私が死刑囚と会う理由
この物語に登場する国名、地名、人名、登場人物はすべて架空のものであり、実在する国、地域、人とはまったく関係がありません。
サンクエンティン共和国のほとんどすべての国民が篤く信仰するキリスト教もまた完全に架空のキリスト教の宗派であり、地球上に存在するまたは過去に存在したあらゆる宗教、宗派とはまったく関係がありません。
赤道直下の小国サンクエンティン共和国。
F・G・エスコバル第1級重罪成人矯正施設、通称エスコバル刑務所の最深部、特別監獄に今、初老の日本人が一人、錆びたパイプベッドに腰掛け、自らの死刑執行の日を待っている。
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ブー。ガチャン。
ブザー音とともに私たちの背後で重い鉄扉が閉まり、ロックがかかる。
これで私たちは自由世界と受刑者の世界、そのどちらにも属さない無色透明な緩衝地帯に隔離された。
ガチャン。ブー。
次に正面の扉のロックが外され、ブザー音とともに重い鉄扉が左右に開く。
扉の向こうには受刑者たちの世界が広がっている。
「エスコバル刑務所へようこそ!」
隣に立っている髭面のマルティネス所長が無理に明るい声を出した。
所長の言葉が終わるか終わらないかのうちに、異様な臭気が扉の向こうから漂ってきて遠慮なしに私の鼻へと入ってきた。
なんて臭いだ!
この異臭はなんだ?
これは、処理されることなく放置された排泄物、腐った食べ物と腐っていない食べ物、もう何年もシャワーを浴びていない数千数万の人間の汗と体臭が層をなして混ざり合い、それが熱帯の夏特有の40℃を超える熱気と100%に近い湿気によって熟成された臭気だ。
私はこみ上げてくる吐き気を必死で抑えた。
初めてエスコバル刑務所を訪ねてくる人間は皆同じなのだろう。前に立ち自動小銃で武装した二人の武装看守は、苦しむ若い日本人などには無関心に前を向いている。
無言で客の吐き気が収まり落ち着くのを待っている。
隣の所長はさげずむように私を見てニヤニヤ笑っている。
「ありがとう、マルティネス所長。」
襲いくる吐き気を抑え込み、ようやく私が声を出すと所長のニヤニヤが消えてくれた。
『こいつはなんで礼なんぞ言うんだ?』そんな顔になった。
「昼食を抜いて来たおかげで吐かずに済みましたよ。あなたが昨日電話で胃を空にして来た方がいいとアドバイスしてくれたおかげだ。」
「な、そうだろう!わしの言った通りだったろ!ハハハ!さあ行こう!死刑囚の収容棟は遠いぞ!まだまだ先だ!」
ようやく私たち4人は刑務所の中へと歩みを進めた。
サンクエンティン共和国の首都パトリオーレ郊外にあるこの広大な刑務所には、死刑または終身刑以上の刑に服する重犯罪者が収容されている。
刑務所内の通路は左右の鉄格子の間にあり、私たちは鉄格子の向こう側に収監されている殺気を含んだ囚人たちの目に両サイドから晒されながら歩かなければならない。
それにしても暑い。
暑すぎる。
汗が目に入る。
それに臭い。
臭すぎる。
この環境で、いったい私に重い責任が果たせるのか?
