第1話:「私はまだ何者でもない」
王立魔法学院の入学式典が行われる大講堂は、期待と不安が入り混じった空気に満ちていた。高い天井から吊るされた巨大なシャンデリアが、新入生たちの緊張した表情を柔らかく照らしている。
エリーゼ・フォン・ローゼンクランツは、背筋を伸ばし、厳かな表情を浮かべていた。長い金髪を緩やかに束ね、深緑色の瞳は真っ直ぐ前を見つめている。彼女の立ち振る舞いの一つ一つに、貴族の娘としての教育の跡が見て取れた。
「フォン・ローゼンクランツ家の娘として恥じぬよう、最高の成績を収めなければ」
そう自分に言い聞かせながら、エリーゼは周囲の様子を観察した。隣には、忠実な侍女セレーネ・ムーンブロッサムが控えている。セレーネの存在が、エリーゼに僅かな安心感をもたらしていた。
一方、講堂の隅で身を縮めるようにして立っていたのは、マリアンヌ・ラヴェンダーだった。茶色の巻き毛を整えようと何度も手櫛を入れながら、彼女は落ち着かない様子で周囲を見回していた。
「私のような平民が、本当にここにいていいのかしら……?」
マリアンヌは心の中でつぶやいた。魔法の才能を認められて特別に入学を許可されたとはいえ、周囲の華やかな雰囲気に圧倒されていた。
突然、講堂に静寂が訪れた。オーロラ・ナイトシェイド教授が壇上に姿を現したのだ。その存在感は圧倒的で、新入生全員の視線が一斉に彼女に注がれた。
「新入生の皆さん、王立魔法学院へようこそ」
オーロラ教授の声が、魔法で増幅されて講堂中に響き渡る。
「あなた方はここで、魔法の奥義を学び、自らの才能を開花させていくことになります。しかし、それ以上に大切なのは、自分自身を知ること。あなたが何者であるのか、何者になりたいのか……それを見つけ出すのです」
エリーゼは、オーロラ教授の言葉に強く心を打たれた。「何者かになりたい」――その思いは、彼女の心の奥深くで常に燻っていたものだった。家族の期待に応えることが、自分自身になることなのか。そんな疑問が、彼女の心に忍び寄る。
マリアンヌもまた、オーロラ教授の言葉に震えるような感動を覚えていた。才能があるというだけで、自分が「何者か」になれるわけではない。その事実に、彼女は初めて向き合った気がした。
「さて、これから魔法実習のペアを決めます」
オーロラ教授の言葉に、新入生たちの間にざわめきが起こる。
「運命の魔法で、最も相性の良いペアを組ませます。お互いの長所を伸ばし、短所を補い合える関係こそが、魔法の習得には不可欠なのです」
教授が詠唱を始めると、空中に光の糸が現れ、次々と学生たちを結びつけていく。エリーゼは、自分の番が来るのを静かに待っていた。
そして――。
「エリーゼ・フォン・ローゼンクランツとマリアンヌ・ラヴェンダー」
オーロラ教授の声が響き、二人を繋ぐ光の糸が現れた。エリーゼは驚きを隠せず、マリアンヌの方を見た。平民の娘と組むことになるとは。一瞬、戸惑いの色が彼女の瞳に宿る。
マリアンヌも同じく驚いた様子で、おずおずとエリーゼに近づいてきた。
「あ、あの……よろしくお願いします」
マリアンヌが小さな声で言う。エリーゼは一瞬ためらったが、やがて優雅に会釈をした。
「ええ、よろしくお願いします」
二人が向かい合ったとき、不思議な感覚が走った。まるで、お互いの中に自分にないものを見出したかのような。
その日の午後、最初の魔法実習が始まった。エリーゼとマリアンヌは、魔法の基本である「光の球」を作る課題に取り組んでいた。
「理論上は、魔力を凝縮して球状に形成し、安定させればいいはず」
エリーゼが呟きながら、慎重に魔力を操る。彼女の前に、完璧な形の光の球が浮かび上がった。
「すごい! エリーゼさん、理論通りの完璧な球ですね」
マリアンヌが感嘆の声を上げる。エリーゼは少し誇らしげに頷いた。
「あなたも試してみたら?」
マリアンヌは少し緊張した様子で、目を閉じて集中する。すると、彼女の前に現れた光の球は、エリーゼのものとは全く違っていた。不規則に脈動し、色とりどりに輝いている。
「あ、ごめんなさい。うまくいかなくて……」
マリアンヌが申し訳なさそうに言う。しかし、エリーゼは驚きの表情を浮かべていた。
「いいえ、これはむしろ……素晴らしいわ」
エリーゼの言葉に、マリアンヌは目を丸くした。
「え?」
「この不規則な動きは、高度な魔法理論でしか説明できないものよ。あなた、凄い才能の持ち主かもしれない」
エリーゼの言葉に、マリアンヌは照れくさそうに頬を赤らめた。二人は互いの魔法を観察し、意見を交換し始める。エリーゼはマリアンヌの自由な発想に、マリアンヌはエリーゼの精緻な理論に、それぞれ新鮮な魅力を感じていた。
しかし、実習が終わり教室を出ると、エリーゼの表情が急に硬くなる。
「あの、エリーゼさん?」
マリアンヌが声をかけるが、エリーゼは冷たい視線を向けた。
「実習は実習。それ以上の付き合いはないわ」
そう言い残し、エリーゼは颯爽と立ち去っていく。その後ろ姿を見送りながら、マリアンヌは複雑な思いに包まれた。
「私は、まだ何者でもない」
マリアンヌは小さくつぶやいた。その言葉には、不安と期待が入り混じっていた。二人の関係は、これからどう変わっていくのか。それは誰にもわからない。
ただ、確かなのは、二人の魂が互いを求め始めたということ。そして、その想いが、やがて大きな物語を紡ぎだすことになるのだと。
王立魔法学院の古めかしい石造りの廊下に、夕暮れの光が差し込む。エリーゼとマリアンヌ、二人の少女の影が、ゆっくりと伸びていった。