-春を呼ぶグラタン- ②
とりあえず、立ち話もなんなんで。と、五乙女秋人に促されて、雪子は駅から少し離れたカフェに入ることになった。
雪子は近くのカフェにでもと思っていたのだが、なんと秋人は親切丁寧に予約までしてくれていたらしい。
確かにこの老若男女がひしめき合う中では、予約でもしておかないと、席が空くのを待っているだけで話題がなくなってしまいそうだ。
秋人の用意の周到さと比較して、自分の気の利かなさに申し訳ない気持ちが浮かんでくる。しかし相手はそんなことを微塵も感じさせない、爽やかな笑みを雪子に向けてくれていた。
「あははっ、なるほど。確かにこの写真だけじゃ誰が俺かわかんないな」
秋人が予約してくれていたのは、駅から少し離れた裏路地にある、レンガ調の小洒落た雰囲気のカフェだった。
いわゆる隠れ家カフェというやつなのだろう。
室内の壁を伝う観葉植物の葉が、窓から差し込む柔らかな光に照らされる。
あの京都駅のかしましい喧騒が嘘のような静けさの溶け込む空間には、淹れたてのコーヒーの香ばしい香りがふわふわと漂っている。お店の中のお客さんもまばらでありながら、ゆったりと各々の時間を満喫していた。
雪子と秋人が案内されたのは、カフェの2階にある屋根裏のようなスペースの一角で、他のお客さんの姿は見当たらない。
初対面の人と個室というのはいささかハードルが高いが、このカフェならば、そういった心配をしなくて済むだろう。
雪子は6つ上の秋人の大人の配慮が行き届いた心遣いに、すっかり感心と尊敬の念を抱いていた。
「五乙女さんが気づいてくださって良かったです」
「心配させちゃってみたいでごめんね。せめて写真に丸印でもつけておけば良かった」
爺さんももっと他に写真あったろ。そう小言を吐く秋人に、雪子は釣られるようにして笑ってしまった。
「こちら、お冷とおしぼりとメニューです。お決まりになりましたら、そちらのベルでお呼びください」
向かい合う秋人と雪子の間にグラスとおしぼりをそれぞれと、手書きのメニュー表を置いて店員がその場を離れる。
「かわいいベルだな」
テーブルの端に置かれているベルはチェーン店によくある電子の物ではなく、少し塗装の禿げている、年季の入った本物のハンドベルであった。
このタイプの呼び鈴は初めてと雪子が目を丸くすると、さらりと俺もだと秋人も笑った。
「五乙女さんも、このお店に来るのは初めてなんですか?」
「いや、前に来た時は1階に案内されてさ。その時は普通に店員さんを呼ぶスタイルだった」
どうやら2階に案内された人だけの特別サービスらしい。ラッキーだったね、という秋人に雪子も無邪気な子供のように頷いた。
「雪子ちゃんはもう何か食べてきた?」
――雪子ちゃん。
いきなり下の名前で呼ばれたことに、雪子の心は静かな水面に落ちた一枚の花びらように、小さな波紋を広げた。予期せぬ親密さに、ほんのりと頬が熱くなるのを感じた。
「……いえ、どのお店に行くかわからなかったので、何も」
「じゃあ小腹を満たすっていうよりかは、がっつりランチのセットがいいかな」
思わず振り返ってしまう見目に、非のつけどころがない、気の利いたお見合いという名の――いわゆるデートの準備ができる人だ。
きっと恋愛経験も豊富なのだろう。
名前呼ばれただけで狼狽えてしまうのは、自分の経験の少なさ故か、それとも女子校育ちの弊害なのか、はたまたその両方か。
「メニューどうぞ」
「あっ、いえ……うち、優柔不断なので五乙女さんからどうぞ」
メニューを自分側へ向けてくれるので、慌てて彼の方へ向ける。
しかし、名前を呼ばれた衝撃からか。その動きはまるで、オイルの切れたロボットのようにぎこちない。
そんな雪子の様子には気づかず、じゃあ一緒にみようとサッとメニューを横向きにさせられてしまった。
人の気遣いを無碍にもできず、雪子は秋人と一緒になってメニューを覗き込む。