暑さと臭いで頭がどうにかなりそうだというのに、私は冷静な判断を下さなければならない。
人の命がかかっている。
ーーーーー
昨日私はエアコンの効いた大統領執務室にいた。
これがデ・サンチェス将軍か。
大型デスクの向こうに座る悪魔とも称される独裁者は痩せてとても小柄だった。
国民からはいまだに「将軍」と呼ばれている大統領は、いまだに軍服を着、腰に巻いたベルトにはいまだに拳銃を差している。これがいつもの「将軍」のスタイルだ。
拳銃はベレッタM9。旧式のアメリカ軍の公式拳銃。米軍の全面強力で政権を維持してる大統領には相応しい持ち物だ。将軍は何度もそのお気に入りの拳銃の銃口を気に入らない人間のこめかみに当て、引き金を引いてきた。
「将軍」はサンクエンティン軍の出身。それ以前の出生はわからない。
2年前にクーデターで前任の大統領を追放し自らが大統領に就任した。選挙は経ていない。
サンクエンティンから自国に大量の麻薬と不法移民が流れ込むことに頭にきたアメリカ政府は、この小さな国へ軍とCIAを派遣し、デ・サンチェス将軍を全面支援して麻薬カルテルの撲滅作戦に当たらせた。将軍は前任の大統領とその家族、閣僚とその家族、その他選挙で選ばれた民主的な国会議員たちとその家族に次々と「麻薬カルテル」のレッテルを貼り、全員処刑してしまった。
こうして大統領となった将軍は、今も人々に「麻薬カルテル」のレッテルを貼り、相変わらず処刑を続けている。
デ・サンチェスが大統領が就任してアメリカへ流れ込む麻薬と不法移民は減ったのか?
いいや。
今でも麻薬と不法移民はサンクエンティンの二大輸出産業だ。
初めて出会ったデ・サンチェス大統領の両目は髭面の奥でどんよりと濁っていた。
大統領執務室にいたのは、大統領の他には司法長官と秘密警察の長官。
それぞれに自己紹介があった。
彼らも大統領と同様に軍服を着、腰には拳銃を差している。
自己紹介のなかったのは米軍の旧式M16自動小銃を下げた護衛の兵士が扉に2人と大統領の横に1人。
その他にもう一人。
紺のスーツ上下に身を包んだ若く美しい金髪の白人女性がいた。
彼女が無骨な執務室内で異彩を放っていたのは一人だけ軍服を着ていなかったからではない。
一人だけ女性だったからでもない。
一人だけ女神のように美しかったからだ。
それはあたかもゴミ捨て場に舞い降りた天使だった。
しかもそのまばゆい天使はその青く澄んだ瞳を、私が部屋に入って来た時からずっとこちらに向けていた。
美しく、潤んだ瞳。
男なら誰だって見惚れてしまう瞳。
だが油断するな。
彼女のタイトなスーツのジャケットには、左脇にくっきりとホルスターのシルエットが浮かんでいた。
この国では天使だって武装する。
ホルスターの中に収まっているのは間違いなくシグ・ザウエルM17。現在の米軍公式拳銃。
見なくてもわかる。
そうとも。自己紹介の必要もない。
彼女はCIA。大統領のお気に入りの特別顧問。
名前を聞いたって本当の名前なんていうはずがない。
「マキノ・シンイチロウ神父を知っているか?」
司法長官が無愛想に聞いてきた。
「名前だけは知っています。面識はありません。」
「未成年者売春斡旋と麻薬取引の罪で死刑判決を受け、今エスコバルの独房にいる。」
「はい。」
「一方で、この男は表向き長年神父としてスラム街で貧しい者たちに奉仕活動をしてきた。スラムの連中はこの男をとても尊敬している。」
「はい。」
「死刑が確定した今でも多くの国民がこの男を聖者と崇めている。」
「はい。」
”はい”と言う以外に何も言いようがない。
世界最貧国のサンクエンティンには聖職者が世界中からやってきてスラムで貧しい人々のために奉仕活動をしている。彼らはたいてい聖者と呼ばれる。
珍しいことではない。
それでも牧野慎一郎神父はそんな聖職者たちの中でもずば抜けて国民から人気があった。
彼は遠く日本からやって来て30年以上サンクエンティンのスラム街に住み、無私無欲で貧しき人々のために働いてきた人物として知られている。
だが逮捕された。
