拝礼ができないから
ホライヨン目線に戻ってきます
大きな音を立て、堂の天井が吹き飛んだ。青い空を、水色の衣装に赤い髪の男がふわりふわりと飛んでいく。
その時俺が考えたのは、堂の中にいるであろう母のことではなかった。恥ずかしい話だが、彼女のことは、一瞬も脳裏をよぎりはしなかった。
……彼だ。
ただひたすら、彼についていきたいと思った。
あの美しい、奇跡のような青年に。
思いは強く、炎となって身を焦がすようだった。心に宿る思慕は肉体をさいなみ、実際、肩甲骨の辺りに痛みが走った。
「うっ……」
痛みはますますひどくなった。背中が痛いだけで吐きそうになるなんて、信じられない。意識が遠のいていく。気を失う寸前、なにかがとばりばりと剥がれ落ちた気がした。
……ああ、あの人が行ってしまう。
無我夢中で空を仰いだ。高みにいる彼をひっかこうとするかのように高々と両手を上げる。
背中の痛みがふっと消えた。今までの苦痛が嘘のように体が軽い。穏やかな風が足元でそよいでいる。
……足元で?
気がつくと、俺は宙を飛んでいた。
「うそ……」
驚いたことに、背中には二枚の羽がついていて、力強く空気をかき分けている。
足元に崩れた堂が、そして中洲島がみるみる小さくなり、けど、そんなことは少しも気にならない。高い所も恐ろしくない。
ただひたすら、水色に翻るあの人の裾を見ていた。幾重にも重ねられた薄物が風を孕み、ふわりふわりとなびくのを。
気のせいかもしれないけど、なんだかとてつもなく良い匂いがする気がする。人の香りがこんなに離れたところまで漂ってくる筈はないのだが。
強い風が吹き、布の合間に編み上げ靴の先が見えた。
喘ぎ、必死で体中をよじり、限界まで両手を伸ばした。
息が詰まるかと思った瞬間、なんとか編み上げ靴にしがみつくことができた。
靴には、華奢な踝が納まっていた。今までの苦痛も忘れ、思いがけずに現れたこのご褒美に、そっと口をつけた。なんで口をつけたかはわからなかった。だが、誓ってもいい。食べようとしたわけじゃない。ただ美しい物への敬意というか、拝礼以外の行為で、今の気持ちを表したかっただけだ。だって跪いてお辞儀をしたら、空の高みから地上へ落ちてしまう。
「何しやがる!」
風の音に交じって、天上から怒声が落ちてきた。同時に、頭のてっぺんにひどい痛みを感じた。どうやら頭頂を、思いきり蹴られたらしい。
意識を失った。
気がついた時、俺は、大きな岩に凭れ掛かっていた。細長い大きな岩で、まるで木のように天に向かって聳え立っている。周りには同じような岩が、まるで地面から生えているみたいににょきにょきと聳え立っている。
「気がついたか?」
平坦な声が尋ねた。平坦だけど、温かみのある声だ。
「ごめんな。蹴るつもりはなかったんだけど、だって、いきなり足にしがみつかれたらびっくりするだろ? だから……」
水色の衣の美しい人がこちらを見ていた。しどろもどろと言い訳する姿がかわいいと思った。かわいい? 大人の男の人なのに。
「貴方は……」
「もういい加減、俺が誰だかわかったろ?」
「えと」
「わからないのか!? 何年経っても、頭の悪さはちっとも直っていないな!」
褒められたのだと思った。美しい人の声は、笛の音のようだ。だからきっと、俺を褒めてくれたのだと思った。
呆けたように見つめていると、彼は諦めたように教えてくれた。
「俺はサハル、お前の叔父だ」
「叔父様……?」
懐かしい響きだった。見下ろす赤い髪の彼にも見覚えがある気がする。
