第2話 【悲報】勇者様、床を踏み抜く。〜ボロ屋のパラメータを「最高級ホテル」に書き換えてみた〜
路地裏の空気は澱んでいる。
王都の華やかな大通りから一本入っただけで、景色は一変する。崩れかけたレンガ、腐った木材の匂い。
その最奥にある、傾いた二階建ての廃屋。
それが俺の拠点だ。
「……あー。余計なリソース使ったわ」
ギシギシと悲鳴を上げるドアを開け、俺は薄暗い室内に足を踏み入れた。
家具は脚の折れたテーブルと、綿の飛び出したソファだけ。
翻訳官としてこの世界に来たものの、無能の烙印を押されて追放された俺には、これくらいの物件がお似合いだ。
俺はコートを放り投げ、保存食の硬いパンをかじろうとした。
――バンッ!!
その時、背後のドアが蹴破らんばかりの勢いで開かれた。
「み、見つけました! 聖剣の主様!」
息を切らして立っていたのは、一人の少女だった。
プラチナブロンドのポニーテールが揺れ、サファイアのような青い瞳が、俺を射抜くように見つめている。
王都の広場でチラッと見かけた、白金の鎧を着た少女騎士だ。
「……誰?」
「と、とぼけないでください! 先ほど、広場で聖剣を抜いた方ですよね!?」
少女はズカズカと部屋に入り込んでくる。
埃っぽい空気に顔をしかめることもなく、彼女は俺の目の前まで迫ると、その美しい瞳をキラキラと輝かせた。
「私はエルーカ。勇者パーティーのリーダーを務めています。……ずっと探していたんです、あなたのような方を!」
「人違いだろ。俺はただの通りすがりの『何でも屋』だ」
「嘘です! あの聖剣を一瞬で手懐けるなんて、ただ者ではありません!」
エルーカは興奮気味に身を乗り出す。その瞳の中には、星のようなハイライトが走っている。
……厄介なことになった。
俺はパンを置き、ため息交じりに頭をかいた。
「あれはただのバグ修正だ。聖剣の認証設定を書き換えて、誰でも触れる『ゲスト権限』にしただけだよ」
「にんしょう……せってい? ゲスト……?」
エルーカが小首をかしげる。
やはり通じないか。この世界の住人にとって、魔法は神の奇跡だ。論理で説明しても無駄だろう。
「とにかく、俺は勇者なんて大層なガラじゃない。帰ってくれ」
「そんな! 私はあなたを……!」
エルーカが一歩踏み出した、その時だった。
バキッ!
鈍い音が響き、彼女の足元の床板が派手に抜け落ちた。
「きゃっ!?」
「あーあ……」
エルーカは片足を床に突っ込み、バランスを崩して硬直している。
築年数不明のボロ屋だ。シロアリという名のバグに侵食されたこの家は、勇者の重装備に耐えられるようには設計されていない。
「うぅ……ご、ごめんなさい……」
エルーカが顔を真っ赤にして縮こまる。
さっきまでの勢いはどこへやら、捨てられた子犬のような目だ。
「……はぁ。いいよ、どうせ直そうと思ってたし」
俺は立ち上がり、虚空に指を走らせた。
「――展開」
青白いキーボードとウィンドウが出現する。
それを見たエルーカが「ひゃっ」と声を漏らすが、無視して作業に入る。
この際だ。中途半端な修繕はやめよう。
俺はずっと我慢していたのだ。この世界の、隙間風だらけで湿っぽい住環境に。
エンジニアにとって、作業環境の快適さは生産性に直結する。
「管理者権限行使。対象エリアの『物理プロパティ』を書き換える」
俺は凄まじい速度でコードを打ち込んでいく。
新しい木材を出すんじゃない。今あるボロ屋の「設定値」をいじるんだ。
『target: Home_Object(対象:家屋)』
『set: Durability = INFINITY(耐久値:無限固定)』
『set: Insulation = Perfect(断熱性:完全)』
『set: SoundProof = True(防音:完全)』
『apply: Auto_Cleaning(自動清掃:常時オン)』
外見はボロ屋のままでいい。防犯上の迷彩になる。
だが、中身の『性能』は別だ。
俺が求めているのは、前世で唯一心が安らいだ場所――サーバー室のような、無機質で清潔で、完全に管理された空間。
「――更新!」
カッ、と部屋全体が一瞬だけ青白く発光する。
見た目は古い木材のままだが、その表面には目に見えないコーティングが施され、埃が一瞬で消滅した。
腐っていた床板が、鋼鉄以上の強度を持って再定義される。
「な……な、なんですか、これ……!?」
床から足を抜いたエルーカが、驚愕して床を触っている。
「見た目はボロボロのままなのに……ツルツルで、すごく硬くなってます! それに、空気がすごく綺麗……!?」
「ただの環境設定だ。耐久値をMAXにして、空気清浄フィルタをかけただけだよ」
俺はソファにドカッと腰を下ろした。
うん、悪くない。
見た目は綿が出たボロソファだが、座り心地のパラメータを『高級ゲルクッション』に書き換えたおかげで、雲の上にいるようだ。
「あの……あなた様は、一体……」
エルーカが恐る恐る尋ねてくる。
その瞳から、俺に対する評価が「凄腕の魔法使い」から「理解不能な大賢者」へと書き換わっていくのが見えた。
「言っただろ。ただの『何でも屋』だって」
俺はテーブルに出現させた冷たい水を一口飲み、彼女を見た。
「それで? まだ何か用か?」
「……はい!」
エルーカは立ち上がると、その場でバッと平伏した。
土下座だ。しかも、かなり綺麗なフォームの。
「お願いします! 私を、あなたの弟子にしてください!」
「……は?」
「剣の腕だけでなく、物質の理すら自在に操る神の御業……! あなた様の側で、その極意を学びたいのです!」
エルーカの瞳が、サファイアよりも眩しく輝いている。
……どうやら、完全に誤解されたらしい。
俺はただ、快適に引きこもりたいだけなのだが。
俺は深いため息をつき、ふかふかのソファに深く沈み込んだ。
この快適な「推奨動作環境」を手に入れた代償が、この面倒なヒロインだとしたら――少々、割に合わない取引かもしれない。




