第15話 デスマーチの記憶と、未完の引継書。 〜二度とバグ(不幸)は見逃さない。社畜SEの決意と、温かい朝〜
その夜、俺は久しぶりに「あの日」の夢を見た。
記憶の底に沈殿していた、冷たくて、どうしようもないエラーログの再生。
◇
カチャ、カチャ、カチャ、ッターン。
無機質な打鍵音だけが響く、深夜のオフィス。
空調の音がやけに大きく聞こえる。設定温度は24度のはずなのに、指先が凍えるように冷たい。
デスクには、飲み干した栄養ドリンクの空き瓶がタワーのように積み上げられ、コンビニ弁当の殻が散乱している。
時刻は深夜。
窓の外はまだ漆黒の闇だ。
『……工藤先輩。これ、無理ですよ……』
隣のデスクから、消え入りそうな声が聞こえた。
後輩の三条美咲だ。
彼女はモニターに突っ伏すようにして、涙目でマウスを握っていた。
いつもは綺麗にセットされているミルクティー色の髪もボサボサで、目の下には濃い隈ができている。
『クライアントからの修正依頼……「やっぱりデザイン変えて」って……もう納品8時間前ですよ? いまから全部作り直すなんて……』
『……分かってる。分かってるよ、三条』
視界が霞む。
3日連続の徹夜。カフェインの過剰摂取で、心臓が早鐘を打っているのか、それとも弱っているのかすら分からない。
今回のプロジェクトは、最初から破綻していた。
無理な納期、曖昧な仕様書、そして土壇場での仕様変更。
典型的なデスマーチだ。
俺たち現場の人間は、上層部が適当に結んだ契約の尻拭いをさせられている。
理不尽だ。
でも、ここで俺たちが止まれば、システムは完成しない。損害賠償、信用の失墜、会社の倒産――そんな言葉が重石のようにのしかかる。
『三条、お前はもう帰れ』
『え……? で、でも……』
『お前の担当分、俺が巻き取る。バックエンドの修正ついでに、フロントのデザインもいじるくらい、どうってことない』
嘘だ。
俺の作業だけでも手一杯だ。これ以上タスクを積めば、俺のキャパシティは確実にオーバーフローする。
でも、三条を見ていられなかった。
彼女はまだ入社2年目だ。才能もある。それに、人一倍努力家だ。こんな地獄で潰れていい人材じゃない。
『い、嫌です! 先輩を置いて帰るなんてできません! 先輩だって、もう限界じゃないですか!』
『俺はベテランだからな。徹夜のコツを知ってるんだよ。……ほら、いいから行け。これは業務命令だ』
俺は無理やり彼女を立ち上がらせ、背中を押した。
三条は何度も振り返りながら、泣きそうな顔でオフィスを出て行った。
『……すみません、先輩。……朝、一番で戻りますから……!』
パタン、とドアが閉まる。
静寂が戻った。
残されたのは、俺と、唸りを上げるサーバーの駆動音だけ。
「……カッコつけちゃったなぁ〜……」
俺は椅子に座り直し、冷え切ったコーヒーを流し込んだ。
「さて、やるか」
画面には、真っ赤なエラーメッセージの羅列。
まるで、世界そのものが「お前は間違っている」と否定しているようだ。
カチャカチャカチャ……。
指を動かす。思考は泥のように重い。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
現実世界は理不尽だらけだ。努力は報われないし、善意は踏みにじられる。
だけど、コードの世界は違う。
正しく書けば、正しく動く。論理は嘘をつかない。
このバグだらけのシステムを、俺の手で正常な形に戻す。それだけが、今の俺を支える唯一の矜持だった。
――そして、その時は唐突に訪れた。
ドクンッ。
心臓を、万力で握り潰されたような激痛。
「……あ、ぐっ……!?」
声にならない呻きが漏れる。
息が吸えない。肺が動かない。
視界が急速に狭まり、ノイズが走る。
指先から感覚が消え、ガクン、と首が重力に負けた。
ドサッ。
冷たい床の感触。
頬に当たるカーペットの埃っぽい匂い。
遠くで、サーバーのファンがブォォォと鳴っている。
(……あ、これ、ヤバいやつかも)
エンジニアの冷静な部分が、客観的に状況を分析していた。
虚血性心不全。過労死。システムダウン。
ああ、ニュースでよく見るやつだ。まさか自分が当事者になるとはな。