1年ほど前だったか、彼は突然当局に連行された。
罪状は麻薬取引と未成年者の売買春。神父はスラム街を縄張りにして麻薬と未成年者の人身売買を行い莫大な利益を得ていたというのだ。
逮捕された時、彼は8歳の少年と一緒に彼が寝室に使っていたスラムのバラック小屋にいた。警官隊がそこに踏み込むと、神父と少年は仲良くベッドの中で怯えていた。二人とも全裸だった。
テレビや新聞やネットには逮捕時に撮られたものとして、ベットの上で驚いている裸の神父と少年の写真が公開されている。少年の顔はベッドの枕の位置にあったが、神父の顔は少年の股間にあった。ベッドには注射器が転がっていて、中からは覚醒剤が検出されたと報じられている。
私が知っているのはそれだけ。
独裁者に支配されたマスコミから得た情報だ。
スラム街の犯罪者も別に珍しいことではない。
問題はその犯罪者がキリスト教の聖職者で、さらに私と同じ日本人だということ。
いずれにしても私には関係のないことだが、大統領はそうは考えてくれないらしい。
「日本人の君に頼みたいことがある。」
司法長官が続ける。
「はい。」
「明日、そのマキノシンイチロウ神父と会ってくれ。」
司法長官はそこで話を止めた。
私が素直に「はい。わかりました。」と言うと思っているのだ。
独裁者一味は理由なんか言わなくても、みんな黙って命令に従ってくれることに慣れている。
だが私は独裁国家の国民ではない。
少なくとも理由を言ってくれなければ動かない。
もちろん理由にもよるが。
沈黙はしばらく続いた。
どうやら私が呼ばれた理由を誰が言うのか決めてなかったようだ。
司法長官の役割は命令するだけだったらしい。
別にかまわない。
それがサンクエンティン人の国民性。何事につけても行き当たりばったり。
私も焦ってはいない。
理由なんて聞きたくはない。
見ず知らずの死刑囚と会うなんて、どうせ面倒なことに決まっている。
このまま誰も何も言わなかったら丁重に挨拶をして部屋を出るつもりだ。
だがいずれCIAの彼女が何か言うだろうと予測した。
困った時、サンクエンティン政府はいつだってアメリカを頼る。
特に将軍は米軍のおかげで大統領になれたのだ。
アメリカ政府は自国へ流入する麻薬と不法移民を止めるため、デ・サンチェス将軍に武器と権力を与えた。
将軍は国を麻薬カルテルから解放すると宣言しながら、せっせと自分の嫌いな人間を殺し続け、やがてクーデターによって大統領の座を手に入れた。
大統領に殺された人間の中には彼の元妻3人も含まれている。
「マキノ神父が犯罪者なのか、あるいは国民が言うように本当の聖者なのか、君に判定してほしいのだ。」
最初誰が口をきいたのかわからなった。
甲高いハスキーな少年のような声だったからだ。
だが室内に走ったただならぬ緊張で、これが大統領の声だと了解した。
「ご説明を願います。大統領閣下。」
私は恭しく礼をした。
「マキノ神父が聖者だと世間が騒いでいる。私をキリストを処刑したピラト総督だという者もいる。気に入らない。」
大統領はそれだけ言えばもう十分だと思ったのだろう。それ以上もう何も言わなかった。
だから何だ?
私に何をしてもらいたい?
私は心の中で叫んだ。
もちろん心の中でだ。
大統領に余計なことを言えば、殺される。
これはこの国の常識。
私だってまだ死にたくはない。
だから黙って、再び誰かが何か言ってくれるのを待った。
「君はマキノ神父と同じ日本人だ。それに国連の職員で、政府とも反政府勢力とも関係がない。明日、君は神父を訪問し、中立な立場で彼が犯罪者か聖者かを判定する。」
司法長官が補足してくれた。
「マキノ神父が犯罪者だろうと聖者だろうと、私にはどうだっていい。あの男は政権の敵だ。」
再び、大統領が甲高い声を上げた。
「だが我が国は敬虔なキリスト教国だ。国民は聖者を殺した者を尊敬しない。」
「閣下、私はただの国連職員です。聖職者ではありませんし、司法関係者でもありません。犯罪者も聖者もどちらも見分ける目を持っていません。」
また誰も何も言わなくなった。
私の抗議が聞こえないのか?
