31 無名のスター
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リリーベルの営む宿に身を置き一週間が過ぎた。これまで、ジジやリュードリックに関する噂は耳に入ってきていない。子豚の庭での仕事も、ゴーヤに申し出て今は仕入れや勘定といった表には出ない業務を中心に行っている。なんだかんだと長年勤めた経験から、他の仕事を学びたいというメレルの姿勢をゴーヤも受け入れてくれたのだ。
ゴーヤもまた、メレルは仕事を辞めた、と、一度姿を見せたジジに毅然とした態度で言い放った。
彼は相変わらず無口だが、気概のある男だという評判は本当らしい。
ゴーヤに指示された酒の仕入れを朝一で終えたメレルは、その疲れも取れないまま、リリーベルに頼まれた買い出しのために再び街に出た。
子豚の庭とリリーベル。双方の用事が多くなってきたメレルには、今や絵を描く余裕はあまり残されていなかった。一方は仕事、一方は自ら申し出た手伝い、ではあるが、忙しくしていることで、少しはジジの妙な歯並びを思い出すこともなくなる。メレルの安眠のためには必要な労働だった。
街を歩く時も気を抜くことはなく、ジジやその仲間に見つからぬよう、メレルはリリーベルに借りた帽子を目深に被るようにしていた。この帽子はリリーベルの亡くなった旦那の物で、メレルが借りたいと頼んだところ、彼女は大層喜んでくれたものだ。
辺りを警戒しつつ、メレルはリリーベルに言われた食材を買うために市場に向かう。その途中では、銀行や講堂、教会、労働局など、立派な建物たちが威風堂々とした出で立ちで待ち構えていた。知識層の多いこのエリアは、館にいた頃には通ることのなかった道だ。しかし今は、リリーベルの宿から市場に行くには必ずここを通らなければならない。
居心地の悪さを感じつつ足早に通り過ぎようとするメレルの視界の端に、ふと見慣れないレンガ造りの建築物が入り込む。なんとなしに、思わずメレルは帽子のツバを持ち上げた。
そこはまったく縁のない場所なのに、何故か懐かしさを感じる風格を漂わせている。
立派なファサードに設けられたアーチに彫られた文字を見れば、この国で一番の蔵書数を誇る国立図書館であることが分かった。勤勉そうな学生や賢そうな学者たちが往来し、まるで異世界の入り口を表しているかのようだった。
大通りの反対側から図書館を見つけたメレルはその存在を認めるなり足を止め、しばしの間物思いにふけった。あの小さな主人は、ここを起点に毎日を過ごしていたのだろう。そう思えば、見知らぬ世界がほんの僅かにだけ身近に感じることができた。
彼が今もガスパールのところにいるのか、館に戻ったのかも分からない。が、知識を貪欲に欲する彼はきっと、今もここに通う習慣を諦めていないはず。
いくつもの本を抱えて暖炉の前に陣取っていた彼の姿が脳裏に蘇り、メレルは無意識のうちに口角を持ち上げていた。すると。
「だからっ! ぼくは知らないって言ってるだろ。しつこいなぁ。彼はもう出て行った。ぼくが追い出したんだ。追い出した奴の行く先なんてどうして把握する必要があるんだよ……っ!」
図書館から二つ隣に並んだ新聞社の前で、少年が一人、不満気な面持ちで地団駄を踏むのが見えた。彼の少年特有の高い声はやたらと街に響き、一時、通り過ぎるすべての人の視線が一箇所に集中した。メレルも例外なく、たった一人の声に誘われるように意識を向けた。
少年は注目を集めたことを後悔しているらしく、しばらく押し黙った後で今度は控えめな様子で口を開く。
「あいつのことなんか知らない。君が必死に探しているその訳も知りたくない。とにかくぼくは無関係だ。放っといてくれ」
柔らかな風が少年の髪を撫でると同時に、彼の声をメレルのもとまで運んできた。
メレルの視線の先では、お気に入りのコートに身を包んだミシェルが、派手なコートを羽織るガラの悪い紳士に対抗して眉を吊り上げている。
その光景にメレルの心臓が握り潰される。心拍数が上がり、冷えた風が吹くというのに嫌な汗まで噴き出てきた。
リュードリックの手先であるジジが、ついにミシェルに狙いを定めたようだ。
まさか彼がそんな大胆な真似をするとは思わなかったが、それほどまでに追い詰められてるということだろうか。呼吸を忘れたメレルの肺が凍りついていく。
メレルの居場所を知らないというミシェルの主張などジジは信じていないようだ。
「おいおい。それじゃ困るぜお坊ちゃま。俺もギリギリで生きてんの。お前の玩具はどこへ消えた? さっさと答えた方があんたも楽だろう。な? そんな遠慮すんなって。ほらぁ」
