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5 川岸の訪問人

 友人の家に居候を始めてから二週間が経った。

 軍人である友人の休暇もあと残り十日ほど。そろそろ次の住処を探さなければまた路上で寝る日々に戻らなければならない。今から五年前、メレルが首都であるここドマーナに出てきたばかりの生活に逆戻りだ。

 当時と違うのは、以前のパトロンのもとで得た少しばかりの報酬の名残りと子豚の庭での仕事があるということ。しかし子豚の庭での給仕で得られる給料だけではこの街で生活を続けるのは困難に近い。

 識者や富裕層の多いドマーナは芸術家にとって名声を上げるチャンスの多い街でもあるが、その代償として生活費も田舎より嵩む。画家の卵たちにとって芸術の都とも言われるドマーナを目指すのは当然のこと。


 しかし実際に拠点にしてみたはいいものの、金銭面を理由に首都を離れてあえて地方で細々と活動する方向性に切り替える芸術家も少なくはない。

 地方の田舎町から出てきたメレルもまたその一人で、故郷に帰っていく仲間たちの背中を何度も見送った経験もある。

 彼らが列車で去って行く姿を見る度に、次にあの席に座るのは自分かもしれないと幾度となく想像した。たまに手紙をくれる仲間の近況を知れば、ドマーナに執拗なまでに拘ることがただの自分のエゴだと理解できる。

 誰かに強要されているわけでもないのに無理して背伸びしてまで首都に留まる理由はないはずだ。だが同時に、常に胸に秘めているエゴが目を覚まし、大蛇の如く心臓を強く締め付ける。

 ここで諦めては、自分の心臓を刃で突くことと同義だと。

 結局は自分が誰よりも自分自身を強要していることを自覚する。そして体内に熱が帯びる限り、その強迫行為を自らが望んでいることも再認識する。


 つまるところメレルにはまだ故郷に帰る選択をする覚悟はない。だからドマーナでどうにか生き延びるために子豚の庭での給仕だけでなく、絵画修復の依頼や肖像画の制作、観光画の販売でなんとか一日一日を積み重ねている。

 時間を要する絵画修復の仕事は今は請け負っていないが、この雅な戦場で食い繋ぐため、メレルは今日も川沿いで観光客向けの風景画を描いていた。

 ドマーナの中心を流れるこの川は流域もほぼ全体がこの国に属している美しい河川だ。優美な蛇行がいくつも見られる大らかな川は、住民たちの憩いの場としても愛されていた。かつては河川舟運にも使われた川でもあるが、今やドマーナの観光の中心地ともなっている。

 そのためメレルのような売れない画家たちは、ドマーナ自慢の美しい風景をポストカードに描いてここを訪れる観光客たちに売っているのだ。

 市民と比較し、観光客は一般的にこの絶景に高揚して財布の紐が緩い傾向にある。加えてこの壮麗な景色を記録に残したがる願望も抱きやすい。これは画家たちにとっては絶好の商機となる。

 たまに写真の販売も行っているようだが、まだカメラが完全には普及していないことも幸いし、繊細な色遣いで再現される画家たちの風景画は人気も高い。


 特に青天の、澄んだ空が広がる天色の今日のような日には需要も多い。

 川沿いに座って二時間の間にすでに三枚のポストカードを売ったメレルは次の客用に新たな情景を紙に落とし込んでいく。

 今日は川沿いを歩く人の数も多く、数日前に行った路上展示会の時よりも周りには賑やかな声たちが広がっていた。

 そんな雑音を作業のお供とするメレルは真剣な眼差しで水面のきらめきと目の前の空白を交互に見やる。まだ彼の手元の紙には余白が多い。筆を進めるメレルの動きも機敏になってきた。彼は余白を好まない。他人が描く絵に対する文句はないが、自分が描くキャンバス空間に余白を残すなど彼にとっては勿体なくてたまらないのだ。

 余白を残す行為はせっかく与えられた表現域を無駄に捨てているようで、どうしても贅沢な使い方だと思ってしまう。その特性から、彼は仲間内でも没入感のある絵を描くと評判だった。現実のようで非現実的な世界をキャンバスに表現する彼は、今もまた、瞳の中には存在していない愛らしい鳥を花の近くに添えて描く。現実と創造の自然な融合がメレルは得意なのだ。

 すると、手慣れた筆遣いで順調に制作を進めるメレルの前に一人の女が立ち止まった。


「メレル・リオーヌ?」


 メレルが顔を上げると彼女は淡白な声で彼の名を呼ぶ。一つに束ねられたブルネットの髪は三つ編みにして結ばれていた。毛束は細く、崩れることがないように固く結われていることが分かる。モノトーンにまとめられたシンプルなワンピースを身に纏う彼女は姿勢が良く、両手を身体の前で組む姿が品のある面持ちを際立たせていた。


「そうですが、何か御用ですか」


 光の入りにくそうな濃い瞳の色をした彼女はメレルの返事に無言でこくりと頷く。


「以前、この近くで展示会をなさっていたようですね。その時に、わたくしの主人があなたの作品を気に入ったようでして」

「主人──?」


 彼女の話にメレルはピンとくる。

 カミーユの手伝いのために持ち場を離れていた時にギャスパーが見たという熱心な客、とは、この無愛想な女の主人のことだろうか。


「はい。わたくし、ソリンと申します。ご主人様に言われ、あなたを探しにこちらに参りました。画家が集まるという酒場を訪ねると、今日のような天気の良い日にはきっとここで絵を描いているだろうと」


