封印を解く
「その革袋はお前が持っとけ」
ぷいと背を向け、サハルが言う。
「それから、俺と会ったことはタビサには言うな」
「どうしてです?」
「彼女からお前まで取り上げたくない」
どういうことかわからなかった。
もちろん、ついてこいと言われれば、俺はこの人についていったろう。けれどエメドラードの偉大なる王が、果たして出来損ないの甥についてこいなどと勧誘するだろうか。
それにこの善良な人は、母のことを知らなすぎる。
「無理です。母はどんな些細なことでも探り出してしまう」
まして、待っていろと言われた船着き場からいなくなったのだ。どのような仕置きがあるか、考えるだけで恐ろしい。
「全く世話の焼ける餓鬼だな。なら、記憶を消しといてやる」
「え?」
「黙ってここに頭を乗せろ!」
石の上に座り、自分の膝を指さした。
「そそそ、そこに……」
膝枕! 一体何のご褒美だろう!
嬉しさのあまり、頭の中が真っ白になった。
「耳から呪文を流しこむんだよ。早くしろ」
俺は慌てて髪を掻き毟った。もう何日も沐浴していない。美しい水色の薄物にフケが散ったら大変だ。
サハルが悲鳴を上げた。
「うわっ、何をしやがる、このトリアタマが!」
「頭のフケを払ってるんです」
「フケ? 羽根まで飛んで来たぞ! 羽毛が鼻に……」
盛大なくしゃみをした。それから、まじまじと俺を見た。
「そういえば、船着き場にいた時、お前の背に羽はなかった。服の中に隠していたのか?」
「あの時はまだ、自分に羽があるって知らなかったんです」
「だってお前には、生まれた時から羽があったろうが。スズメみたいなチンケな羽が」
「え、そうなんですか!?」
初耳だった。物心ついた時は既に母と共に逃げ回っており、そして俺に羽なんてなかった。逃げる時は、母が俺の襟首を掴んでぶら下げて走ったものだ。首が絞められて苦しかった。
「知らなかったのか」
サハルの表情は、呆れを通り越し、いっそ哀れみさえ浮かべていた。
「そうか。封印されていたんだな。タビサがやったのか?。俺に気づかれまいとして? 無駄なことを!」
「叔父様。僕は嬉しいです。羽があればどこへだって叔父様についていける!」
思わず叫ぶと、サハルは鼻白んだような顔になった。
「馬鹿が。せっかくの羽をくだらんことに使うな!」
「くだらなくなんかありません!」
思わず言い返してしまった。俺にとっては重要なことだ。
叔父はますます白けた顔になった。
「いいから、母親は大事にしろ。言われたことは守れ。ダレイオの両腕は受け取れない。けれど、息子の体の一部を封印して自由を奪うなんて、やりすぎだ」
「……は?」
決めつけられてきょとんとしてしまう。こんこんとサハルが諭す。
「いいか、ホライヨン。お前には大きな強い羽がある。それを封印しようとする者には、決して従ってはならない。たとえそれが、お前が最も信頼し、愛する人であってもだ」
「はい」
愛する人って誰だろう。俺の「愛」の対象は、母ではない気がする。むしろ目の前にいるこの人に向けたい。
もちろん、思ったことを言葉にするなどできなかった。凄みのある赤い目で見据えられ、こくりと頷いた。
「はいと言ったな。いい子だ」
サハルは満足そうだった。
「いい子?」
「ああ、いい子だ。お前はいい子。最後ぐらい言ったっていいだろ? どうせ記憶を消すから」
強引に引っ張られ、よろめいた。頭がふんわりと優しい布の上に横たえられた。
さっき、宙に浮いていた時に嗅いだ香気が、一層かぐわしく漂っている。思わず俺は目を閉じた。
愛を語るかのように、優しい声が囁いた。
「俺のことなぞ忘れちまえ」
「ホライヨン! ホライヨン! いったいどこへ行っていたっていうの?」
母は俺を抱きしめた。
「もしお前に万が一のことがあったら!」
船着き場で母は待っていた。さっきの俺と同じように大きな門柱に寄り掛かって。夜は更け、蹲った母の姿は頼りなげに小さく見えた。
頭がぼんやりする。俺は今までどこでどうしていたのだろう。
「ごめんなさい、母さん」
とりあえず謝罪した。すると母の目から涙が溢れた。
「あの人がいなくなり、お前までいなくなってしまったら、私はひとりぼっちになってしまう」
「母さんをひとりぼっちなんかにしないよ」
一人っ子の当然の責務として俺が言うと、母は泣きながら笑った。
「いいのよ。行きたいところがあったらどこへ行っても。。でもそれは、大人になってから。お前が私を離れていくのは」
「僕はどこへもいかない。ずっと母さんのそばにいるよ」
「今はね。だって私は、あんまりいいお母さんじゃないもの。あの人のことばかり気に掛けて、お前のことはおざなりにしてきた。今日だって、あの人の体を集めることにかまけて、お前を置き去りにしてしまった」
「そんなことないよ。母さんはいいお母さんだよ」
「馬鹿な子。それはね、ホライヨン。お前が他のお母さんを知らないからよ。今までいったいどこへ行っていたの?」
「……わからない」
本当にわからないのだ。
船着き場で母と別れたことまでは覚えている。けれどそれから先のことは、頭がぼんやりしてしまってよくわからない。
「そう」
母はため息をついた。俺はまたひとつ、母を失望させてしまった。
「とにかく、私のそばにいなくちゃダメ。わかったわね」
「うん。大人になってもずっと母さんのそばにいるよ」
本当にそうしようと思ったのだ。ところがその時、ふっと心の中に別の人の顔が浮かんだ。誰だかわからない。けれど、とても美しい人。
母の目が俺の背後に注がれた。不思議そうに尋ねる。
「あら、お前……羽の封印を解いたの?」
「うん。多分……」
よくわからない。
「しようのない子ね。もう一度封印してあげる」
「封印はいやだ」
そう言うべきだと思った。
自慢じゃないけど、俺は今まで母に逆らったことがない。怒ってばかりいるけど、それは俺がダメダメだからで、俺は母が大好きだったから。でも、この時、生まれて初めて、母に逆らった。
母は大きく目を見開いた。
「なんですって!?」
「羽を封印してほしくない」
明確に、はっきりと主張した。
「けど、お前が前王の息子だとしれたら、どんな輩が襲ってくるかわからないのよ?」
「その時は、自分の羽を使って戦う。母さんのことも守ってあげる」
ふっと母は遠い目になった。
「いいわ。どうせサハルには居場所を知られてしまったことだし。彼がこれ以上、私達に手を出してくることはないでしょう。ただし、自分で羽を隠す術を覚えるのよ」
「はい」
サハルというのは、父上の弟だけど、父上をばらばらに切り刻んだ憎い仇だ。俺と母さんをつけ狙っている敵でもある。
羽を隠す必要なんて全くないと思いながら、俺は承諾した。心の中で誰かが、母の言いつけを聞かなければならないと言ったからだ。
それがいつのことか、誰が言ったのかわからない。ただ、夢のようにきれいで透き通った人が、確かにそう言ったから。




