第5話:「あなたの中に、私の答えがある」
王立魔法学院の廊下に、夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。マリアンヌは窓辺に佇み、遠くを見つめていた。彼女の瞳には、不安の色が濃く映っている。
「私に、本当にできるのかしら……」
魔法大会本選が近づくにつれ、マリアンヌの心は重くなっていった。予選での成功は、彼女にとって両刃の剣だった。周囲からの期待が高まる一方で、自分の力量への不安も膨らんでいたのだ。
そんなマリアンヌの姿を、エリーゼは少し離れた場所から見つめていた。マリアンヌの不安げな表情に、エリーゼの胸が締め付けられる。
「どうしよう……」
エリーゼは内心で葛藤していた。マリアンヌを励ましたい。でも、どうやって声をかければいいのか。身分の壁を越えて、友人として接することへの躊躇いが、まだエリーゼの心の中に残っていた。
しかし、マリアンヌの孤独な背中を見ているうちに、エリーゼの中で何かが動いた。
「……行こう」
エリーゼは深呼吸をし、ゆっくりとマリアンヌに近づいていった。
「マリアンヌ」
エリーゼの声に、マリアンヌはハッとして振り返った。
「あ、エリーゼさん……」
マリアンヌの声には、驚きと同時に、かすかな安堵の色が混じっていた。
「大丈夫? 少し元気がないように見えるけど」
エリーゼの優しい声に、マリアンヌの目に涙が浮かんだ。
「私……怖いんです。みんなの期待に応えられるか、自信がなくて……」
マリアンヌの言葉に、エリーゼは思わず手を伸ばした。そっとマリアンヌの肩に触れる。
「私にも、よくわかるわ。期待に押しつぶされそうになる気持ち」
エリーゼの言葉に、マリアンヌは驚いたように目を見開いた。
「エリーゼさんでも、そう感じることがあるんですか?」
「ええ、たくさんよ。でも……」
エリーゼは少し考え込むように目を伏せた。そして、決意を固めたように顔を上げる。
「私たちで、一緒に特訓しない?」
「え?」
「互いの長所を学び合えば、きっと二人とも強くなれるはず」
マリアンヌの目が輝いた。
「本当ですか? でも、どこで……」
「屋上はどう? 誰も来ないから、秘密の特訓ができるわ」
エリーゼの提案に、マリアンヌは小さく頷いた。二人の目が合い、そこに小さな希望の光が灯った。
その夜、学院の屋上に二人の姿があった。月明かりが二人を優しく照らしている。
「まず、基本から見直してみましょう」
エリーゼの声が、静かな夜空に響く。マリアンヌは真剣なまなざしでエリーゼの動きを追う。
「魔力を集中させて……そう、ゆっくりと形にしていくの」
エリーゼの手から、美しい光の球が現れた。その完璧な形に、マリアンヌは息を呑む。
「綺麗……」
「あなたも試してみて」
マリアンヌは深呼吸をし、目を閉じて集中する。彼女の手から放たれた魔力は、不規則に揺らめきながらも、徐々に形を整えていく。
「すごいわ、マリアンヌ!」
エリーゼの声に、マリアンヌは目を開けた。彼女の手の中には、エリーゼのものとは違う、独特の輝きを放つ光の球があった。
「これが……私の魔法?」
「ええ、あなたにしか作れない、特別な魔法よ」
エリーゼの言葉に、マリアンヌの頬が赤く染まる。二人は互いの魔法を見つめ、小さく微笑み合った。
◆
月明かりに照らされた王立魔法学院の屋上。静寂の中、二人の少女の姿があった。エリーゼとマリアンヌは、互いに向き合って座っている。周りには魔法の教科書や古い巻物が散らばっていた。
「もう一度よ、マリアンヌ。魔力の流れをもっと意識して」
エリーゼの声は優しくも厳しかった。マリアンヌは目を閉じ、深呼吸をする。
「うん……わかった」
マリアンヌの手から、淡い光が漏れ始めた。それは徐々に形を変え、複雑な幾何学模様を描き出す。
「そう、その調子よ!」
エリーゼは思わず身を乗り出し、マリアンヌの肩に手を置いた。その温もりに、マリアンヌは一瞬集中を乱しそうになったが、すぐに持ち直す。
「エリーゼさん、見て!」
マリアンヌの魔法が完成した。それは、エリーゼの教えた通りの形を保ちつつも、どこか独特の生命力を感じさせるものだった。
「素晴らしいわ、マリアンヌ!」
エリーゼは思わずマリアンヌを抱きしめた。マリアンヌは、その突然の親密さに驚きつつも、エリーゼの体温を感じて心地よさを覚えた。
「えへへ、エリーゼさんのおかげです」
マリアンヌは照れくさそうに頬を赤らめる。エリーゼは、マリアンヌの髪を優しく撫でた。
「さて、今度は私の番ね」
エリーゼが立ち上がると、マリアンヌも続いて立ち上がった。二人の手が偶然触れ合い、小さな電流が走るのを感じる。
「エリーゼさん、もっと自由に感じてみて。魔法は生き物みたいなものだから」
マリアンヌの言葉に、エリーゼは少し困惑の表情を浮かべた。
