27 過去の警鐘
路上展示会から二日目の夕刻。
「おや。素敵なネックレスではないですか」
月白の薄明かりを背に玄関をくぐったガスパールは、彼を迎えたミシェルを見るなり目を細めた。洒落た黒帽子を胸に抱えたガスパールの穏やかな笑みに、ミシェルははにかみつつも「ありがとう」と答える。
「今日、訪問の予定はなかったと思うが。なにかあったの? ガスパール」
夕食の支度を進めるソリンに代わって直々に玄関扉を開けたミシェルにガスパールが驚いたように、予想外の来客に目を丸めたのはミシェルも同じだった。
応接間に案内すべきか悩むミシェルにガスパールは「この場で構わない」と視線で伝える。
「いえ。今日、知り合いからちょっと妙な噂を耳にしたもので。念のためお伝えしたく、仕事の帰りに寄らせてもらったのです」
「噂って? どんな噂?」
「それが──少し、厄介な類のものでして。メレルさんはいらっしゃいますか」
言葉を濁すガスパールが苦虫を噛み潰したような苦し気な微笑みを浮かべる。ちょうどそこに、彼に呼ばれたかのごとくメレルが階段から下りてきた。
「ああ。良かった。いらっしゃいましたね」
「ガスパール……? 今日来るとは聞いていないが……」
玄関でミシェルと向かい合う彼を一目見るなり、メレルもミシェルと似た反応をする。ガスパールは二人を驚かせたことに申し訳なさそうに肩をすくめた。
「これからお仕事ですか」
「ああ。子豚の庭の給仕に行くところだ」
「すれ違いにならなくてよかった。ぜひ、メレルさんのお耳にも入れておきたいことでして──」
二人に近づいてくるメレルを見つめるガスパールの瞳には、どこかほっとした雰囲気が漂っていた。
ミシェルの隣まで来たメレルは、不思議そうな顔をしているミシェルと一瞬だけ目を合わせてからガスパールに向き直る。
「なにか問題でも発生したのか」
「はい。いや、問題と言いますか……発生時点は、もうずっと前のことではあるのですが」
「──? 随分と神妙そうな話だな」
「ええ。はい、まぁ……」
メレルが首を捻ると、ガスパールはまたまた肩をすくめて手元の帽子をぎゅうと握りしめた。彼は立派な紳士だが、そうして小さくなっていると幼年さながらのいたいけさを醸しだしてくる。
「リュードリックという美術商を、もちろんメレルさんはご存知かと思います」
「ああ。よく知ってる」
「その彼が、つい最近、たいへん価値のある絵を外国の要人に売りに出したそうです。取引額は、思わずのぼせてしまいそうなほどの数字になったとのことです。ですがその取引が、ちょっと、うまくいかなかったようで……。リュードリック氏はこれまでの人生にないほどの損失を被ったそうで。取引相手の情報は機密事項なのか漏れてきませんでしたが。問題はそこではなく、その絵画にあったそうなのです」
「大金の取引が駄目になったんだ。そうとう参ることだろうね」
ミシェルが同情するように鼻先から静かに息を吐いた。
「ええそうです。リュードリック氏はかなりご立腹とのこと。なにせここ最近で最も熱を入れていた取引だったそうですから」
「で──絵画にあった問題ってなんだ?」
「ああそうでした。メレルさん、あなたも画家の一人ですから、これは是非お仲間の皆様にも警告して欲しいことでもあります」
「警告?」
「はい。端的に申しますと、今回取引の対象にあった絵画は名匠によって描かれた、未発表の秘宝とも呼ばれるものでした。長らく存在は示されていたものの行方不明になっていて、つい最近になって表に出てきたとか。これまで何十年も誰も目にしなかった作品ですからね。本来であれば天文学的な額となる代物です。それを手にしたリュードリック氏の歓喜は想像に難くないでしょう」
