-うさぎさんちの幸せご飯- ②
「吉助さん、父さん。お待たせしました」
雪子と秋人はそれぞれの前に、半月盆に乗った料理をふわりとした香りと共に運んできた。
吉助の方には卯ノ花と里芋の煮っ転がしのおばんざいが並び、冬彦の方の盆には白米とキャベツの添えられた唐揚げに、白色の味噌汁が鎮座していた。
「これは……」
「心配せずとも毒なんて入れませんよ」
ね、雪子ちゃん。と悪戯っぽく微笑まれて、雪子はこくりと頷き返す。
秋人と一緒に作った京風の味付けで作った自慢の一品であり、両者それぞれの好物であった。
特に冬彦はゆらゆらとゆらめく湯気を上げる白く染まった味噌汁を、信じられないような物を見る目で凝視している。
「こ、これは……」
「粕汁です。おばあちゃんのレシピ通り、伏見の方の酒蔵で仕入れた酒粕を溶かして作ってあります」
日本酒を作るときにできる酒粕の賞味期限は長く、半年から1年ほどもつ。
鮭に大根と人参、こんにゃくをたっぷり入れ、ねぎを散らしたお味噌汁に溶かしていただくのが、関西地方でよく食べられている粕汁である。
今回雪子が使用したのは伏見の方にある酒蔵から仕入れたもので、祖母の時にもお世話になっていたところであった。
生前、祖母からこのレシピを教わった時に父冬彦はこれが大好物だったのだと小耳に挟んだことを思い出したのだ。
冬彦は吸い寄せられるようにして、いただきます、と手を合わせてすぐさま粕汁の注がれた腕を持ち上げて、ずずず……と啜る。
「ああ、この味だ……。この味が……ずっと食べたかった。そうか、粕汁というのか。通りで今まで出会えなかったわけだ……」
トラウマさえ抱いていたあの父が、目に涙を浮かべて雪子の作った料理を「うまい、うまい」と食べている。
これが本当にあの父親なのか、それとも今目の前にいる父親の姿こそが冬彦本来の姿だったのだろうか。
信じられないようなものを見る雪子に代わって、秋人がある疑問を口にした。
「粕汁、他のところでは食べれなかったんですか」
「名前を知らなかったんだ。ただこの白い色の汁物だったことだけは覚えていた……リクエストはしてみたんだが、出てくるのはどこも白味噌を使った味噌汁だった」
「言われてみると……あんまり粕汁を置いてる店ってないですもんね」
思い出の味にようやく巡り会えた冬彦はやがて、ブルブルと手先を震わせたかと思うと、顔を覆い嗚咽を漏らした。
初対面の相手がいるのにも関わらず、冬彦は涙を堪えきれず男泣きに泣いていた。
「私は……間違えていた。あんな父親のようには絶対にならないと誓ったのに……私は、私は母に構ってもらえない寂しさから、雪子。お前に八つ当たりをしていたんだ……」
雪子の祖母であり、冬彦の母であった陽乃の結婚相手は立ち上げた事業がうまくいかず、酒と暴力に明け暮れた。見かねた陽乃はまだ幼かった冬彦を引き取って離婚したが、その時代といえば女は結婚をすれば家庭に入り、離婚した女は出戻り女だと嫌がられた。
周囲の子供達はみんな家に帰ると母親が出迎えてくれて、出来立ての料理が待っていて、家族で川の字になって眠る。そんな人々と比べると、自分の孤独感が惨めで仕方なかった。
その思いは冬彦の成長に多大な影響を与え、それが彼を追い詰め、いつしか彼の中の“女“と“母親“像を歪ませていったのである。
「もし、雪子の生き方を許容してしまったら……子供の頃の自分が救われない気がした……お前は特に、母に似ていたからな」
全てはそんな悲惨だった過去の自分を救いたい一心だったと語る冬彦を、雪子はただ黙って聞いていた。
祖母の陽乃に似ているというのは昔からよく言われていたが、今こうして父の独白を聞いていると、そのことも父を狂わせた一端であったのかもしれない。そして、母の玲子からすればそれがあまり面白くなかったのであろうということも。
でもだからと言って、雪子のトラウマが消えたわけでも、父への恐怖心が消えたわけでもない。
恐らくこの先一生、過去の悲しみが雪子の心から完全に消えるわけではない。
「冬彦さん、もう生い先短いジジイからこんなこと言われるのは嫌かもしれんけどな。これもまあ、時代やなあ」
涙ながらに自戒と後悔の念を吐き出す冬彦に、吉助が語りかけた。
「ここに来るまでも、見たやろ? このあたりもうぜーんぶ、箱みたいな家ばっかりや。この店みたいな昔ながらの日本家屋は、この京都でもほとんどなくなった」
今なお古民家が数多く残り、リノベーションをして飲食店や旅館などに改修して古民家を残そうという動きのある京都だが、吉助が子供の頃はこのあたり一帯が全て日本家屋であったのだ。