「自由に……? でも、理論どおりにやらないと」
「うーん、どう説明したらいいかな」
マリアンヌは考え込んだ後、ふと思いついたように立ち上がった。
「エリーゼさん、目を閉じて」
エリーゼは戸惑いつつも、言われた通りに目を閉じる。すると、マリアンヌがそっとエリーゼの後ろに立ち、その肩に手を置いた。
「私の動きに合わせて、体を動かしてみて」
マリアンヌはゆっくりとエリーゼの体を揺らし始めた。まるで風に揺られる木々のように。
「感じて……魔法の流れを」
マリアンヌの囁きが、エリーゼの耳元で響く。エリーゼは、徐々に体の緊張がほぐれていくのを感じた。
「今よ、エリーゼさん」
エリーゼの手から、柔らかな光が溢れ出した。それは、彼女がこれまで作り出したどの魔法とも違う、生命力に満ちたものだった。
「わ……」
エリーゼは驚きの声を上げた。マリアンヌは、嬉しそうに笑顔を見せる。
「できたわ、エリーゼさん!」
二人は顔を見合わせ、思わず笑い出した。その瞬間、二人の間に流れる空気が変わったように感じた。それは、互いへの信頼と理解が深まった証だった。
夜が更けていく中、二人の特訓は続いた。時には激しい議論になることもあったが、そのたびに互いの考えを理解し、新たな発見をしていく。エリーゼの精緻な理論とマリアンヌの自由な発想が、少しずつ融合していくのが感じられた。
特訓の合間、二人は肩を寄せ合って座り、夜空を見上げていた。
「ねえ、マリアンヌ」
「うん?」
「私たち、こうして一緒にいると、何だか不思議な気持ちになるわ」
エリーゼの言葉に、マリアンヌはそっと頷いた。
「うん、私もそう思う。エリーゼさんといると、何だか心が落ち着くの」
二人は黙ったまま、互いの温もりを感じていた。その沈黙は、言葉以上に多くのことを語っているようだった。
夜風が二人の髪を優しく撫でる。エリーゼは無意識のうちに、マリアンヌの肩に頭を寄せた。マリアンヌは、その重みを感じながら、静かに微笑んだ。
二人の絆は、魔法の光のように、静かに、しかし確実に輝きを増していった。それは、これから二人が歩む道を照らす、かけがえのない光となっていくのだった。
◆
ある夜、特訓の合間の休憩時間。二人は屋上の手すりに寄りかかり、夜景を眺めていた。
「ねえ、マリアンヌ」
「はい?」
「あなたは、何になりたいの?」
エリーゼの問いに、マリアンヌは少し考え込んだ。
「私は……誰かの役に立つ魔法使いになりたいです。でも、それ以上に、『自分』になりたいんです」
「自分?」
「ええ。平民の娘だからとか、特別な才能があるからとか、そういうことじゃなくて。ただ、マリアンヌ・ラヴェンダーとして、胸を張って生きていける人間になりたいんです」
マリアンヌの言葉に、エリーゼは強く心を打たれた。
「私も……同じよ」
「エリーゼさん?」
「私も、ただのフォン・ローゼンクランツ家の娘じゃなくて、エリーゼという一人の人間として認められたい」
二人は互いの目を見つめ合った。そこには、同じ願いを持つ者同士の深い共感があった。
「私たち、似てるんですね」
マリアンヌが小さく笑う。エリーゼも釣られて笑顔になる。
「ええ、本当にそうね」
月明かりの下、二人の姿が少し近づく。
「ねえ、マリアンヌ」
「はい?」
「私、あなたの中に答えがある気がするの」
「答え……?」
「ええ。私が誰で、何になりたいのか。そんな答えが」
エリーゼの言葉に、マリアンヌの胸が高鳴る。
「私も……エリーゼさんの中に、私の答えがある気がします」
二人の手が、そっと重なる。その温もりに、互いの心が大きく揺れた。
「マリアンヌ……」
「エリーゼさん……」
二人の顔が、ゆっくりと近づいていく。唇と唇の距離が縮まっていく。そして――
「誰かいるの?」
突然聞こえた声に、二人は慌てて離れた。見れば、そこには夜間巡回のセレーネの姿があった。
「エリーゼ様? こんな時間に何を……」
「セ、セレーネ! ちょっと星を見ていただけよ」
エリーゼは取り繕うように答える。マリアンヌは俯いたまま、動けずにいた。
「もう遅いですから、お部屋にお戻りください」
「ええ、わかったわ」
エリーゼはマリアンヌに小さく頷きかけ、セレーネについて行った。去り際、彼女は後ろを振り返る。そこには、月明かりに照らされたマリアンヌの姿があった。
二人の胸に、言葉にできない想いが広がっていく。それは、まだ名付けられない、でも確かな感情だった。
マリアンヌは、エリーゼの背中が見えなくなるまで見送った。そして、夜空を見上げる。
「エリーゼさん……私、きっと見つけられる気がします。私たちの答えを」
星空の下、マリアンヌの決意の言葉が静かに響いた。王立魔法学院の夜は更けていく。二人の心の中で、新たな感情が芽生え始めていた。それは、やがて大きな花を咲かせることになるのだろう。