20 顔を上げれば
館に戻ると、ソリンが運転を終えたガスパールを労って夕食に誘った。彼もその誘いを受け、珍しく館には賑やかな声が響き渡ることとなった。ガスパールが部屋にいるとどんな空気も緩和されて和やかな雰囲気となる。
彼の存在に感謝しつつもメレルは言葉少ないミシェルに目を向ける。八枚目の絵が完成したことをまだ彼に伝えられていないのだ。言い出すきっかけを探っていたメレルは、ガスパールに少し手助けしてもらうことにした。
「ガスパール。君には世話になっているが、まだ俺の絵を見てもらったことはなかった気がする。折角だから見てくれないか」
メレルの気さくな問いかけにガスパールは満面の笑みを湛えて快諾する。
ガスパールの嬉しそうな声に、俯いていたミシェルの顔が僅かに持ち上がった。
「──完成したのか?」
「ああ。あんたのために描いた絵だ。ちゃんと見てくれよ?」
「うん。言われなくてもそうするって」
いつも通り反論してくるミシェルだが、言葉とは裏腹に依然として声に覇気は感じなかった。
恒例の絵画のお披露目のため、一同はリビングに揃ってメレルが布を取る瞬間を待つ。今回のキャンバスはこれまでの作品よりも一回り小さいものだった。出来るだけたくさんの作品を、と急いだメレルが敢えてキャンバスのサイズを変えたのだ。
結果として完成した最後の作品がこのタイミングとなったのは実に皮肉なものだった。
「じゃあ、開けるぞ」
「ええ! 是非お願いします」
楽しそうなガスパールの声に追従してメレルはキャンバスから布を取る。
「──あ」
絵の全貌が瞳に映ったミシェルから僅かに息がこぼれる。
キャンバスに描かれたのは誰かの手に頬ずりするシャルロットの幸福な姿だ。
全幅の信頼を寄せ、ここがわたしの居場所と言わんばかりの彼女の表情にガスパールから若干の嗚咽が漏れた。
シャルロットが頬を寄せる手の主は見切れていて誰かは判別できない。けれどその形と袖の模様を見れば、ミシェルの手をイメージしていることが容易に分かる。
「ミシェル様、こちらもお部屋にお持ちいたしましょうか」
「いや──!」
さっと前に出てきたソリンをミシェルが食い入るように止める。
「これは──ぼくが運ぶから。そんなに大きくないし、ぼくでも運べる」
「さようでございますか」
「絵も見たことだし、ぼくはそろそろ部屋に戻る。ガスパール、今日は来てくれてありがとう。君も疲れただろうし、泊まっていっても構わないから」
「おやおやお気遣いありがとうございます。でもご心配には及びません。私、夜中に車を走らせるのも好きなものでしてね。もう少ししたらおいとましますので」
「──そうか。じゃあ、また今度、ね」
「はい。おやすみなさい、ミシェル様」
ガスパールが会釈をするとミシェルはキャンバスを抱えて階段を上がって行った。メレルには心なしかその背中には哀愁が漂って見えた。
「いやぁしかしメレルさん、あなたの作品をまじまじと見させていただきましたが素晴らしいものですねぇ。あれを描くのにどれくらいかかるものです?」
ミシェルの余韻を目で追っていたメレルはガスパールの明るい声に意識を向ける。
つい、ミシェルの動向に気を取られてしまうが、気にしたところで余計なお世話だとミシェルに叱られるだろう。
「あれは急ぎで描いたからそこまで時間はかかっていない方だ。だが──」
ミシェルに対して自分に出来ることなどもう残されていない。
彼が依頼したシャルロットが亡くなった今、この館に自分がいる意味はあるのだろうか。
ここにきてシャルロットが亡くなった実感が湧いてきたメレルは、ごちゃごちゃとする気を紛らわすためにもお喋りなガスパールとの会話に夜を費やした。
*
シャルロットが亡くなって二日が経ってもミシェルは部屋に籠るばかりだった。
日課だった図書館通いも中断したまま。食事すら部屋に運ばせるようになった彼の顔を見ることはすっかり無くなってしまった。
顔を合わせなければこれからのことを話し合う機会も持てない。
描くべき対象を失ったメレルは今後の予定を宙に浮かせたままソリンの手伝いに精を出すようになっていた。時間的には自分の絵を描く余裕も出てきたが、どこか罪悪感が勝って集中できなかったのだ。
そしてさらに三日が過ぎ、ほとんど一週間、メレルはミシェルの姿を見ることはなかった。
食事を届けに行くソリンに彼の様子を聞いても、シャルロットの絵を黙って見ているということしか教えてくれない。食事もほんの少ししか口にしないという。ただでさえ成長期だというのに、このままでは栄養失調にもなりかねない。そんな状態が続けば流石に心配にもなってくる。
「ソリン。今夜は俺があいつに飯を届けに行く」
