幕間「私にも……居場所があるのかもしれない」
月明かりが窓から差し込む静寂の中、セレーネは小さなランプの灯りを頼りに日記を書いていた。ペンを走らせる音だけが、彼女の小さな部屋に響いている。
『今日もエリーゼ様は、あの平民の娘マリアンヌと一緒にいた。二人の関係が日に日に深まっていくのを見るのは、正直辛い。でも、エリーゼ様の笑顔を見ていると、何も言えなくなってしまう。
私はエリーゼ様の幼なじみで、侍女として仕えている。幼い頃から、エリーゼ様のことを慕っていた。あの凛とした佇まい、知性溢れる瞳、そして時折見せる弱さ。すべてが愛おしくて、守りたくて……。でも、私の想いは決して叶わないことも分かっている。
エリーゼ様の隣には、いつもマリアンヌがいる。二人で肩を寄せ合って本を読んだり、廊下で密かに手を繋いだりする姿を見ると、胸が締め付けられる。嫉妬? そう、きっとそうなのだろう。でも、それ以上に感じるのは、切ない気持ち。
今日、図書館で二人の様子を見ていたら、エリーゼ様がマリアンヌの髪を優しく撫でていた。マリアンヌは頬を赤らめ、嬉しそうに目を細めていた。その瞬間、私は思わず息を呑んでしまった。エリーゼ様が、あんなにも柔らかな表情を見せるなんて……。
私は慌てて目をそらした。でも、その光景が頭から離れない。エリーゼ様の指が、マリアンヌの髪をそっと梳いていく様子。マリアンヌの頬の赤み。二人の間に流れる空気。それらすべてが、私の心を掻き乱す。
自分の気持ちに気付いたのは、いつ頃だっただろう。エリーゼ様への想いが、単なる忠誠心以上のものだと分かったのは。おそらく、エリーゼ様が初めて涙を見せてくれた日だろうか。あの日、エリーゼ様は家族の期待に押しつぶされそうになっていた。私は、エリーゼ様を抱きしめることしかできなかった。その時、エリーゼ様の体温を感じながら、「この人を守りたい」と強く思った。
でも、今のエリーゼ様を守っているのは、私ではなくマリアンヌだ。
マリアンヌのことは嫌いになれない。彼女は純粋で、優しくて、エリーゼ様のことを心から想っている。そんな彼女を憎むことなんてできない。むしろ、彼女の存在がエリーゼ様を変えていったことに、感謝さえしている。
昨日、廊下でマリアンヌとばったり出会った。彼女は少し驚いた様子だったが、すぐに柔らかな笑顔を見せてくれた。
「あ、セレーネさん。こんにちは」
マリアンヌがそう言って、私に近づいてきた。
「こんにちは、マリアンヌさん」
私は平静を装って答えた。
「あのね、セレーネさん。エリーゼのこと、いつもありがとうございます」
マリアンヌの言葉に、私は思わず目を見開いた。
「エリーゼが言っていたの。セレーネさんがいつも支えてくれて、本当に心強いって」
マリアンヌの目には、感謝の色が浮かんでいた。私は、胸が熱くなるのを感じた。
「いえ……私は当然のことをしているだけです」
「でも、それがエリーゼにとってどれだけ大切かって、私にも分かるの」
マリアンヌが、そっと私の手を取った。その温もりに、私は少し戸惑った。
「セレーネさんも、私たちの仲間だと思っています。これからも、エリーゼのこと、一緒に支えていけたらいいな」
マリアンヌの言葉に、私は何も答えられなかった。ただ、小さく頷くことしかできなかった。
マリアンヌが去った後、私は長い間その場に立ち尽くしていた。彼女の言葉が、私の心に深く刻み込まれていく。
エリーゼ様を想う気持ちは、きっと永遠に変わらない。でも、その想いの形は少しずつ変わっていくのかもしれない。エリーゼ様の幸せを願うこと。それが、私の新しい「想い」の形なのかもしれない。
今夜も、窓から月が優しく私を見つめている。ペンを置き、深く息を吐く。明日からも、私はエリーゼ様の侍女として、全力で仕えていく。そして、エリーゼ様とマリアンヌの関係を、静かに、でも確かに見守っていく。それが、今の私にできる最善のことだと信じている。』
セレーネは日記を閉じ、ゆっくりとベッドに横たわった。明日への決意と、複雑な想いが胸の中でぐるぐると渦を巻いている。彼女は目を閉じ、エリーゼの笑顔を思い浮かべた。その笑顔が、彼女の心に少しずつ安らぎをもたらしていく。
翌朝、セレーネはいつもより早く目覚めた。鏡の前で髪を整えながら、彼女は自分に言い聞かせるように呟いた。
「今日も、エリーゼ様のために……」
そう言いながら、彼女の唇には小さな、しかし確かな笑みが浮かんでいた。