少し近くなった2人の距離に、心の鈴が小さく鳴り響く。
皺の入った紙に手書きで綴られている“お昼のメニュー“という題目の下に、メインが選べるスープとバゲット付セットか、そこにプラス料金でスイーツやサラダなどの前菜付かを選べるようだ。
メインはトマトとモッツアレラ、タコのペペロンチーノ、エビとブロッコリーのグラタンの3つの種類があった。
「何にするか決まった?」
「うちはグラタンにしようかと思います」
「今日ちょっと肌寒いからグラタンもいいね。じゃあ俺はトマトのパスタで。雪子ちゃんは甘いものも好き?」
「人並みには……」
「じゃあデザートもつけよう。はい、ベルどうぞ」
秋人から手渡された小さなベル。それを手にするとまるで子供の頃、バスの降車ボタンを初めて押させてもらった時のような、くすぐったいような、そして少しだけ誇らしい気持ちが雪子の胸に湧き上がった。
振ってみるとカランカラン、と想像よりも乾いたベルの音。
すると1階から店員の声がして、注文を受けにきてくれたので、先ほど決まったセットをお願いする。
「もっとリンリンっていう感じかと思ったら、カラカラしてたね」
「うちも、おんなじことおもてました」
「俺たち気が合うね」
彼の物腰が柔らかくて包容力に溢れた優しさが、雪子の不安と警戒心で凍った心を、春の陽だまりのようにゆっくり溶かしていく。
どんなお見合い相手が来るのか。そんな待ち構えていた間の憂鬱な気持ちが、サラサラと春風に吹き飛ばされていくようだった。
「あっ、なんか爺さんから俺のこと聞いてたりする?」
「お名前と……最近まで海外にいらっしゃったことは」
「そう、フランスとイタリア。調理学校出てすぐは東京のホテルにあるレストランで」
だから先ほども流暢な英語を話していたのか、と雪子はふんふんと頷いた。
「それで、英語も話せるんですね……」
「日本に帰ってきてからあんまり使わないからだいぶ忘れたよ。パリはフランス語を話せないと冷たくあしらわれるし、イタリアにいる時は田舎の方だったこともあって、英語が通じる人が少なかったし」
フランス、イタリア。
生まれてこの方ずっと日本で培養されてきた雪子には、絵本の中の遠い国の話である。
そもそも外国にはとんと疎いので、イタリアとフランスの違いさえ曖昧なのに。
――気が合うだなんて、とんでもない。
まさか亡き祖母が用意した見合い相手が、こんなにすごい人だとは思わず雪子は愕然とした。
華々しい経歴の持ち主と短大卒業後にのほほんと数年働いているだけの自分とは、月とスッポン、桜と雑草。
あまりの経歴に差がありすぎて恥ずかしくなってくる。
「すごいですね、本場パリの星付のお店やなんて」
「そんな大したもんじゃないよ、ただ運が良かっただけ」
雪子ちゃんのことも教えてよ、とせがまれて雪子は思わず言葉に詰まった。
こんな輝かしい経歴を聞かされた後に、自分のつまらない身の上話をするのには気が引ける。
そんなに面白い話はないですよ。と念押ししたのだが、秋人は目を細めて雪子の言葉を待っている。
渋々ながら雪子は京都で生まれ、訳あって祖母に育てられたこと、短大を卒業するまでずっと女子校だったこと。就職は新型ウィルスのせいでこれまで通りの就活スケジュールが崩れ、悪戦苦闘。なんとか今の料理教室に就職できたので、細々とやっていることを話した。
「そっか、雪子ちゃんは就職時期とただ被りだったのか! さらっと言ってるけど、めっちゃ大変だったでしょ」
「絶望しましたね……授業とか企業説明会なんかも全部潰れてしまって……」
高齢の祖母と暮らしていたこともあり色々と制限が多かったものの、あの時の京都は全く観光客がいなかったこともあり、ずいぶん道が広く感じたものだ。
昨今のインバウンドで溢れかえった道を見ると、あの頃の歩きやすい京都が懐かしく思う時もある。
話の区切りがついたところで、ちょうど注文した料理が運ばれてきた。