そして住む人間も、訪れる人間も時代と共に変化していく。
「町を歩いてても、みーんな外人や。聞こえてくるのも英語やら中国語やらで、ゴミはその辺に落ちとるし神社や寺で暴れとるし、舞妓さんにもちょっかいかけとる。この町でさえもそうなんや、人だって価値観だってみな変わっていく。冬彦さん、あんたも雪子さんが生まれた時に変わらなあかんかったんやな」
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
海水が少しずつ崖を侵食していくように、吹く風が土を削っていくように。
「雪子さんもわしらの時代からしてみれば、ごっつい美人さんなんやで! 」
「えっ、ええ……と」
「おいこら爺さん、雪子ちゃんにセクハラすんなよ」
「褒めただけやがな、ったく今時の若いもんはすぐにセクハラだのパワハラだの……」
と愚痴をこぼす吉助をみて、雪子はついクスクスと笑ってしまった。
その様子をみて、幾分か落ち着きを取り戻した冬彦は眦を赤くしたまま、深々と頭を下げた。
「どうか、雪子をよろしくお願いします」
――もし、冬彦が雪子を大事にできていたらもっと違う場面で、もっと和やかで祝福に満ちた場で、こう言えた世界線もあったのかもしれない。
「2人には本当にすまないことをした。特に雪子には……謝っても許されることではないと思っている」
「お父さん……」
「母さんとは離婚することになったんだ。栄一郎も家を出て、一人暮らしをすると言っている……私は田舎の方へ左遷させらることになったから、今日は別れの挨拶をするつもりだったんだ」
あの富山家との一件で、父と母の関係も終わりを迎えていたようだった。
それまでしおらしく冬彦に従っていた玲子であったが、『あなたがそんなマザコンだとは思わなかったわ、キモ。離婚よ』という台詞と共に緑色の紙が渡されたらしい。
栄一郎はすでに成人していたものの、会社で勘司絡みの悪評が広まりこちらも別部署へ異動となり出世コースから外れたという。
ギョッとして顔を見合わせる雪子と秋人に、冬彦とはそのまま言葉を続ける。
「職場でも私が女性の結婚観についてとやかく言っていたことに対して、苦情が届いていたようでね。定年になるまで、東京にもこちらにも戻れないだろう――ここにも、もう2度と来ない」
「でも……っ」
「今は私も色々と参っているからこうして落ち着いてお前と話せているが、いつまたあの激情が湧き上がるかわからない。だから、これでいいんだ――秋人くん、と言ったかな」
せめて食事が終わるまでゆっくりして行ってほしいのに、冬彦は席を立ち秋人の目の前に立った。
冬彦の顔にはこの店に訪れたばかりの時とは裏腹に、まっさらとした紙のような清々しい表情を湛えている。
「私にこう言う権利はないかもしれないが……娘を、よろしく頼む」
「もちろんです。雪子ちゃんは、俺が大切にします」
秋人の嘘偽りのない真摯な目に、冬彦は杞憂だったかとでも言いたげに小さく笑った。
「吉助さんも、ありがとうございました。私の知らなかった母のことを教えてくださって……そして、雪子。お前の料理、おいしかったよ。きっといい店になるだろうな……頑張りなさい」
そう言い残して、冬彦は扉の向こうに消えた。
その去っていく後姿を見つめていた雪子を、秋人の腕が引き寄せた。
「これでよかったんだよ、雪子ちゃん」
「そう……ですよね……ごめんなさい、涙が勝手に……」
ずっと何を考えているのかわからない父の気持ちを知れて、ようやく納得ができた。母も兄もバラバラになってしまったけれど、きっとこの形が家族にとって1番良い形なのだろう。
歪みあい憎しみあい罵りあう最後ではなく、お互いがほんのり歩み寄れた最後を迎えることができた。
きっとそうであったと思いたい。
それまで雪子の心の奥底で燻っていた靄が、澄み切った春の青空のように晴れ渡っていくのを感じた。
「吉助さんも、ありがとうございました。でも、どうして今日、父が来るとお分かりになったんですか?」
「そういえば、タイミングよすぎたよな」
あまりのタイミングの良さに疑問を抱く雪子と秋人に、吉助は唐揚げを飲み込んでニッカリと笑った。
「礼を言うなら陽乃ちゃんに、やな!」
魔法にかかった雪は、もう春が訪れても消えはしない。
希くば、変わり続ける時代の中でこの想いだけは変わりませんように――。
雪子は笑顔が満ちるこの空間で、秋人の手をそっと握り返した。




