泣き喚く泥の塊
「帰って来たか、サハル。でかしたぞ」
宮殿では、病気のはずの兄帝ダレイオが上機嫌だった。
「結婚式を取り止めたそうではないか。さすがわが弟! よくやった」
意味不明なことを口走っている。
俺は肩で息を切らせた。
ここまで全速力でやってきたのだ。息も切れようというものだ。
緑色の肌を持つ王位継承者は、白魔法の使い手だ。対して白い肌の俺は、土属性で、土魔法を使役する。
エメドラードは山岳国家だ。式場となった山からここまで、トンネルを掘るように周囲の山の山腹をくりぬいて帰って来た。それしか、ジョルジュ王子を撒く方法はなかったのだ。インゲレ国の王子だけあって、彼の馬は、素晴らしい駿馬だった。だが、今頃は、起伏の多いエメドラードの山道で息を切らせていることだろう。
「エルナは?」
肩でぜいぜいと息を切らせ、尋ねる。
ジョルジュ王子の出現で、驚いたエルナは結婚式の途中で姿を消してしまった。彼女の行く先は、ここしかない。辺境に実家のあるエルナには、王妃である姉しか、頼れる人はいないのだ。
「さあ?」
ダレイオが首を傾げる。とぼけているようにしか見えなかった。
「兄上、タビサはどこだ」
ダレイオがとぼけているからには、エルナはタビサの部屋にいるのは間違いない。理由はわからないが、夫婦で彼女を俺から隠しているのだ。
だが、やっと手に入れた掌中の珠を、失うわけにはいかない。俺のせいで、あんなに辛い思いをさせたのだから、なおさらだ。
「王妃か? 私室におるのではないか?」
あいかわらずすっとぼけている。腹の底がしんと冷えた。やっぱりだ。やっぱり兄は、何か隠している。
「なぜ、俺からエルナを隠す?」
「隠してなどおらぬ。それよりどうしてそこまでエルナにこだわるのだ? お前は、彼女との結婚に異議を唱えたと聞いたぞ」
「はあ?」
いったいどういう伝言ゲームだ?
「本当は俺も、この結婚には反対だったのだ。だから、式には出席しなかった」
「兄上!」
「だが、愛する弟のことだ。好きにさせてやろうと決意したのだ。お前の目が覚めて、本当に良かった」
「何を言うんだ、ダレイオ!」
「破談は正しい判断だと思う。さすがわが弟だ」
「破談になんかしてない! 俺は彼女を決して手放さないぞ!」
我を忘れて叫ぶ。兄は哀れむように俺を見た。
「お前は、エルナの正体を知らぬのだ」
そこで急に、卑猥な顔になった。
「あの女は、淫乱だ。到底、お前には扱い切れまい」
俺は激怒した。
「いくら兄でもあっても、王であっても、エルナを侮辱する者は許さねえぞ!」
「事実を言っているまでだ。あれは猥雑で淫らな女よ」
全身がぶるぶると震え出した。ダレイオに殴り掛かりたくてたまらない。けれど、まずはエルナだ。ダレイオがここまで言うからには、彼女は、姉のタビサの部屋にいるのに間違いない。
無言でくるりと向きを変え、俺は、謁見室から出て行こうとした。
「待て、サハル。どこへ行く」
「決まってる。エルナのところだ。彼女はタビサの部屋にいるはずだ」
「ほほう。その泥まみれの格好で、王妃の部屋へ闖入すると?」
言われて俺は改めて、全身を眺め渡した。
確かに泥だらけだ。山々の山腹にトンネルを突貫で掘り抜いてきたのだから、無理もない。
「両足もひどいことになっているではないか」
その時、俺の両足から、泥の塊がぼろり、ぽろりと落ちた。怒りのあまり震えたからだろう。
「おじちゃま?」
「ちちうえ~」
「うへえ。泥がしゃべった」
さすがのダレイオも後じさった。
「泥ではない。一つはお前の息子だ!」
言い置いて、くるりと向きを変えた。
泥の塊がふたつ、ついてこようとする。
「おじちゃま~~~」
「ちちうえ~~~」
泥がふたつ、両手(?)を広げて抱き着いてこようとする。
「女官長!」
大声で俺は呼ばわった。
「はいぃぃぃーーーっ!」
年配の女官がすっ飛んで来た。
「こいつらを風呂に入れろ。風呂が無理なら、井戸にでもつけておけ」
なおも俺を追って泣きわめく二つの泥の塊を見て、女官長は目を丸くした。