痛みはすぐに引いていき、代わりに猛烈な眠気と寒さが襲ってきた。
意識が薄れていく中で、俺はデスクの上のモニターを見上げた。
『Build Success(ビルド成功)』
緑色の文字。
よかった。とりあえず、動くようにはなったか。
これで納期には間に合う。会社も助かるだろう。
でも――。
(……わりぃな、三条)
ふと、最後に見た後輩の泣き顔が浮かんだ。
引継書、まだ書き終わってないんだよな。
このスパゲッティコードの修正履歴、あいつに説明してない。
俺が死んだら、あいつが全部背負うことになるのかな。
あいつ、真面目だから、きっと「私のせいで先輩が」って自分を責めるんだろうな。
(……ごめんな。美味しい飯、奢ってやる約束だったのにな)
未処理のタスクが、走馬灯のように駆け巡る。
もっと、マシな働き方をさせてやりたかった。
もっと、まともな仕様書を残してやりたかった。
俺の人生、バグだらけだったな。
もし、次があるなら――。
思考のプロセスが、プツリと途切れた。
シャットダウン。
暗転。
◇
「……っ!?」
ガバッ、と俺は跳ね起きた。
全身がびっしょりと冷たい汗で濡れている。
心臓が早鐘を打って、肋骨を内側から叩いていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……!」
俺は荒い息を吐きながら、周囲を見渡した。
無機質なオフィス……ではない。
俺がリノベーションした、清潔で温かい部屋だ。
窓の外からは、小鳥のさえずりと、朝の市場の活気が聞こえてくる。
生きてる。
ここは異世界だ。あの地獄のようなサーバー室じゃない。
「……夢、か」
俺は前髪をかき上げ、深く息を吐き出した。
久しぶりに見た。死ぬ瞬間の夢。
最近、忙しかったからな。フラッシュバックしたらしい。
水を飲もうと、サイドテーブルに手を伸ばすと――。
「……んぅ」
「……すぅ……」
ベッドの両脇に、重りがあった。
右には、俺の腹に足を投げ出して、だらしなく口を開けているエルーカ。
左には、俺の左腕を抱き枕のようにガッチリとホールドし、幸せそうに寝息を立てるレギナ。
「……なんでお前ら、人のベッドで寝てんだよ」
呆れ声が出た。
昨日の夜、「怖くて眠れません」とか「夜襲の警戒が必要だ」とか言って押しかけてきたんだったか。
無防備すぎるだろ。
でも、その温もりが、悪夢で冷え切った俺の体を、ゆっくりと溶かしてくれるようだった。
「んぅ……師匠……むにゃ……最強……」
「マスター……もう……食べられない……」
どんな夢を見てるんだか。
俺は苦笑して、二人の頭を撫でた。
サラサラとした髪の感触。確かな体温。
……俺は、バグが嫌いだ。
理不尽な仕様変更も、デスマーチも、報われない努力も、全部嫌いだ。
前世の俺は、それらに殺された。
後輩一人守れずに、システムの一部として使い潰された。
だからこそ、この世界では許さない。
俺の目の届く範囲で、理不尽なエラーが発生することは、俺の管理者権限にかけて阻止する。
エルーカも、レギナも、この街も。
俺がデバッグして、最高の環境にしてやる。
(……見ててくれよ、三条)
二度と、同じ失敗はしない。
俺はもう、ただの社畜じゃないんだ。
「……さてと」
俺はそっと腕を引き抜き、ベッドを抜け出した。
サイドテーブルの眼鏡をかける。
視界がクリアになり、世界のコードが浮かび上がる。
HUDの隅に、リリスからのメッセージが点滅していた。
『おはようございます、マスター。昨夜のレム睡眠中、心拍数が危険域まで上昇していましたよ。……昔の夢でも見ましたか?』
相変わらず、目ざとい。
「……ああ。ちょっとした怪談だよ」
『そうですか。……今日は少し、スケジュールを空けておきますね。たまにはサボるのも、管理者の仕事ですよ』
毒舌のくせに、こういう時は妙に気が利く。
俺は小さく笑った。
「サンキュー。……でも、まずは仕事だ」
俺はキッチンへと向かった。
まずは、この幸せそうな寝顔の居候たちのために、とびきり美味い朝飯を作るとするか。
腹が減ってはデバッグもできないからな。
カーテンを開ける。
差し込む朝日は、あの日の蛍光灯よりもずっと、温かくて眩しかった。