「正気ですか。ミシェル様は許可なく部屋に立ち入られることを嫌いますが」
「そうは言われてもこのままにしてもおけないだろ。俺だってあいつに話がある」
「仕事のことですか」
「ああ。館の手伝いをするのも悪くはないが、あくまで俺は画家としてあいつに雇われてる。中途半端な状況は好まないんだ」
「それを言うのは反則に近いです。仕方がない。では、こちらをお願いいたします」
ソリンは作り立てのスープを器に注いでメレルに渡す。
トレイに載せられたほかほかのスープから漂う香りに空腹感が誘われた。
「──あとで俺も食べるから」
「ええ。たくさん作りすぎてしまったので是非召し上がってくださいな」
階段を上がるメレルの背に、特に嬉しくもなさそうな淡白な声が投げかけられる。
ミシェルの部屋は二階で一番背の高い扉の向こうにある。階段を上がって真っ直ぐ進んだ突き当たりに位置していた。固く閉ざされたその扉は、まるで見えない鎖が掛かっているようにも見えた。
一度息を吸い込み、メレルは意を決して拳で扉を叩く。
「夕食だ。ご飯はしっかり食べろよ」
呼びかけてもミシェルの返事はない。扉の前に置いてもいいが、それでは本当に彼が食事を口にしたのか確認することはできない。
「入るぞ。怒るなよ」
断りを入れ、メレルは思い切って扉を開けた。鍵はかけられていない。想像よりも重たい扉を開くと、窓際に設置されたベッドの横に小さくうずくまる影が見えてきた。
部屋のカーテンは閉じられたまま。ランプの明かりに照らされる室内は薄暗く、数分いるだけでも気が滅入ってしまいそうな空気に満ちている。
「今夜も月が綺麗だ。あんたも見てみるといい」
スープを机に置いたメレルがカーテンを開けると、ランプよりも明るい月光が部屋を照らしていった。眩しさにミシェルが顔を逸らす。どうやら怒るつもりはない様子だ。
「美味しそうなスープだから温かいうちに食べた方がいい。あんたが食べるまで出て行くつもりもないし」
「──どうして。放っといてよ。ぼく、人に見られながら食べるの好きじゃない」
「今更何を……朝食の時、距離があるとはいえ向かい合った席に俺を座らせたあんたが言っても説得力ないな」
メレルは窓に背を預けてやれやれと腕を組む。
「あんた、シャルロットがいなくて寂しいならそう言えばいい。悲しみを口に出すことは別に罪じゃない。俺じゃなくても、ガスパールとか──理解してくれる相手がいるだろ?」
「別に寂しくなんかない。ぼくはもとからそうだ。ずーっとひとりなんだから」
「この期に及んでまだ強がるつもりか」
口調だけはしっかりしたミシェルにメレルは呆れてため息をつく。
相変わらずうずくまったままのミシェルはメレルがいる反対方向に身体を向けた。
「強がりじゃない。勝手なことを言うな。不愉快だ」
「はいはい。確かに気持ちを決めつけるのは下品だったな」
彼の動きにつられて同じ方向に視線を投げたメレルはある双眼と目が合う。シャルロットだ。瞬きをしてよくよく見れば、メレルの視線の先には壁一面に飾られたシャルロットの絵があった。これまでメレルが描いてきた彼女の絵のすべてだ。
最後の一枚も含めて計八枚。リビングでミシェルに引き渡してから、自分が描いたシャルロットの絵を再び見るのは初めてだった。一同に並べられた自分の作品を見るのは我ながらに新鮮で、思わぬ光景にメレルは言葉を見失った。
メレルの声が聞こえなくなったことを不思議に思ったようだ。
塞ぎこんで外部を遮断していたミシェルの顔が上を向き、月明りに照らされる。
彼がこちらを見ていることにメレルは即座に反応し、逃さぬように彼の瞳をじっと捉える──が、その眼差しは彼の長い前髪に阻まれてしまった。
前から伸びてきてはいたが、記憶以上にミシェルの前髪が長くなっている。
窓から背を離したメレルはミシェルの前でしゃがみこみ、片足をついてから彼の長い前髪に手をかけた。
「髪、切ってやろうか?」
目にかかっていた髪を手で避けられ、ミシェルは不意に唇を結ぶ。真正面から遮るものなく人の顔を見たのが久々だったらしい。膝を抱えるミシェルの手に力が入った。
「安心しろ。手先は結構器用な方だから」
ミシェルの前髪を彼の耳に掛け、メレルは得意気に笑う。彼の笑みを見たミシェルの瞳が器に入った水にようにぐらりと揺れた。メレルに自覚はなかったが、彼がミシェルに対して自然な笑顔を向けたのはこれが初めてのことだ。見慣れない彼の表情にミシェルも意表を突かれたのだろう。
なかなか返事をしないミシェルにメレルが首を傾げると、彼はあまり気の進まない調子でぼそりと呟いた。
「まぁ……ソリンよりは、マシかも……」