第4話:「私の心は、もう決めているのかもしれない」
王立魔法学院の廊下に、重々しい足音が響いた。エリーゼの父、アルフレッド・フォン・ローゼンクランツ伯爵が、厳めしい表情で歩いてくる。その隣には、エリーゼの母ヘレナが、優雅な歩調で寄り添っていた。
エリーゼは背筋を伸ばし、両親を出迎える。
「お父様、お母様。わざわざお越しくださって」
彼女の声には、緊張が滲んでいた。
「エリーゼ」
父アルフレッドの声は、氷のように冷たかった。
「大切な話がある。私室に案内しなさい」
エリーゼは黙って頷き、両親を自室へと導いた。部屋に入ると、アルフレッドは早速本題に入った。
「エリーゼ、お前に政略結婚の話が来ている」
その言葉に、エリーゼの体が凍りついた。
「相手は隣国の王子だ。この縁談が成立すれば、我がフォン・ローゼンクランツ家の地位は磐石となる」
母ヘレナが柔らかく微笑みながら続けた。
「素晴らしい話でしょう、エリーゼ。あなたの将来が、これで保証されるのよ」
エリーゼは言葉を失った。彼女の中で、様々な感情が渦を巻いていた。しかし、表情には何も出さない。
「……お父様、お母様。少し考える時間をいただけませんか」
アルフレッドは眉をひそめた。
「何を迷う必要がある。これはお前の義務だ」
「わかっています。ですが、少し時間が欲しいのです」
エリーゼの声は震えていたが、目は決然としていた。アルフレッドはため息をつき、渋々同意した。
「わかった。だが、長く待たせるなよ」
両親が去った後、エリーゼは窓辺に立ち、遠くを見つめた。心の中で、激しい葛藤が起きている。
そんなエリーゼの姿を、偶然廊下を通りかかったマリアンヌが目にした。彼女は、エリーゼの険しい表情に胸を痛めた。
「エリーゼさん……」
マリアンヌは小さく呟いた。彼女は何か力になりたいと思ったが、身分の差を考えると、簡単には声をかけられない。
しかし、エリーゼの孤独な背中を見ていると、マリアンヌの中で何かが動いた。
「勇気を出さなきゃ」
そう自分に言い聞かせ、マリアンヌはそっとエリーゼの部屋のドアをノックした。
「誰?」
エリーゼの声が響く。
「マリアンヌです。少しお話してもいいですか?」
一瞬の沈黙の後、ドアが開いた。エリーゼの顔には、疲れの色が濃く出ていた。
「どうしたの?」
「あの、何かあったんですか? 顔色が悪いようですけど……」
マリアンヌの心配そうな眼差しに、エリーゼは思わず目を逸らした。
「別に。何でもないわ」
しかし、その言葉とは裏腹に、エリーゼの肩は小刻みに震えていた。マリアンヌは、勇気を振り絞って一歩前に出た。
「エリーゼさん、無理しなくていいんです。辛いことがあったなら、話を聞かせてください」
その言葉に、エリーゼの中で何かが崩れた。
「私……政略結婚を迫られているの」
マリアンヌは息を呑んだ。
「そんな……」
「家族の期待に応えなければいけない。でも、私の心は……」
エリーゼの声が途切れた。マリアンヌは、思わずエリーゼの手を取った。
「エリーゼさんの心は、何て言ってるんですか?」
その問いに、エリーゼは初めてマリアンヌの目をまっすぐ見た。
「私の心は、もう決めているのかもしれない。でも、それを認めるのが怖いの」
マリアンヌは、エリーゼの言葉の意味を直感的に理解した。彼女の胸に、温かいものが広がる。
夕暮れ時のエリーゼの部屋は、オレンジ色の柔らかな光に包まれていた。窓辺に立つエリーゼの横顔が、その光に照らされて輝いている。彼女の瞳には、迷いと苦悩の色が浮かんでいた。
マリアンヌの胸の内には、エリーゼへの深い愛情と、彼女の苦悩を何とか和らげたいという強い願いが渦巻いていた。
「エリーゼさん……」
マリアンヌの声が、静かな部屋に響く。エリーゼはゆっくりとマリアンヌに向き直った。その目には、小さな涙の粒が光っていた。
「マリアンヌ……私、どうすればいいの?」
エリーゼの声は、か細く震えていた。マリアンヌは、一歩、また一歩とエリーゼに近づいていく。
「エリーゼさん」
マリアンヌは、優しくエリーゼの手を取った。その手は冷たく、小刻みに震えている。
「エリーゼさん、あなたの人生はあなたのものです」
マリアンヌの声は、静かでありながら力強かった。彼女の瞳には、エリーゼへの深い愛情と、揺るぎない信念が宿っていた。
「家族の期待も大切かもしれません。でも、それ以上に大切なのは、あなた自身の幸せじゃないですか?」
エリーゼの目が大きく見開かれた。マリアンヌの言葉が、彼女の心の奥深くまで響いていく。
「私の……幸せ?」
エリーゼの声は、まるで初めてその言葉を口にするかのように、不確かだった。
「そう、あなたの幸せよ」
マリアンヌは、エリーゼの両手をしっかりと握り締めた。その温もりが、エリーゼの冷たい手に少しずつ広がっていく。
「エリーゼさんが笑顔でいられること。エリーゼさんが自分の意志で選んだ道を歩めること。それが、あなたの幸せじゃないかしら」
マリアンヌの言葉に、エリーゼの目から涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、長い間押し殺してきた自分の本当の気持ちに気づいた時の、解放の涙だった。
「でも……家族を失望させてしまうわ」
エリーゼの声は、まだ迷いを含んでいた。マリアンヌは、優しく微笑んだ。
「エリーゼさんが幸せでいることが、きっと最終的には家族の願いでもあるはず。今はわかってくれないかもしれない。でも、いつかきっと……」
マリアンヌは、そっとエリーゼを抱きしめた。エリーゼは、その温かな腕の中で、少しずつ力を抜いていく。
「マリアンヌ……ありがとう」
エリーゼの声は、涙で濡れていたが、同時に小さな希望の光も含んでいた。
「私……考えてみる。本当の私の幸せが何なのか」
マリアンヌは、エリーゼの背中をそっと撫でた。二人の姿が、夕陽に照らされて一つの影となって床に映る。その瞬間、部屋の空気が少し変わったように感じた。それは、新しい決意と希望の始まりを告げるかのようだった。
窓の外では、夕焼け空が徐々に深い紺碧へと変わりつつあった。それは、エリーゼの心の中の変化を映し出すかのようだった。彼女の人生に、新しいページが開かれようとしていた。
二人は静かに見つめ合った。その瞬間、二人の間に流れる感情が、言葉以上に雄弁に語っていた。
突然、廊下から足音が聞こえた。エリーゼは慌てて姿勢を正し、マリアンヌから距離を取った。
「もう行かなきゃ」
マリアンヌは頷き、部屋を後にした。しかし、去り際に彼女は小さく呟いた。
「エリーゼさん、私は、あなたのどんな選択をも、必ず支持します」
その言葉が、エリーゼの心に深く刻まれた。
その夜、エリーゼは再び窓辺に立っていた。月明かりが彼女の横顔を柔らかく照らしている。
「やはり……私の心は、もう決めているのかもしれない」
彼女は、マリアンヌとの会話を思い出しながら呟いた。その瞳には、もはや迷いはなかった。
王立魔法学院の夜は静かに更けていく。エリーゼの決意と、マリアンヌの想い。二人の心が確実に近づいていく中で、彼女たちの運命は、新たな局面を迎えようとしていた。