43 お気に入りの
「君の荷物は、これだけなの?」
使い古した襤褸の鞄を肩にかけるメレルを見上げ、ミシェルが首を傾げる。
ミシェルの背後にはいくつかの鞄や、トランクが置いてある。ミシェル自身もまた、身体のサイズに合ったリュックサックを背負っていた。
「スケッチブックがあれば最悪問題ない」
迎えに来た馬車の荷台に荷物を順番に載せ、メレルが短く言い切る。ミシェルは彼の襤褸鞄を一瞥し、ほんの僅かに肩を落とした。
「──最後のお給料、貰えなかったんでしょ。それってやっぱりぼくのせいだよね」
ミシェルが落ち込んだ様子で呟くと、メレルは最後の荷物を荷台に乗せ終えてから細い息を吐く。
「ゴーヤが大切にしてた高価な花瓶を割ったから、君は仕事を辞めさせられたんでしょ。ぼくがジジに捕まらなかったら、君が花瓶を割ることもなかったのに」
「過ぎたことを。あんたが気にすることじゃないだろ」
メレルは御者に準備が終わったことを視線で合図しつつ、ロープがきちんと荷物を固定できているかを確認した。
「花瓶とあんたは比べ物にならない。あの店で、酒が好きに飲めたのだけは良かったけどな。でももう十分に世話になった」
メレルはミシェルの髪を適当にわしゃわしゃと撫でて顔を上げるように促す。ミシェルの顔が持ち上がる。髪を乱されたことを少し不満に思ってそうな表情だった。
「準備できたぞ。そろそろ出発しないと間に合わない」
「──うん」
「ガスパールにもちゃんと挨拶したか?」
「したよ。謝ったら、許してくれた。彼はほんとうに寛大だね。ぼくも見習わなくちゃ」
「ああ。ぜひそうしてくれ」
「……君もだよ?」
「──分かってる」
ミシェルの物言いたげな瞳に、メレルは数秒の間を置いてから頷いた。
「手紙を出すって言ったら喜んでくれた。行く先々で、ぼくが見た興味深いものを描いて送ろうと思うんだ」
「それはいい案だ。あんたにしては上出来だな」
「ふふ。でしょう?」
馬車に乗り込みながら、ミシェルはメレルからの讃辞に満足気に笑う。二人が馬車に乗ったことを確認し、御者が出発していいかの最終確認のために振り返る。
「うちの馬はちょっくら気まぐれでね。揺れるから、落っこちないように気をつけてくださいよ」
「ああ。よろしく頼む」
御者に返事をし、メレルはミシェルに視線を投げる。
「さ。あんたも、心の支度はできたか?」
メレルの問いかけにミシェルは最後にもう一度グースローの館に目を向けた。生まれた時からずっと傍にあった館を改めて見れば、意外にも多くの思い出が蘇ってくるものだ。忘れていたはずの両親の笑顔まで思い出し、ミシェルはぐっと唇を結ぶ。
脳内に溢れていく記憶たちに導かれ、ミシェルの口角がほんの僅かに持ち上がった。良い思い出ばかりじゃないが、案外、この館で過ごした日々も愛おしく感じられる。その本心を知ることができて嬉しかったのだ。
「──うん。いいよ」
隣に座るメレルを見上げるミシェルの瞳は力強い。これまでの過去と、これからの未来、そのどちらにも希望を見出したかのような眼差しだ。
馬車はゆっくり出発し、次第にグースローの館が背後に遠くなる。
ミシェルは後ろ髪を引かれる思いを感じつつ、目の前に広がる街の景色に心を弾ませた。見慣れたはずの街並みも、石畳の足音も、舞い上がる砂埃も。すべてが懐かしく、かつ同時に新鮮に五感を刺激してくる。
過ぎ去った館はもうグースローのものではない。けれどまたいつか、遠い未来にその姿を見ることができたなら。きっとこの日の高揚を鮮明に思い出すのだろう。
ミシェルの表情が生き生きと輝いていく様を、隣のメレルは横目で感じ取っていた。
リュードリックの別邸からミシェルを取り戻したあの日から、早いものでもう三か月が経とうとしていた。呼吸をする度に肺が凍りそうだった季節を越え、今は花々の芽吹きの気配を感じられるようになっていた。
ミシェルへの暴行と人身売買未遂が公になり、騒動の地となった別邸がリュードリックの別名義によって買われていたことが明るみになると、流石の大物の彼にも嫌疑が向けられた。
また、ミシェルに対する不当な詐欺契約も問題視され、それを皮切りにリュードリックを筆頭とした美術商たちの不祥事も世に晒される流れになった。
まだリュードリックの裁判は続いている状態だが、これまであまり知られていなかった、芸術家たちを虐げる暗黙の規則が世間に知れ渡ると、少しずつ業界内の考えも変わってきた。
特定の人間が利益のために才能ある多くの芸術家たちを食い潰していたこと。
不当な扱いを受け、評価される機会に巡り合えなかった彼らをこのままにはしておけないと、兼ねてより疑問を抱いていたがリュードリックによって声を潰されていた識者が音頭を取って業界の浄化が進行しつつあるのだ。
メレルの仲間たちもまた、風向きが変わってきたことを大喜びし、長く業界を腐らせていたリュードリックの退場を祝った。
多様な表現の形で模られた作品たちの存在が認められるようになりつつある風潮は、確実に彼らの背中を後押しするものになるだろう。
リュードリックとの契約が無効となったミシェルの財産も戻り、あの館も当然ミシェルの所有するところとなった。しかし、ガスパールと今後の計画を話し合った際、ミシェルはあの館を売ることを提案した。
ぼくには広すぎる。何より、余白が多すぎるのは好きじゃない。
