3 世界の理
──この世界で名声を求めるならば、サロンを避けては通れない
画家、彫刻家、陶芸家……芸術を生業として人生を捧げる決意をした者は誰もが耳にした言葉だ。このサロンと呼ばれる場は、もとは王家主催の展覧会として始まった。
サロンに作品を出品することができれば、そこで識者や貴族に評価されパトロンがつく、というのが美術界長らくの定番の流れとなっている。
サロンで有力なパトロンを得れば食うには困らず、彼らが自慢としている個々の縁によって仕事も与えられ独立も目指せるという、芸術家たちにとっては夢のような生活が待っている。
とはいえ、サロンが始まった初期は王家が設立したアカデミーの会員でなければ芸術家たちはサロンに参加することすらできなかった。つまり、まずはアカデミーに入ることこそが新米芸術家たちの登竜門となっていた。
が、時代が進むにつれて王家が解体されると、少しずつ制度には変化が訪れ、今は政府主催を名のもとに、サロンは業界の有力者である美術商が主に取り仕切るものとなった。それに伴い、参加資格も審査員のお眼鏡にかなえば特に必要なく、まずはアカデミーに入らなければ、といった前提条件もなくなった。
アカデミーに入ること自体が狭き門だった頃に比べれば随分と門戸は開かれたと言える。
もちろん、今も存在しているアカデミーに通う者の方が有利にはなるが、運が良ければ、審査のみでサロンに自分の作品を並べることもできてしまう。厳しいルールのもと、敷かれたレールを目指していた数十年前の画家にしてみれば、嘆きを覚えるほどに羨ましい変化を迎えていた。
しかしサロンの実質的主催者や参加条件が変わろうとも、サロンを通らなければ芸術家として名を売ることはできないという状況だけは変わっていなかった。
百年以上前にどこかの王族が勝手に始めたアカデミー制度から生まれたサロンという社交の場は、その明瞭さと合理性から時を経ても芸術家たちが目指す憧れの場所となっているのだ。
だが誰もがこのサロンという華やかな舞台を歓迎しているわけでもない。
メレルもその一人で、今、彼らが準備をしている路上展示会も、このアカデミーの名残りを引き継ぐ美術商主催のサロンに反発して不定期的に行っているものだった。
彼もかつてはアカデミーに通っていた。けれど彼の目指す画家としての姿とアカデミーに蔓延する独特の風習に大きな隔たりを感じ、一年も経たずに離れることになった。
アカデミーを辞めた後しばらくして始めたのが路上展示会だ。
ギャスパーの提案によって久々に開催することとなった路上展示会だが、後日、あの時子豚の庭にいなかった他の仲間たちにも声をかけ、最終的に今回の参加者は九人となった。
サロンと異なり、非正規の彼らの展示会には特段識者を招いたりすることもない。なので当たり前にパトロンの目に留まる保証もない。
その名の通り人目のつくところに自らの作品を並べ、通行人の興味を奪うことが彼らの目的だった。観客となる通行人の好奇心を刺激し、時として気に入った作品を購入してもらえることもあれば、新たな仕事を持ちかけられることもある。
ただ、それも縁があれば、の話で、多くの場合は何事もなく展示会は終了する。
正規のサロンとは違い決して報われる機会があるというわけでもない路上展示会だが、それでも参加者は回を重ねるごとに増加している。
メレルたち数名の仲間で始めた路上展示会への賛同者は日々増えているのだ。
参加者の動機は共通していた。
美術商の意向が強烈に反映されるサロンを面白く思っていないというところだ。
路上展示会当日、わいわいとした仲間たちの賑やかな声に包まれ、メレルは川沿いの通りに作品を並べていく。
メレルが今回展示する作品は全部で五枚だ。一通りの準備を終え、手の空いたメレルは自らの彫刻作品を慎重に道に並べるアルトゥールに目を向ける。ワークキャップのツバ越しに見える彼の作品にメレルは興味を抱いた。
「それは──ドラゴンか?」
