18 がんこもの
「────君、なんで笑ってるの。気味悪いよ」
無愛想な幼い声が途端にメレルを現実に引き戻す。
声の出所を辿れば、診察を終えたシャルロットを抱えたミシェルが不審な顔でこちらを見つめていた。
「診察は無事終わったようだな」
気を取り直してメレルがミシェルに訊くと、ミシェルは「うん」とだけ答えてメレルの前に立ちはだかる。
「で、なんで笑ってたの。なにも楽しいことなんかないだろ」
「悪い。知り合いの絵が飾られてるのを見てつい」
「知り合いの絵? それって、あの大きな絵のこと?」
ミシェルは訝し気に首を傾げながら入り口付近に飾ってあるカミーユの絵を指差す。
「そうだ。病院に絵を描いたと聞いてはいたが見たのはこれが初めてで。つい気が緩んだ。これとは違うがあんたも彼の絵を路上展示会で見た記憶はない?」
「うーん……言われてみれば、似たような雰囲気の作品はあったかもしれないけど……あの時、あまり長居はできなかったから」
「そうか。それで、シャルロットの具合はどうだ。医者は何て言ってる?」
「──あまり、できることはないみたい」
「…………そうか」
ミシェルの声が低くなったので、メレルは引きずられないように柔らかな口調で一言だけ返事をした。
その後、会計を済ませ病院を出たミシェルの様子は館を出た時よりも一段と暗く、表情にはすっかり影が落ちていた。利口な彼のこと。恐らく医者の答えを前もって予測くらいはしていたのだろう。けれどいざその通りの結果を聞かされると、思った以上に気持ちは抉られるものだ。
病院に籠っているうちに空は夕陽に染まり、沈む太陽の強烈な熱が地上を暖かく包み込んでいた。しかし非情な現実を突きつけられた今のミシェルにとって、恩恵であるはずのその温もりは残酷なまでに優しい。
俯きがちな彼の小さな輪郭は夕焼けに燃やし尽くされてしまいそうなほどに儚く見えた。
錘を付けたかの如く重い足取りのミシェルに合わせ、今にも止まりそうな歩行を続けるメレルは夕陽に痛めた目を細めた。
「迎賓館の話、知ってるか?」
唐突にメレルの口から放たれた問いにミシェルの足がぴたりと止まる。
「なんでも今度新しく建設する迎賓館に飾る絵をお偉いさんたちが探してるらしい。俺がシャルロット以外の絵を描いていたのはその仕事を掴む可能性を失くしたくなかったからだ」
「──迎賓館のことは知ってる。でも、なんでいまその話を……?」
隣に追いついたメレルを見上げ、ミシェルはくるりとカールした長い睫を上下させた。二人はなんとなしに同時に歩みを再開させる。
「俺はあんたに雇われてる身だ。本来ならあんたに頼まれたシャルロットの絵に注力すべきだった。だがあんたは俺が違う絵を描いてることを知ってそれを止めろとは言わなかった。何のために描いてたかを言わないのは不誠実だと思って」
「なら最初からそのことを教えてくれても良かったのに」
「あんたもシャルロットの具合が良くなかったことを言わなかった。お互い様だ」
「だって──シャルロットは、もう、老猫だし……わざわざそれを言うのはシャルロットに失礼だろ」
「その理由は違うだろ」
もごもごと言葉を濁すミシェルの声を断つようにメレルはぴしゃりと言い放つ。
「言葉にして外に出してしまえばシャルロットの調子が悪いことが本当になりそうで言いたくなかったんだろ。だからあんたは大事なことを教えてくれなかった。彼女に時間の限りがあることを」
「──それは」
「だがあんたを責める気もない。俺が迎賓館の仕事を取るために自分の絵を描いてたって俺も黙ってたんだし」
「それとこれとは……違う気がするけど」
シャルロットが眠る籠をぎゅっと抱きしめ、ミシェルは腑に落ちていないような声で呟く。メレルの言っている意味を分析することに意識が割かれ、ミシェルは隣に並んで歩く彼を無理に追い越そうとはしなかった。
