいるような。
「……確かめに行こう」
俺は立ち上がり、飲みかけのコーヒーをゴミ箱に投げ入れた。
カラン、と乾いた音がした。
「確かめるって、何をですか?」
「俺たちが忘れている『何か』をだ。……俺たちの記憶が妄想なのか、それとも、この世界が間違っているのか」
俺はポケットからスマホを取り出した。
画面には、昨夜検索した履歴が残っている。
『異世界転生』『集団幻覚』『記憶障害』。
そんなありきたりな言葉じゃ説明がつかない。
俺たちの魂に刻まれたこの喪失感は、もっと確かな『事実』の裏返しだ。
「今日はもう早退だ。……新宿に行くぞ」
「え? 新宿?」
「ああ。なんとなく、あそこに行かなきゃいけない気がするんだ」
根拠はない。
ただのエンジニアの勘だ。
システムにバグがあるなら、一番負荷がかかっている場所――情報の交差点に、その歪みが出るはずだ。
東京で一番人が集まる場所。巨大なモニターがあり、無数の情報が行き交う場所。
新宿アルタ前。
「……分かりました。付き合います」
三条も立ち上がり、涙を拭った。
その顔には、決意の色が宿っていた。
「行きましょう、先輩。……私たちの『現実』を探しに」
俺たちは会社を後にした。
上司の怒鳴り声も、納期のプレッシャーも、もうどうでもよかった。
そんなものより、もっと大切な「約束」を破っているような気がしてならなかったからだ。
電車に揺られながら、俺は窓の外を見た。
灰色の空の向こうに、一瞬、巨大な樹のシルエットが見えた気がした。
――待ってろ。
名前も思い出せない誰かに向かって、俺は心の中で呼びかけた。
必ず、思い出すから。




