-夢に導くフルコース- ②
こんな高級なレストランで食事をするなんて、初めての体験で緊張していたが、秋人のおかげで少し緊張が緩んだ気がした。
ベランダに近寄ってみると鍵がかかっていないので、ほんの少し開けてみる。
初夏に染まる青々とした嵐山の木々の隙間から吹き抜けてきた風が、雪子の肺をいっぱいに満たしていく。
こうすることで日々の仕事や人間関係、満員電車からタンスの角に小指をぶつけた小さなストレスまでもが、洗い流されていくようだった。
そうして嵐山の自然を味わっていると、すぐさま一品目の料理が運ばれてきた。
もちろん運んできてくれたのは、秋人である。
「窓そのまま開けててもいいよ。風、気持ちいいでしょ」
お言葉に甘えて窓を開けたままの状態にして、雪子は目の前のナプキンを手に取る。
すると持ち手の細いワイングラスに淡いゴールドのシャンパンが注がれシュワシュワという発泡音が室内に響き渡る。そしてテーブルに独特の楕円形をした、雪子の顔よりも大きなお皿が置かれる。お皿の真ん中に窪みがあり、瑞々しく光沢のあるホタルイカが鎮座していた。
「食前酒のシャンパーニュと、前菜のホタルイカと筍のマリネです」
筍、と言われてホタルイカの下を覗き込んでみると、秋人の言っている通り筍らしき食材が見える。
どうやらこのレストランは和とフレンチがマリアージュしたメニューが売りのようだ。
(確か高校生くらいの時にフレンチのテーブルマナーをやったけど……!)
正直かなりうろ覚えである。
なにしろ通っていた女子校の教育の一環で受けただけであった上に、その後コロナ禍もあり、外でフレンチを食べる機会など皆無であった。
それでも目の前に一流のシェフがいるのだ、最低限のマナーは守りたい。
雪子は折り畳まれたナプキンを丁寧に開いて膝に乗せ、強張る指先でワイングラスを手に取った。
「そんなに緊張しなくていいのに」
「いえ、作ってくれた人の手前、無礼なことはできませんから……!」
いざ、と意気込んだのはいいが、1人で飲む時に乾杯は必要なのだろうかとふと気になってしまう。
雪子にとっては重大な問題だが、きっとフレンチを嗜む人からすると、バナナはおやつに入りますか程度の問題に違いない。
そんな初歩的な質問をするのは秋人の気分を害さないか心配になったが、チラチラと秋人の顔とワインを交互に見つめても、答えは見つかるはずもなく。雪子は無知な自分の恥を忍んで、秋人に尋ねた。
「あの、1人で飲む時に乾杯はしますか……?」
そう尋ねた雪子に秋人は一瞬面喰らったような顔をして、ぶはッと吹き出したかと思うと、お腹を抱えて笑い出した。
「な、何を深刻そうな顔をしてるかと思ったら……くくっ、そんなこと考えてたの!?」
「そんなに笑うほどですか!?」
「してたしてた、眉間がぎゅーって寄ってた」
「ええっ」
笑われるほど難しい顔をしていたとは、心外である。
秋人の指摘を受けて雪子は自身の眉間に指を当ててぐりぐりとほぐしてみる。
そんな雪子の様子に秋人は柔らかな微笑を口元に浮かべ、自身もカートからワイングラスを取り出し水を注いだ。
「俺は夜も仕事があるからお酒は飲めないから、これで」
秋人のこういう優しい部分に触れるたびに、胸が締め付けられるようで苦しくなる。
雪子は少し高め腕を上げて、秋人は立ったまま少し腰を曲げて、2人はそれぞれ相手に歩み寄る。
「「乾杯」」
白葡萄の芳醇なアルコールの香りが鼻腔をくすぐって、空腹だった胃のなかに流れ込んでいく。
舌の上に残った後味はジュースのような甘ったるさはないが、大人のための品のある甘さが広がる。
元々お酒があまり強くないこともあり、雪子の頬はほんのりと色づいた。
「雪子ちゃんお酒はけっこう飲む方?」
「いえ、あんまり。ほろよいで、ほんまにほろ酔いになるタイプなので……」
でも、これくらいなら大丈夫ですと伝えたのだが、秋人は少し不安そうに表情を曇らせた。
「俺以外の男の人といる時には、飲まないでね」
ワイングラスをテーブルに置いた手が、ピクリと跳ねた。
これから素敵なフルコースが始まるとほろよいで夢見心地だったのが、急に現実に引き戻されたような感覚に襲われる。
今日は、ただ単に秋人の職場に遊びに来ただけだという感覚だった。
お見合いの話だって、断る予定だったのに。
おそるおそる秋人の方へ目線を動かしてみる。
秋人の眦がほんのりと赤く、こちらを見つめてくる目は優しい。
じわじわと雪子の頬の熱が、耳にまで広がっている感覚がする。雪子はその熱を覚ますかのようにお冷をぐっぐっと一気に飲み干して、こんな男女の雰囲気には耐えられないと話題を逸らした。
「じゃ、じゃあこちらの前菜もいただきますねっ」
「どうぞ召し上がれ」
これはきっと、自分の経験の無さを揶揄われているのだろう。
そう結論づけた雪子は、そんな自分が居た堪れなくなって、美しく飾り付けられた前菜のホタルイカを1つ、と口へ放り込んだ。
(……! 美味しいっ)
イカの変な生臭さが微塵も感じない。
プリプリとした歯応えのある弾力に、味噌の風味のソースがたまらない。
このホタルイカはスーパーの鮮魚コーナーで売っている代物とは、全くの別物。
これが本来のホタルイカの味かと、雪子は舌を巻いた。
「これ、五乙女さんが作ったんですか? これから出てくる料理も、全部?」
「うん、特別にね」
一般的にフレンチの調理場はそれぞれ部門ごとに担当が割り振られているらしい。
ソース作りが担当のソーシエや魚料理の担当のポワソニエ、前菜やスープの調理がメインのアントルメティエにフランス語で言うパン職人のブーランジェなど、店によってはさらに細かく分かれているのだという。
「五乙女さんは普段どの担当をされてるんですか?」
「名前自体はロティシエールっていう……ざっくり言うと、メイン料理とソースを作る部門だよ。このレストランではまあ、なんか色々してる人って感じかな」
「それって誰にでもできることじゃないですよね? すごい」
雪子からの尊敬の念が籠った無垢な瞳を向けられた秋人は、気恥ずかしげに頬をかいた。
「一応……自分の店を持つのが夢だからさ」
秋人の口から零れ落ちた夢の欠片に、雪子の心の琴線が小さく鳴り響いた。
「それは……とても素敵だと思います。五乙女さんなら、絶対叶えられます」
「雪子ちゃんのお墨付きとは嬉しいな。でもまあ、まだ土地も探し中だし、まだまだ先になりそうなんだけどね」
とりあえずそろそろ次の料理の準備をするから、また後で。と秋人が一旦部屋を後にする。
雪子も前菜を食べ終わったタイミングで、お手洗いに向かう。
運よくトイレには誰もおらず、雪子は手洗い場に置かれていた高級ブランドの石鹸の香りを楽しみつつ、祖母の経営していたお店を思い出していた。