「俺のことなんぞ忘れちまったってか? あの頃、お前は赤ん坊に毛が生えたくらいのチビだったもんな。かまわないぞ、忘れてくれても。だがさすがに、中洲島の船着き場でリンゴ飴を買ってくれた人が誰かは、わかっていただろ? わかっていて、お前は……」
剣呑な気配が漂った。美しい人の放つ殺気は、ぞっとするほど凄みがある。
「貴方が僕の叔父様だなんて、ちっとも思いませんでした!」
慌てて俺は弁解した。だって本当のことだし。
「嘘だね。お前と母親は俺に会いに来たのだろう? それなのに、気がつかないなんて、いくらお前でも、そこまでバカじゃありまい」
「本当です! 貴方が叔父様だなんて……この俺と血が繋がっているなんて、これっぽっちも思わなかった!」
「俺だって、お前のような阿呆と親戚だなんて考えたくないよ」
「ただ、感じたんです」
「ほう?」
「なんて美しい人だろう、って」
「……」
サハルは深いため息をついた。本当にこの人は、整った顔立ちをしている。
「それで、俺がエメドラード王だってわかったからには、差し出すものがあるだろう?」
サハル……叔父であるその人が居住まいを正す。
「差し出す……もの?」
何を言っているのかさっぱりわからない。彼が喜ぶのなら、なんだって差し出すというのに。
「眠っている間に失敬してもよかったんだが、他人の肌に触るのは気が進まねえ。仕方なく目が覚めるのを待っていたんだ」
気を失ったまま置き去りにされたら、ライオンかトラか、肉食獣の餌食にされていたに違いない。第一、このような岩場では、空から落ちたタイミングで体が粉々に砕けてしまったろう。
そういえば、空中で誰かが体を支えてくれた気がする。その誰かは、俺が意識を取り戻すまで付き添っていてくれた……。
「ありがとうございます」
心からの感謝を込めて、目の前の人に礼を述べた。
「何を言ってんだ、お前は。頭を蹴った時に打ち所が悪かったのか」
「いいえ。僕の体が砕けず、血の匂いを嗅ぎつけたトラやライオンに食べられずに済んだのは全て叔父様のお陰です」
「ふうん? なんだかわからないが、俺に恩義を感じているのだな? なら、感謝の気持ちを形にしてもらおうじゃないか」
「はい?」
「寄越せ」
「何を」
「いいから早く」
「なんでも差し上げます。けど、何を渡せばいいんです?」
「ああ! もうっ!」
サハルは地団駄踏んだ。
「タビサが持たせただろう。頓宮に忍び込んできた時、彼女は持っていなかったからな。彼女が信頼しているのはお前しかいない」
「ああ!」
母が俺を信頼しているというのは全くの初耳だったが、サハルが何を欲しがっているのかはよくわかった。
父の両手だ。
全くためらわず、殆ど脊髄で反射して、俺は服の間からクビに吊るした革袋を取り出した。
「……」
まるで異物をみるかのように、サハルはまじまじと俺を見つめた。自分から差し出すように言っておきながら、手を伸ばそうともしない。
「母が預けたのはこれです。小さく見えるのは魔法をかけられているからで……」
「お前な、」
呆れたような声が遮った。
「それは、お前の父親の両腕だろう? それを、あっさり差し出していいのか?」
「貴方が望むのなら」
「この俺が、お前の父親の胴体から斬り落としたんだぞ?」
「はい。母から聞きました」
「つまり俺は、お前にとって父の仇だ? わかっているのか?」
「仇?」
そんな風に思ったことは全くなかった。なによりも本人を目の前にした今、ただただ、彼の存在に圧倒されるばかりだ。その立ち居振る舞いの美しさ、飾り気のない振舞いの折り目正しさに。
「叔父様は父の仇なんかじゃありません」
「ダレイオの体を切り刻んだのはこの俺だ」
「ならば、最初に父が貴方に害をなしたのでしょう」
サハルは目を見張り、言葉を失った。