そう言って笑ったミシェルの要望をガスパールが否定することもなく、彼は館を売り、代わりに小さな家を購入した。館とは比べ物にならないこじんまりとした家ではあるが、温かみがある造りで居心地もよく、ちょっとだけ人に自慢したくなるくらいの素敵な家だ。
とはいえ、彼がそこに住むことになるのはまだ少し先の話。
馬車を降り、駅に着いたメレルとミシェルは今度は荷物を列車に運び込む。
二人が乗る予定の列車はもうすでに駅に到着していて、出発の時を待つだけだった。
荷物を運び終えた二人は、自分たちの席を探して車内を歩く。
「ねぇ、でもほんとうによかったの?」
席を見つけたメレルが立ち止まると、後ろを歩いていたミシェルが不意に訊ねる。
「なにが?」
メレルが相槌を打ちつつミシェルに窓際に座るかを訊けば、彼は首を横に振った。ミシェルの代わりに窓際の席に腰を下ろしたメレルは、なかなか座ろうとしないミシェルを見て首を捻る。
「迎賓館の仕事。せっかく君の名が売れそうなのに、いいの?」
「その仕事はもう終わっただろ」
「そうじゃなくて。迎賓館が開かれるようになったら、君の絵を多くの人が見ることになる。きっと大注目だよ。仕事の依頼も次々に来るよ。それなのに──街を離れるなんて」
「それはもう話しただろ。芸術は地域に囚われるものでもない。前にも言ったが、画家を名乗ることに制限なんかない。おまけに、あの仕事はただの棚ぼただ。またやり直せばいい」
メレルの迷いのない口調に興味を惹かれ、ミシェルは彼の隣の席にちょこんと座る。
「とにかく名を売ることに拘ってはいたが、今は違う」
「──君、頑固なのに随分と柔軟になったね」
ミシェルがくすくすと笑うと、メレルは肩をすくめてみせた。
リュードリックの騒動の後、半強制的にメレルの名も業界に知られる運びとなった。業界のドンの闇を表に引きずり出した張本人なのだから当然だ。
その結果、メレルに興味を持った迎賓館の関係者から、とある部屋の壁に飾る作品を描いて欲しいと頼まれることになった。思いがけない誘いに最初は困惑したものの、ミシェルの後押しもあってメレルは四季の女神を描いた作品を迎賓館に納品した。
それがつい、二日前のことだ。
メレルの華々しい活躍を祝い、仲間たちと晩餐をしたのが昨日のこと。
彼らは既にメレルが作品の題材探しの旅に出ることも、ミシェルがそれについていきたいと申し出たことも知っていたため、昨日の宴は壮行会も兼ねていた。
旅慣れたガスパールからたくさんの助言を聞きはしたが、結局は酔っ払ってあまり記憶に残ってはいない。けれど彼らの晴れやかな笑顔と、花火よりもうるさい笑い声だけはしっかりと記憶に刻まれている。
昨夜、そういえば彼らもミシェルと同じようなことを言っていた気がする。メレルが笑い声を漏らすと、ちょうど列車が動き出した。
「出発だ……」
流れ出した景色を見つめてミシェルが呟くので、メレルは彼の顔を覗き込んで訊く。
「不安か?」
「ううん。君が柔軟になった方がなんか気味悪い」
ミシェルは首を横に振ってメレルをからかう余裕を見せた。
「あんたたちが俺が変わったと思おうとも、絵に対する想いは変わらない。こだわりだってまだ捨てきれない。でも、世界は想像が及ばぬ宇宙くらいに多彩で、未知の物ばかりだ。数えると途方に暮れるほど無数の星がある満天の空と変わらない多くの人間がいる。そう考えれば、絵を描く場所はどこでもいいと思えた。もしかしたら、誰かがまた認めてくれるかもしれないだろ」
「妙に饒舌なんだね」
「確かに──気分は軽いかもな」
メレルはそう言って襤褸の鞄からスケッチブックを取り出した。彼に倣ってミシェルもリュックサックから一冊の本を取り出す。
「──旅がいつまで続くか分からないけど、やっぱり、あの家も売った方がよかったかな」
本の表紙を開き、ミシェルがふと疑問を口にする。
「いいや。子どもには帰る場所が必要だ。俺だって気が休まる場所は欲しい」
「──そっか」
車窓の眺めをスケッチブックに模写しだしたメレルは風景から視線を逸らすことなく言う。ミシェルも彼の意見に異論はなかったようだ。難しそうな本のページを捲り、夢中になって読み出した。
しばらくして、メレルのスケッチの様子が気になったミシェルが彼の手元を横目で見やる。まだ十五分も経っていないのに、スケッチブックには既に豊かな世界が広がっていた。
ミシェルが思わず感嘆すると、その息遣いに気づいたメレルが彼に目を向ける。
「ねぇ、君」
「どうした。酔ったのか?」
「違う。この列車、まだ目的地にはつかないでしょ? だからちょっとお願いがあるんだけど」
「ん? なんだ?」
スケッチの手を止め、メレルはミシェルと目を合わせる。ミシェルは一度本を閉じ、彼の方に身体を向けた。
「家族の絵を描いてくれ」
「また塗り潰すのか? 塗り絵がしたいなら落書きを使え」
ミシェルのお願いに苦い思い出が蘇ったメレルは苦笑する──が。
「違う」
ミシェルは断固として首を横に振ってメレルの手元にある描きかけの景色を指差す。
「大事な絵にそんなことしない」
「──へぇ」
ミシェルの意志は固いらしい。メレルはスケッチブックを捲って白紙のページを開く。
「分かってる? 家族の絵だよ?」
ミシェルはメレルに向かって人差し指を立て、念を押すように強く主張する。メレルはペンを握り直し、得意気に口角を持ち上げ答えた。
「ああ。承知した」