 ソリンと名乗った彼女は涼やかな瞳をメレルの手元に向ける。彼女の瞳に筆が映ると、メレルはそっとその手を下ろした。これはきちんと話を聞く必要がありそうだ。


「わたくしの主人があなたに仕事をして欲しいと申しているのです」


 彼女の申し出はメレルの読み通りだった。メレルの返事を待つこともなく、ソリンは淡々とした口調で本題に入る。


「彼はシャルロットという美しいモデルの絵を部屋にたくさん飾りたいのだそう。先日のあなたの絵を見て、あなたの画風はモデルにぴったりだと判断したようです。ゴーヤという男に聞けば、今のあなたにはパトロンもついておらず、住処も仮の場所とのこと。どうでしょう。わたくしの主人のもとで働く気はありませんか」

「主人、とは具体的に誰のことです」

「──グースロー様です。この街の一部では有名な資産家の一人ですが、聞いたことはありませんか」

「これまでにその名を聞いたことはないな。あなたの言う通り、今、俺は途方に暮れている。願ってもない話だが、このところの不運続きでちょっと臆病にもなってましてね。画家の卵を狙った詐欺も横行してると聞く。もう少し具体的に雇い主のことを教えてはくれませんか」

「そうですね──あなたは画家なので、モデルがどんなものかというのも気になるかと存じます。美しい巻き毛に磨きたての鉱石のように澄んだ瞳。そして純粋で控えめな顔の造りが実に愛らしい、娘、でございます」

「そっちの情報か」


 ソリンの主人でもある雇い主本人のことを知りたかったメレルだったが、彼女が答えたのは絵の対象となる人物の特徴だった。やけにぼかした言い方が気にはなったが、ソリンの語るモデルというのは恐らく、両親に溺愛された少女のことだろう。

 資産家である主人が愛する娘の絵をたくさん館に飾りたいのだと思えば合点がいく。メレルは知り得た情報から連想した幸福な娘の姿を頭に浮かべて苦笑する。


「報酬はどうなる」


 これ以上の情報を喋るつもりもなさそうなソリンを見上げ、メレルは話を次の段階に移す。頑なに閉じられていたソリンの口が僅かに開いた。彼女はあまり表情筋を動かすことはしないのだろう。それでもぼそぼそとした声ではなく、彼女ははっきりとした滑舌で答えてくれる。


「それは後程ご相談ください。お金の話にわたくしは干渉しておりませんので。ただ、当然、仕事に見合った報酬を渡す予定です。彼は投資に関してはしっかりしています。素晴らしい絵を手にすることができるのなら、あなたへの投資も惜しまないでしょう。それに衣食住は保証いたします。館には部屋が多いですからぜひそこにいらしてください。食事に対する対価もあなたには要求いたしません。シャルロットの絵を描いていただければそれだけで構いません」

「随分と太っ腹な提案ですね」

「わたくしの主人は──少し、変わり者ですので。とはいえパトロンとはそういうものでしょう。あなたの活動を支援する代わり、主人の要望にも応えてくれればいいのです」

「パトロン、ね」


 前回のパトロンとの結末が最悪だっただけにメレルはその言葉に深いため息をついた。苦い思い出が喉を通る。


「それで、いかがいたしますか。わたくしはあなたの返事を聞くためだけに参りました。イエスかノーか。どちらでも好きな方を答えてくれればいいのです」


 ソリンの語調は急かしているわけでもなかった。が、言い方を変えれば返事を待つつもりもなさそうに見える。

 メレルはもう少しで描き終わる風景画に視線を戻して自問自答を始めた。

 あと十日もすれば友人は軍に帰る。つまり寝る場所を失う未来はもう決定的だ。宿に泊まるにしても数日分くらいしかもたない。前回のように都合よく安い部屋を借りることも難しいだろう。この誘いを断っても待つのは屋根のない生活だ。

 一方で、誘いを受ければ最低限の屋根は保証される。また、依頼主であるグースローの名は知らないが、前向きに捉えれば資産家で有名らしい彼のもとで働くことで画家としての可能性が広がることもあり得る。

 パトロンという存在に理不尽に縁を切られたトラウマをまだ引き摺ってはいるが、心情的な懸念を除けばこの申し出を断る理由は一つもない。むしろ素直になれば喜んで引き受けたい。


「──分かった。答えはイエスだ。シャルロットとやらの絵をぜひ描かせてください」


 残っていた余白に色を付け、メレルは筆を置いてソリンにそう答えた。描き終えた風景画を一瞥したソリンは「そう」とだけ呟いて頷く。やはり彼女自身はあまりこの話に興味がないらしい。


「では早速とはなりますけど明日、またこの場所に参ります。あなたは荷物をまとめてここにいらしてください。館にご案内いたします」

「ああ。よろしく頼む」

「こちらこそ。ではまた明日。そうですね──正午にお迎えに上がります」


 考える素振りを見せたソリンは明日の約束を告げた後で一礼してメレルに背を向けた。彼女の歩き方は足音一つ響かせない。洗練された彼女の立ち振る舞いに、メレルはぼうっと過去のことを思い返す。

 これまでも何度かパトロンには世話になった。それぞれ館には使用人がいたが、彼女のような完全に影になりきる人間を見たことはない。とすると、グースロー家は格式高く、使用人の管理も完璧に行き届いているということだろうか。

 ならば、今回こそは少しばかり期待が持てるかもしれない。


「路上展示会も捨てたもんじゃないな」


 ようやく舞い降りてきた幸運にメレルの表情が不意に綻びを見せる。

 思ってもみない依頼にすべての意識が向かう彼の記憶からは、あの日にギャスパーとアルトゥールが見せた微妙な反応がすっかり抜け落ちていた。


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