「手に取るようにわかるな」
「ええ、私も同意します。当然、その絵を買いたいという声は多く、リュードリック氏は長い時間をかけて慎重に取引を進められたと聞いています。取引相手の選定によほど熱中したのでしょう。肝心の絵画に問題があることに、その時点で気づけなかったのです」
ガスパールはやれやれと呆れた風に首を横に振った。
「取引の終盤にかかり、再度の絵画の鑑定が行われました。最初の鑑定で名匠の作品だと判断された後も鑑定は数回行っていたそうですが、最後の最後、本当に間違いがないのかを見極めるために実施されたとのこと。そこで、認めたくない事実が発覚しました」
「────贋作だったってことか」
「はい。その絵は、かつてどこかの時点で、まったくの他人によって修復の施されたものだったそうです。その修復というのが、名匠の画風を精密に再現したもので。もともとの絵は全く異なる技法で描かれていたと聞きました。別人によって描かれた作品を、誰かが修復し、その修復時点で名匠を思わせる作品へと変貌させた。数人の鑑定人も騙してしまうほど、精巧にね」
ガスパールは瞳の奥を光らせ、見知らぬ修復人の技術に関心を寄せた。
鑑定人を騙してしまうほどに他人の作品を再現することは、絵心のないガスパールにしてみれば想像もつかない才能に思えたのだろう。
「リュードリック氏は今、その修復を施した職人を血眼になって探しているそうです。メレルさん、あなたも、お仲間も、皆さん、濡れ衣を被らぬようにご注意ください。リュードリック氏は以前、某国の裏社会に明るい男と親密な関係になったと聞きます。なんでも彼の弟さんをサロンのスターにしたとかで、後ろ手でがっちり握手をしていた仲だそうですね。今回の失敗を彼は決して許さない。なにせ恥もかかされましたから。その矛先はお抱えの鑑定人や自らの選択に向けられることはないです。元凶は紛らわしい修復をした本人。そう信じて止まないはず。手段を選ばず、代償を払わせるつもりでしょう」
「忠告ありがとう、ガスパール。皆にも伝えておく」
「ええ。お二人も、何か不安なことがあればなんでも私に仰ってくださいね。そちらの界隈に顔は広くありませんが……何か力になれるかもしれません」
「ありがとう。忙しいだろうに、わざわざ立ち寄らせてしまってすまなかった」
「いえいえ! ミシェル様もメレルさんも、大切な方ですから」
メレルの落ち着いた返事に、ガスパールはパッと顔を明るくして笑う。
淡白な声ではあったが、それが却ってガスパールには冷静な反応に聞こえたのだろう。
「ではまた。次の時に。お忙しいところを失礼いたしました」
「こちらこそ。気をつけて帰るんだぞ、ガスパール」
「はい。ありがとうございます、ミシェル様」
帽子を再び頭にのっけたガスパールの表情は穏やかだった。無事に二人に忠告できたことに安堵しているようだ。ミシェルはガスパールを庭先まで見送り、彼が門を抜けたことを確認して玄関に戻ってきた。
「──君」
子豚の庭に行くために上着を手に取ったメレルを見上げ、ミシェルがぼそりと口を開く。
「さっきの贋作の話。君、関係してるんでしょ」
鋭い眼光でメレルを捉え、ミシェルはずばりと言い放った。
上着に片腕を通したメレルは、そのまま何事もない顔をして上着を羽織る。
「どうしてそう思う? あんた、絵画のことには詳しくないんだろ」
「詳しくなくても君の声を聞けば分かった。君は分かりやすい。ガスパールのことは誤魔化せても、ぼくの耳には通用しないよ」
自分の勘によほどの自信があるらしい。話を聞くまでメレルを解放するつもりはないようだ。ミシェルは玄関扉に背中を預けてむんずと腕を組む。