朝食の準備をしていると、エリーゼが部屋から出てきた。
「おはよう、セレーネ」
エリーゼの声に、セレーネは振り返った。
「おはようございます、エリーゼ様」
セレーネは丁寧にお辞儀をした。エリーゼは、少し困ったような表情を浮かべた。
「ねえ、セレーネ。私たち幼なじみでしょう? もう少しくだけた感じで接してくれてもいいのよ」
エリーゼの言葉に、セレーネは戸惑いを隠せなかった。
「で、でも……私は侍女ですから」
「そうね。でも、それ以上に大切な友達よ」
エリーゼがそう言って、セレーネの手を取った。その温もりに、セレーネは思わず顔を赤らめた。
「エリーゼ様……」
「ほら、また『様』付けして。セレーネ、私たちの間では、もっと自由に話してもいいのよ」
エリーゼの目には、優しさと期待が浮かんでいた。セレーネは、小さく頷いた。
「は、はい。エリーゼ……」
エリーゼは満足そうに微笑んだ。
「そうそう、その調子よ。ねえ、今日の午後、マリアンヌと湖に散歩に行くの。セレーネも一緒に来ない?」
その誘いに、セレーネは驚きを隠せなかった。
「え? 私も、ですか?」
「ええ、もちろん。マリアンヌも、セレーネに来てほしいって言ってたわ」
エリーゼの言葉に、セレーネは複雑な感情を覚えた。嬉しさと戸惑い、そして少しばかりの不安。でも、エリーゼの笑顔を見ていると、断る理由が見つからなかった。
「分かりました。ご一緒させていただきます」
エリーゼは嬉しそうに手を叩いた。
「やった! 楽しみにしていてね」
そう言って、エリーゼは朝食の席に着いた。セレーネは、その後ろ姿を見つめながら、小さくため息をついた。
午後、三人は湖畔を歩いていた。エリーゼとマリアンヌが前を歩き、セレーネは少し離れて後ろをついていく。
「ねえ、セレーネ。もっと近くに来てよ」
マリアンヌが振り返って、セレーネに手を差し伸べた。セレーネは躊躇したが、マリアンヌの優しい笑顔に、ゆっくりと歩み寄った。
「そうそう、こっちこっち」
マリアンヌはセレーネの手を取り、自分とエリーゼの間に立たせた。セレーネは、突然の近さに戸惑いを感じた。
「ほら、みんなで手を繋ごう」
エリーゼがそう言って、セレーネの左手を取った。右手はマリアンヌが握っている。セレーネは、二人の温もりに包まれて、心臓が早鐘を打つのを感じた。
「セレーネの手、冷たいわね」
エリーゼが心配そうに言った。
「大丈夫? 風邪でも引いたの?」
「い、いえ。大丈夫です」
セレーネは慌てて答えた。実際は、緊張で手が冷たくなっていただけだった。
「でも、心配だわ」
エリーゼはそう言って、セレーネの手をもっと強く握った。その優しさに、セレーネは胸が締め付けられるのを感じた。
「ねえ、あそこで休憩しない?」
マリアンヌが、湖畔の大きな木を指さした。三人はその木の下に腰を下ろした。
風が優しく吹き、木々のざわめきが心地よい。セレーネは、エリーゼとマリアンヌの間に座っている。二人の肩が、時折セレーネの肩に触れる。その度に、セレーネは小さな電流が走るのを感じた。
「ねえ、セレーネ」
マリアンヌが、突然セレーネに向き直った。
「私、セレーネのこと、もっと知りたいな。エリーゼの大切な人だもの」
マリアンヌの言葉に、セレーネは驚いた。
「私のことを……ですか?」
「うん。セレーネの好きなものとか、趣味とか。それに、エリーゼとの思い出話も聞きたいな」
エリーゼも頷いた。
「そうね。私たちの幼い頃の話、マリアンヌに聞かせてあげて」
セレーネは、二人の期待に満ちた目を見て、少しずつ緊張がほぐれていくのを感じた。
「そうですね。では、お話しさせていただきます」
セレーネは、ゆっくりと思い出を語り始めた。エリーゼと初めて出会った日のこと、二人で秘密の隠れ家を作ったこと、エリーゼが初めて魔法を使えた時の喜びを分かち合ったこと……。
話をしているうちに、セレーネの表情はどんどん和らいでいった。エリーゼとマリアンヌは、セレーネの話に聞き入っている。時折、エリーゼが懐かしそうに笑ったり、マリアンヌが感動した様子で目を輝かせたりする。
気がつけば、夕日が湖面を赤く染め始めていた。
「あら、こんな時間」
エリーゼが空を見上げて言った。
「そろそろ帰らないと」
三人は立ち上がり、ゆっくりと学院への帰路についた。帰り道、セレーネは少し前を歩くエリーゼとマリアンヌの後ろ姿を見つめていた。二人の肩が時折触れ合い、小さな笑い声が聞こえてくる。