「大きな違いはない。今回の迎賓館の仕事も売り込みに大事なのはパトロンの力やサロン活動で目立つこと。いつもの通りだが、そのどちらもなければ確率は低い。が、俺はそんな現実を認めたくなかった。だから迎賓館という言葉をあんたに向かって口にした瞬間、あんたの力を借りないと仕事を得る可能性は皆無だって現実を認めることになる。それが俺には屈辱だった。悔しかったんだよ。結局最後は権力か、って。あんたにしてみれば笑える話だろ。馬鹿にされても構わない。頑固だって言われるのには慣れてるからな」
メレルが自分のことを鼻で笑うと、ミシェルは驚いたように目を丸めた。
「ぼくは画家の業界をよく知らない。けど、皆、なんだかんだ自由に作品を作って、それでやっていけるものじゃないのか。だって、街には芸術作品ばかりじゃないか」
「そんなの一握りだけだ。理想通り好き勝手にやっていけるのなんてな。俺はこれまで絵画修復や肖像画、観光画なんかを描くことでなんとか食い繋いできた。だが本当に描きたい作品は違う。好きに描くのは勝手だが、それだけだと待ち受けるのは野垂れ死にだ。それを避けるには何か仕事で大きな結果を残さなければ認められない。そうやってくすぶってる人間はあんたが想像するよりも多い」
泰然として自分の置かれた立場を語るメレルの話にミシェルは興味津々に耳を傾けていた。影の落ちていた彼の表情も気が紛れたのか少しばかり生気を取り戻している。
「こんな状況だ。シャルロット以外の絵を描くこと、あんたも本当は快くは思ってなかっただろ。だから勝手なことをしたと、一応謝っておこうと思って」
「そ、そんなこと……ぼくは気にしてなかったってば」
「あんたは嘘が下手なのか上手なのか分かんないな。安心しろ。今はシャルロットの絵しか描いてない」
「──そうなの?」
「こんな女神、描く機会なんか二度と訪れなさそうだし」
「……そうだろ。シャルロットは素晴らしい猫でしょ」
「ああ。それだけはあんたと同じ意見で助かったよ。俺たち気が合わないだろ」
「君は頑固だものね」
メレルの言葉に微かにニヤリと笑ったミシェルの声はわざとらしいまでに意地の悪いものだった。
「でも、君の話を聞いて、君が画家への情熱を持っていることは分かった。少しだけ君の見方が変わったかな。君も殊の外辛抱強いんだね」
眩いまでの夕陽に目を細め、ミシェルは前を向いてクスリと笑う。少しずつ上を向いていくミシェルの顔を一瞥し、メレルが興味本位に訊ねる。
「これまではどう思ってたんだ?」
「放浪ジゴロ」
「辛辣だな。じゃあなんでそんな奴を今まで雇ったりなんかした?」
包み隠さないミシェルの感想に感慨深さすら覚える。感心して腕を組み、メレルはついでにずっと謎だったその理由を訊いてみた。
「──君の絵は現実のようで非現実的なものばかりだった。まるで、忘れたくない夢を見ているような。ぼくにとってシャルロットは夢みたいな存在だ。君なら、そんなシャルロットのことを誰よりも美しく描いてくれそうだったから。だから君に頼んだ。こんなに可愛くない性格だとは知らなかったけど」
答えながら、ミシェルはメレルのことを恨めし気に睨む。どうやら人格的には彼の期待には応えられなかったらしい。とはいえ自覚のあるメレルはそう言われても嫌な気はしなかった。
「あんたのこと、子ども扱いして悪かった。一人の人間に変わりないのにな」
「そ……そうだよ。分かればいいんだよ。ま、ぼくはそこらにいるような子どもじゃないから君みたいに簡単には癇癪を起さないけどさ」
思いがけないメレルの謝罪に意表を突かれたようだ。
ミシェルはずんずんと力強い足取りで彼を追い越し、地平線に近づいた太陽で赤らんだ顔をフンと背けた。