「リュードリックとかいう美術商、かなり怒ってるみたいだよ。君が犯人だってバレたらどうするの。というより、そもそもなんでそんな偽物なんか作ったの」
上着のポケットに最低限の小銭が入っていることを確認し、メレルはミシェルを真正面から見下ろした。
「贋作を作ったつもりはない。鑑定人に勝手に贋作だと判定されただけだ。その意図はなかった。俺はただ、依頼通りに描いただけだ」
「依頼通りってどういうことさ」
「俺は前から、金のために色んな仕事をしてきた。絵画に携わることなら特になんでも。それこそ来る者を拒む権利なんかなかった。その時に受けた絵画修復の仕事で、確かにある画風に寄せて描いて欲しいと言われたことがある。だがなんでそんなものを行方不明の本物だと鑑定したのか、そっちのほうが疑問だ」
「君が寄せて描いたのが悪いんじゃないか」
「いくら似せようと、本物と間違えられるなんて思うわけないだろ。ましてや幻の作品だなんて。見る目のない鑑定士のせいだ。それに画商たちだって──」
脳裏にぼんやりと浮かんできたリュードリックの横柄な笑顔が邪魔をして、メレルは一度口を閉じる。長年に渡って王座に君臨し、いくつもの歴史的名作を目にしてきたはずの彼ら。彼らは自分たちが犯したミスを末端の石ころになすりつけてくる。これまでと変わりなく嫌に安定した思考だ。白目を剥く愚行にメレルの表情が苛立ちで歪む。
「あんな適当な奴らに、人生は左右される。美術商の重鎮たちは腐敗してるんだよ。あんたは物知りになりたいそうだから教えてやる。奴らは見返りに金さえもらえればどんな無茶なことも融通してくれる。さっき、某国の裏社会の人間と仲が良いとガスパールも言ってただろ。それがいい例だ。リュードリックはサロンで無名の男を無性に可愛がっていた。その裏に、その男の兄がいるってわけだ。兄とリュードリックは黄金に輝く絆を持っている。無名の弟は、彼らの絆によって実力以上の待遇を浴びるほど受けていることだろうよ。その名前を誰も知らないのに」
メレルは身体を屈めてミシェルと視線を合わせた。メレルの口から語られる美術商の都合に、ミシェルはきょとんとして首を傾げる。
「そんなの逆らえばいいだけじゃないか」
彼の主張は至極当然のものだった。もっともらしく、誰もが胸に抱く疑問だ。しかしメレルは静かに首を横に振る。
「いいか? 世界のルールは最初に始めた者が決めるんだ。どの世界も同じ。早い者勝ちなんだよ。既に敷かれたルールの上に俺たちは成り立っている。覆すのは簡単じゃない。あんたも革命の歴史を学んでるはずだから知ってるだろ。基本的に、世の中は勝者の言いなりだ」
「勝者なのに悪者なのか?」
「勝者も間違えることがある。善人の言いなりになれるほど幸運なことはない」
メレルは屈めていた身体を元に戻して上着の襟を立てる。ガスパールが消えていった夜の向こうは思うよりも冷えそうだったからだ。
ミシェルは胸元にぶら下がるカメオを一瞥し、しゅんとした声で小さく呟いた。
「そんなんじゃ、画家が可哀想だ」
メレルは再びミシェルと視線を合わせるために姿勢を屈めて眉根を寄せる。
「あんたは自分の過去を憐れんで欲しいか?」
「──ううん」
メレルの問いかけにミシェルは間を置くこともなく首を横に振った。
「それじゃ、今日も帰りは遅くなると思う。ソリンに面倒かけるなよ」
「面倒、いつもかけてない」
「そうだといいがな」
玄関扉を開け、メレルはミシェルを振り返る。ちょうど、夕飯の支度ができたことを伝えにソリンが顔を見せたところだった。
それから何を言うこともなく、メレルは玄関扉を閉めた。庭を行くメレルの頬を冷たい夜風がピリピリと撫でていく。そのせいだろうか。目に焼きついたミシェルの不安そうな表情に、小さな針をチクリと刺された余韻が胸を覆う。