「やめろ! 触るな!」
「お? なんだ可愛くないなぁ。先輩紳士に逆らうなんてどんな教育を受けてきたんだ」
「君は紳士なんかじゃない。これ以上近づくと、悲鳴を上げるぞ」
「なんだとクソ生意気な小僧が。いいぜ? 悲鳴を上げたところで何も変わらない。お前は俺の甥っ子だと言えば誰も疑う奴なんかいねぇだろ。ちょーっと仲の悪い、な。ただでさえ可愛げがなく煩わしいガキだ。誰もお前の戯言なんか信じない。おら、答えないならお仕置きするぞ。あ?」
「や、やめろってば……!」
ジジの白手袋がミシェルの腕を掴もうと伸びる。ミシェルは青い顔のままそれを断固拒否した。主張こそしっかりしているものの、やはりあまり接点のない類の人間への戸惑いは隠しきれない。ミシェルは一歩、二歩、と助けを求めるように後ずさりする──と。
「お前まで逃げんじゃねぇよ」
無情にも、ジジはミシェルが取った距離をたった一歩で詰め、羽織ったコートに隠して拳銃を取り出しミシェルに突きつけた。
「ヒィッ……」
流石のミシェルも感情のない銃口には恐怖を覚えたようだ。今にも気絶しそうな微かな悲鳴を上げて硬直する。
「いいから俺についてこい。拒否権はないぞ、お坊ちゃま」
「い……いやだ……」
ミシェルが最後の抵抗をしようと首を振ったところで、ジジの眩いばかりの歯がギラリと光る。彼の指先が引き金にかかる間も、誰も二人の緊迫した状況には気づかない。それどころか、体調の悪い甥っ子を伯父が今にも抱えようとする構図に見えていることだろう────ただ一人を除いては。
それが脅しか本気か、ジジ本人しか知るところにない。が、どちらにせよ、この少年が彼に銃を突きつけられる理由などない。それは、駆け出すには十分すぎる動機だった。
「やめろ‼」
大通りを馬車が行き交うにもかかわらず、脇目もふらずに飛び出したのは咄嗟の判断だった。メレルの声が聞こえると、ジジもミシェルもハッと同じ反応をして、こちらに走ってくるメレルを向く。突然のことにどちらも驚いてはいたが、より大きく目を見開いていたのはミシェルだった。メレルは一瞬の隙を見てミシェルの手を取る。
「逃げるぞ。走れるか」
答えを聞く暇もなく、メレルはミシェルの腕を引っ張り、走りの速度を上げた。ミシェルの声にならない声だけがメレルの耳を掠めた。
「ふざけんじゃねぇ‼ とことん舐め腐ってやがる‼」
ジジの怒号が追いかけてくる。怒りが頂点に達したのだろう。ジジは隠れもせずに銃口を二人の背に向けた。突如勃発したトラブルを避ける道行く人々の悲鳴が聞こえ、メレルは尻目で背後の様子を窺う。そこで、彼が脅しでもなく本気で銃を突き付けていることを察した。しかもその銃口は、卑怯にも下方を向いている。
メレルの視線が銃口と同じ先を捉えると、息を切らし、引っ張られた手に懸命についていこうとするミシェルの恨めし気な瞳と目が合った。彼の口が何かを言おうと開きかけたその瞬間、メレルは急いでその身体を抱き上げた。
「ちょっ! ちょっと、何を──!」
ミシェルの訴えは、ほぼ同時に街に轟いた銃声によってかき消される。ジジが痺れを切らして引き金を引いたようだ。悲鳴と共にしゃがみこむ人々の間を抜け、弾丸はメレルの右腕を掠めた。幸いにも、鉛の塊はそのまま道沿いのポストへとめり込んでいく。
直撃は免れたとはいえ、右腕に焼けるような違和感が走った。メレルが微かに表情を歪めると、それを見たミシェルがごくりと息を飲み込む。彼が抱きかかえてくれなければ、あの弾丸は自分の頭部を殴りつけたかもしれないと勘付いたらしい。
「君、どこに逃げるつもりなの。もう逃げ場なんかないよ……」
ミシェルの震える声がメレルに問いかける。しかしメレルはそれを否定し、目的地があることを視線で伝える。見えてきたのは、今日で最終日を迎える話題の新人画家の個展を知らせる看板だ。
まだその行き先に気づいていないジジは、二人を撃ち逃した腹いせにもう一発銃声を上げる。空気を切り裂く破裂音に驚き、人々はまた悲鳴を上げた。すると、メレルが向かうガラス張りの建物からも、何事かと辺りを窺う一人の男が出てくる。その男は、柔和そうな顔つきをしていて、不安を覚えたのか弱弱しく眉尻を垂らしていた。
メレルは男の姿を確認してからミシェルを地面に下ろす。男は突然現れた二人の異様な様子にギョッとし、間髪入れずに駆け寄ってきた。危険を顧みず、善意の本能で動いたのだろう。