セレーネは、胸に湧き上がる複雑な感情を抑えきれずにいた。羨望、切なさ、そして……幸せ。エリーゼの幸せそうな姿を見て、セレーネの心は不思議と温かくなっていた。
学院に戻ると、エリーゼとマリアンヌはセレーネに向き直った。夕暮れの柔らかな光が、三人の姿を優しく包んでいる。
「セレーネ、今日は本当にありがとう」
エリーゼが柔らかな笑顔で言った。
「久しぶりに昔の思い出話を聞けて、とても楽しかったわ」
「私も、セレーネさんのお話を聞けて嬉しかったです」
マリアンヌも、目を輝かせながら続けた。
「エリーゼの知らない一面も知ることができて、とても興味深かった」
セレーネは、二人の言葉に少し戸惑いを感じながらも、小さく頷いた。
「いえ……私こそ、お二人と過ごせて楽しかったです」
セレーネの言葉に、エリーゼとマリアンヌは嬉しそうに顔を見合わせた。
「ねえ、セレーネ」
エリーゼが、少し真剣な表情で言った。
「私たち、これからももっと一緒の時間を過ごしましょう。セレーネは私の大切な友達だもの。マリアンヌとも仲良くなってほしいの」
マリアンヌも頷きながら、セレーネの手を取った。
「そうよ、セレーネさん。私たち三人で、もっと素敵な思い出を作りましょう」
セレーネは、二人の言葉に胸が熱くなるのを感じた。目に涙が浮かぶのを必死に堪えながら、彼女は小さく頷いた。
「はい……私も、そう思います」
エリーゼとマリアンヌは、満足そうに微笑んだ。
「じゃあ、また明日ね」
エリーゼがそう言って、マリアンヌと共に自分の部屋へと向かっていった。セレーネは、二人の後ろ姿を見送りながら、複雑な感情を抱えていた。
自室に戻ったセレーネは、窓辺に立って夜空を見上げた。星々が、静かに瞬いている。
「エリーゼ様……いえ、エリーゼ」
セレーネは小さくつぶやいた。
「私は……これからどうすればいいのでしょう」
胸の中で、様々な感情が渦を巻いている。エリーゼへの想い、マリアンヌへの複雑な感情、そして自分の立場への戸惑い。
しかし、今日一日を思い返すと、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。エリーゼとマリアンヌの優しさ、三人で過ごした穏やかな時間。それらが、セレーネの心に小さな希望の灯りを灯していた。
「私にも……居場所があるのかもしれない」
セレーネは、そっと胸に手を当てた。そこには、温かな感情が芽生え始めていた。エリーゼへの想いは変わらないけれど、その形が少しずつ変化していくのを感じる。保護したい、守りたいという気持ちから、共に歩んでいきたいという思いへ。
セレーネは深呼吸をして、再び日記を開いた。ペンを走らせる音が、静かな部屋に響く。
『今日、エリーゼとマリアンヌと湖に行った。最初は戸惑いと緊張でいっぱいだったけれど、二人の優しさに触れて、少しずつ心が開いていくのを感じた。
エリーゼの笑顔は、相変わらず眩しくて美しかった。でも、今日はその笑顔に、新しい輝きを見つけた気がする。マリアンヌといるときの、あの柔らかな表情。きっと、私には見せたことのない表情なのだろう。
嫉妬? もちろん、まだ胸の奥に残っている。でも、それ以上に感じたのは、エリーゼの幸せを願う気持ち。マリアンヌがエリーゼにもたらす幸せを、心から喜べる自分がいることに気づいた。
そして、マリアンヌ。彼女の優しさと純粋さに、少しずつ心を開いていく自分がいる。彼女は、私を脅かす存在ではなく、新しい絆を結べる大切な人なのかもしれない。
これからの日々は、きっと簡単ではないだろう。でも、今日の経験が、私に新しい希望を与えてくれた。エリーゼの侍女として、そして友人として、私にできることがあるはず。
明日からも、私は全力でエリーゼを支えていく。そして、マリアンヌとも、少しずつ距離を縮めていきたい。三人で紡ぐ新しい物語が、きっと始まろうとしている。』
セレーネは、ペンを置いて深く息を吐いた。胸の中に、小さな、でも確かな希望の灯りが灯っている。明日への期待と、新しい決意を胸に、彼女はゆっくりと目を閉じた。
窓から差し込む月明かりが、セレーネの安らかな寝顔を優しく照らしている。明日は、また新しい一日が始まる。セレーネの心の中で、ゆっくりと変化が芽生え始めていた。それは、彼女自身も気づいていない、新たな成長の始まりだった。