近くの住人から借りた展示用の机に十五センチほどの見慣れぬ生物を模った彫像を置いたアルトゥールはメレルの問いに顔を上げる。
「んー、正確には龍だよ。ギャスパーが東方に行くって話を聞いた時に思いついたんだ。そういや東の方にもドラゴンみたいに龍という伝説の生き物が存在するって。龍はドラゴンと違って縁起が良い象徴で、おめでたいんだと。だから、龍は見たことないけど知らない動物も彫ってみようって思って」
「ドラゴンも龍も空想の生き物だろ。見たことなくて当たり前だ」
「え? 龍って存在しないの? 嘘でしょ?」
「じゃあお前はドラゴン見たことあるのかよ」
「んー。言われてみればないかも。え。ショックだな……龍、いないんだ。伝説ってそういうこと?」
メレルの指摘にアルトゥールはしゅん、と哀しそうな顔で自作の龍を見下ろした。
「残念だったな。でもいい作品だと思う」
予想以上の落胆を見せたアルトゥールに若干の罪悪感を覚えつつ、メレルは彼の肩をぽんっと叩いた。
アルトゥールはメレルとは違い彫刻家だ。主に彼が実際に目にした動物を彫っている。石から彫り出したとは思えない、滑らかで柔らかな繊細なタッチが彼の特徴で、本当に石でできているのかと疑う客が思わず触りたくなるのが彼の作品の最大の売りだ。
彼も少し前まではサロンへの出展を志していたが、今やそんな素振りは一切見せなくなっていた。
「おっ。もう準備万端だな。遅れてわりぃな」
「ギャスパー、並べるの手伝おうか」
「いや大丈夫。それより後から来る予定のカミーユの方を手伝ってやってくれ。どうもアトリエで漏水があったみてぇで──到着が遅れるそうだ」
「分かった」
二人の近くで作品を並べ始めたギャスパーに向かって頷き、メレルは久しぶりに見た彼の作品に感嘆の息を吐く。
「どれも良い絵だ。サーカス同行中に描いたのか」
思わず出たメレルのため息にギャスパーは照れくさそうにはにかんだ。
「ああそうだ。東方ではこういった画風も結構受け入れてくれたぜ。ほら、この天使の絵を見てくれよ。幼く純粋な天使たちが無邪気にメリーゴーランドで遊んでるんだ。サーカスを楽しむ子どもたちを見てたら描きたくなって衝動的に描いたんだけど、意外と悪くないだろ」
「ああ。悪くないどころか最高だ。ギャスパーの彩色技術にはいつも驚かされるよ」
ギャスパーが得意気に見せてきた作品にメレルは頬を綻ばせた。
見かけは大男で屈強な印象を抱くギャスパーだが、そんな雄々しい容貌に反して彼の描く絵は愛らしくメルヘンチックなものが多かった。
まるで絵本の挿絵に出てくるかのようなファンタジー感のある優しい色遣いにメレルはいつも度肝を抜かされていた。
「ありがとなメレル。そう言ってくれるのはお前たちだけだ。サロンの連中は、絶対に認めてくれないだろうからな」
「何を言う。あいつらにお前の絵の良さが分かるわけないだろ。奴らの感性は化石も同然。認められなくてもそれはお前の評価には繋がらない」
呆れ混じりのギャスパーの自虐をメレルは断固として否定する。
「まず前提としてあの連中に認められなければ出世ができないなんてのが間違ってる。結局は連中の趣向でガチガチに固められた作品しか評価されない。そんなんじゃ表現の幅が狭くなりすぎる。宗教画や神話の描写しか美術と認められないなんて時代遅れにもほどがあるだろ。いや、一回時代を巻き戻してるも同然だ」
「おっと。メレルの導火線に火をつけちまったみたいだな。はは、サロンを否定するお前、皮肉にも生き生きと輝いてるわ」
メリーゴーランドの絵を道に並べたギャスパーはメレルの不満気な顔に向かって陽気な笑みを湛える。
「今の美術商のドンはリュードリックだっけ? あいつ物腰は柔らかだけど白黒はっきりしてるもんな。今や影響力も薄まったアカデミーの掟を今も大事にしてるって話だ。なんでもあいつの祖父が昔アカデミーに携わってたとか」
自らが座る折り畳みの椅子を広げたギャスパーは腰を下ろしながら膝に肘を立てて頬杖をつく。