「素人の私がどうやって聖者の判定をしろと言うのです?無理な仕事です。他を当たってください。」
そう言って、部屋を出て行こうとすと、ドアの両サイドに控えていた護衛兵が自動小銃の銃口を私に向けた。
「あなたに選択肢はないのよ。」
美しいCIAがここでようやく口を開いた。
小鳥のさえずりのような流暢な英語だ。
「それに、正しい判断を下す必要もない。大統領も仰った通り、どっちだっていいの。公平な第三者のあなたが神父を犯罪者と言えば、彼は犯罪者になるし、あなたが彼を聖者と言えば聖者になる。どっちだっていいのよ。第三者が判定したってことが大事なの。どっちだって政府は悪者にならずに済む。このまま神父を死刑にしてしまうと、彼は殉教者になってしまう。それが問題なの。神父が殉教者として聖者になれば、反体制勢力は彼をシンボルとして利用する。それが困るのよ。」
「私が彼を聖者と判定したら?」
「その時は政府が神父を利用する。大統領は第三者を派遣し聖者の命を救った保護者として国民から尊敬されるの。」
「他を当たってくれ。私は政治とは距離を置いている。」
美しいCIAはゆったりとこちらへ歩いて来て、私の耳に口を寄せた。
甘く艶かしい香水の香りが鼻をくすぐる。
「大統領の命令には誰も背けない。背けばどうなるか?あなたもよくわかっているでしょ」
デ・サンチェス大統領に背いた者には、「死」が待っている。
サンクエンティンで暮らす人間なら誰でも知っている。
何度も言う。
わかりきった常識だ。
いつの間にか彼女の赤いマニキュアの白い指は茶色い封筒を持っていて、それを私のスーツのジャケットの内ポケットに差し込んだ。
「この封筒の中には大統領の恩赦命令が入っている。もし神父が聖人なら。あなたはそれを取り出して、大統領の名で死刑を止め、神父を釈放する。だけどもし、神父が犯罪者なら、あなたはただ死刑を見守るだけでいい。簡単でしょ?そして同じ日本人として、神父と最後に会った政治と関係ない第三者の人間として、神父もまた我々と同じ人間だったとマスコミに向けて発表する。それだけ。」
「私はそんな発表はしない。」
「心配しないで。マスコミへの発表は私たち大統領府がします。あなたの名前でね。」
「何度も言うが、私には聖者も犯罪者も判定したことがない。」
「そんなものは必要ない!そもそも君には大統領の命令を拒否する権限もない!」
満を持して、秘密警察の長官がイライラと口を挟んできた。
「私は外国人だ。大統領に命令される立場にはない。」
私も言い返した。
「大統領はあなたを国外追放にすることもできる。」
美しいCIAが私の肩に手を置いた。
「こんなことで仕事を失いたいの?ただ明日、死刑囚と会うだけじゃない。あなたは死刑囚を救ってもいいし、救わなくてもいい。誰もあなたを責めやしない。ただ、どちらにしても、あなたが会わなければマキノ神父は処刑される。あなたは神父の最後の希望なの。わかる?彼があなたとは何の関係もない赤の他人なのは知っている。だけど、神父に生きるチャンスを与えてあげもいいんじゃない?」
「将軍には背けない。そうなんだろ?」
「そう。背けばどうなるか、ちゃんと説明した方がいい?」
「わかりました。閣下、明日マキノ神父に会いましょう。」
私は大統領に直接そう伝えた。
「彼が本当に聖者かどうか、私も知りたい。」
大統領が小さな甲高い声でつぶやいた。
「最後に一つだけ聞かせてほしいことがあります。」
「なんだ!」
司法長官もそろそろイライラしてきた。
「私はまだ彼女の紹介を受けていません。こちらのアメリカ人女性の名前を教えていただきたい。」
「会談は終わりだ!出て行け!」
秘密警察の長官が怒りを爆発させた。
すぐに感情を爆発させてしまうのはサンクエンティン人の悪い性質だ。
いや独裁政権の悪い性質かもしれない。
「クリスティン・メーガン。アメリカ大使館の二等書記官よ。」
CIAがにっこり微笑んで教えてくれた。
「結構です。」
私は部屋を後にした。