彼の姿が視界に入ると、二人を追いかけていたジジは舌打ちをしつつも建物の影に隠れる。メレルはジジのその挙動を漏れなく観察していた。
「ちょっとちょっと! 大丈夫ですか? 今の銃声は? 何があったんです?」
駆け寄ってきた彼は人の良さそうな眼差しで二人の顔を交互に見やる。心配に支配されたその面持ちは、見ているこっちが申し訳なくなってしまいそうなほど悲痛に満ちている。声を出そうとメレルが息を整えていると、追っ手がいないことを確認したミシェルがメレルに詰め寄る。
「君‼ なんであんな危険なことしたの⁉ 怪我でもしたらどうするの! 絵が描けなくなるかもしれないじゃないか!」
「えっ? 君も絵を描くの?」
鬱憤を爆発させたかのようなミシェルの訴えに、男がメレルに興味を示す。
「ああ、一応端くれだ。怪我くらいであんたもそう騒ぐな。腕は最悪一本でもいい」
「な……ッ‼」
ミシェルが声を荒げそうだったので、それを塞ぐようにメレルは男に話しかける。
「驚かせて悪かった。こいつが事件に巻き込まれかけた。多分まだ興奮してるだろうから一人にするのも危険だ。悪いが──落ち着くまで傍にいてやってくれないか」
「え? ああ、もちろんです! 君、大丈夫だった? 何があったか知らないけど、きっと怖かったでしょう? もう大丈夫だよ! ほら、警察も来たし」
男はミシェルと視線を合わせて屈みこみ、蹄の音に耳をそばだてた。彼の言う通り、銃声、あるいは通報によって駆け付けた二人の警官が馬車に乗ってこちらに走ってくる。
「君たち、この騒ぎは何です?」
目まぐるしく変わる光景にミシェルが呆気に取られているうちに、メレルは自ら警官へと名乗り出る。
「メレル・リオーヌです。リュードリックという画商が取引に失敗した、贋作と言われる作品の制作に携わっていました」
「エッ⁉」
ミシェルに寄り添う男から素っ頓狂な声が漏れた。メレルは彼と目配せしてから軽く会釈する。
「個展の邪魔をしてすまなかった。あんたはジョットだろ。その絵は初めて見たが──詩情があってなかなか好きな画風だ。もっと違う形で、知り合えたら良かった」
「えっ、えーっと……」
ジョットは戸惑いつつも素直に嬉しかったのか少しだけ照れた様子で頭を掻く。その隣から、感情が行方不明になったミシェルの鋭い眼差しが飛んでくる。自ら罪を告白したメレルの行動が理解できないようだ。
「確かに意図はなかったとはいえ罪は犯した。ここらで過去とは決着をつけておく」
メレルはミシェルにそう言い残して警官の前に一歩出る。
「あの贋作の話は私たちも聞いています。芸術に対する罪は見逃せません。なにせ巨匠は我が国の文化に等しい。冒涜は許せない。もう少し詳しいお話を伺わなくては」
「もう逃げるつもりもない。ただ一つ、約束して欲しいことがある」
「ん? 約束?」
メレルは警官と共に馬車の近くに寄り、ミシェルから離れたところで小声で囁く。
「あの少年は完全に事件に巻き込まれた被害者だ。その身の安全と、無事に家に帰すことを約束して欲しい」
「なるほど。そういうことでしたら当然、お受けします。私たちの義務ですから」
「──ああ、どうか頼む」
怒涛の展開のストレスでミシェルはまだ思う通りに声を出せないらしい。メレルが一瞥すると、ミシェルは口をもごもごとさせて何かを訴えかけてきた。が、メレルは彼に背を向け、警官と共に馬車に乗り込む。
残ったもう一人の警官とジョットは、放心状態のミシェルを気遣って温かい室内へと案内する。親切な提案を無下にも出来ず、ミシェルは後ろ髪を引かれつつもジョットの個展が開催されている建物内へと入って行った。
馬車が動き出す直前、メレルは物陰に隠れたジジと一瞬だけ目が合った。
彼の弟が兄の仕事を知らないことが功を奏した。弟の個展に逃げ込めば、銃を手にしたジジも引き下がらざるを得ない。弟に自分の仕事がバレてしまう。
警官がいる手前、成す術をなくしたジジは未練がましい態度でメレルを睨みつける。
あわや殺されかけたところではあるが、彼のおかげで収穫があったとも言える。
声には出さず、メレルは口の動きだけで彼に感謝を伝えた。
「ようやく、無名のスターの名前を知れた」
彼が実力以上の待遇を受けているのは事実だ。しかし目の前にしてはっきりした。何も知らぬ彼に罪があると責めるのはただの八つ当たり。
確かに、兄の力がなければ、本来サロン好みでない彼の画風はリュードリックに受け入れられていなかったかもしれない。
それでもジョットが、噂で聞くよりもずっと情熱を持った新進気鋭の画家であることを、彼がいなければ知ることもなかった。