一瞬の陶酔
人ごみに紛れ母の姿が見えなくなると、俺は大きな門柱の陰に座り込んだ。
少し先に、屋台が見える。店先にたくさんのリンゴ飴が、これ見よがしに突き刺してある。
じりじり照り付ける太陽の光が痛いほどの日だった。たくさんいた人々の数も次第に減り、船着き場は閑散としてきた。リンゴ飴の屋台も、店を畳むのだろうか。
心細くなって両膝を抱え、母が早く帰ってきてくれることを望んだ。怖い人ではあるが、その分頼りがいもあった。俺はまだ幼過ぎて戦う術を身につけていない。だから一層、母を頼ってしまうのだ。
青い水面を、遠くから船がやって来るのが見えた。地味な拵えの帆掛け船が、風に押されて素晴らしいスピードで河を遡って来る。きっと首都から来たのだと思った。この辺りの船はいつもゆっくりと走るから。あんな風にスピードを上げることができない。
船着き場に着いた船からは、一群の人々が下船した。真っ先に下りて来たのは、抜けるような白い肌の若い男だった。水色のカシュクールの上半身を腰の辺りできつく締め、裾がふわりと広がっている。驚く程細い腰だった。
彼は先に立って歩こうとする護衛らしき男を有無を言わさず後ろに押し戻し、自らが先頭に立って歩き始めた。堂々とした物腰だ。さらりとした赤い髪が背中に流れ、暑い日にもかかわらず、とても涼し気だ。
一行が門柱の前を通り過ぎた時、横顔がちらりと見えた。切れ長の目がまっすぐに前を見据え、すっと通った鼻筋に、口角のつり上がった口元、胸が痛くなるほど凛々しく美しい面立ちだ。
うっとりと見送っていた俺は、はっと我に返った。顔を両足の間に挟み込んだ。顔を見られたくないと反射的に思ったのだ。
目の前を通り過ぎて行った革の編み上げ靴がぴたりと止まった。黒い影が、照り付ける日射しを遮る。
「ここで何をしている。一人か? 家族はどうした?」
「か、母さんを待ってます」
「母親は何をしている」
「母さんは巫女で……」
しどろもどろ答える。
小さな舌打ちが聞こえた。一行はまた歩き始める。
影が通り過ぎ、ほっと吐息をついた俺の前に、にょきっと赤い丸い物が差し出された。
リンゴ飴だ。向こうで屋台の親父が揉み手をしている。
「くれてやる」
ぶっきらぼうにその人は言った。
「え? でも……」
知らない人から物を貰ったことを知ったら、母は激怒するのではないか。物乞い同然の暮らしをしていたが、彼女は、強烈な自尊心をなくしていない。
「いいから。欲しいんだろう? さっき見てた」
漂うべっ甲飴の甘い匂いとリンゴの酸味に、口の奥に唾が湧いた。そういえば今日は、朝から何も食べていない。
「子どもが遠慮するもんじゃない」
次の瞬間、彼の手からリンゴ飴をひったくるようにしてかぶりついた。
硬い。そして、飴がべとつく。
「馬鹿だなあ。いきなり噛みつく奴があるか」
青年が笑った。屈託のない楽しそうな声だ。
「ゆっくり嘗めてから齧るもんだ。リンゴ飴は初めてか?」
「いいえ」
「口を開けてみろ」
腰を屈め、俺の顔を覗き込んでいる。
こんな美しい人の前で、口の中を見せるのはいやだった。どうしてか、恥ずかしくてたまらない。
「顔中真っ赤だ。口の中もさぞかし……」
言いながら彼はいきなり両手で俺の頬を挟んだ。長い華奢な指先で嚙み合わせの辺りを締め付ける。
「むぐぐ」
「素直に口を開けないと痛いぞ」
細い体に似合わぬ強力のような力で、口をこじ開けられてしまった。すかさず花のような顔が斜めに傾ぎ、あろうことか俺の口の中を覗き込んでいる。
「やっぱりな。真っ赤だ。はは、ははは……」
本当に楽しそうに笑う人だった。俺はぽかんと口を開けたまま、美しい人が笑い転げるのを眺めていた。
「それを食うと、口の中が赤くになるんだ。そんなことも知らないで、前にも食べたことがあるなんて嘘だろ?」
「嘘じゃない……」
食べたことだけは覚えている。味も、誰と食べたのかも忘れてしまったのだけれど。
「そうか」
いかにもわざとらしく青年は眉を顰めた。
「誰が買ってくれたのか知らないけど、だから子どもに物を買ってあげても無駄だっていうんだ。どうせすぐに忘れちまうんだからな」
ぽかんと頭を叩かれた。
「いいか。リンゴまで食っちまったら、棒を咥えたまま走るんじゃないぞ。もし転んだら、棒が頬を突き破っちまうからな」
自分の頬を棒が突き破る感触を想像し、ぎょっとして飴から口を話す。口を捻り、青年は人の悪そうな顔をしている。そんな顔をしていても、彼は驚く程きれいだった。
もう一度俺の頭を撫でてから、青年は立ち去っていった。日光を遮っていたお付きの者達も後に続き、辺りにはまた、誰もいなくなった。
猛暑の中の一迅の風のように涼やかなひと時だった。
白昼夢を見ていたような気がする。あの青年の美しさそのものが、明るい昼間にもかかわらず、魔に魅入られたような陶酔を感じさせたのだと思う。
奇妙な人だった。そこにいることが奇跡のようだった。失った人が墓から蘇って会いに来てくれたのなら、あんな風に感じるのだろうか。見慣れた現実の中に点描として現れた不可思議。たとえそれが妖魔であっても、俺は彼に従うだろう。それも、ただ一目見ただけで彼を信じ、来いと言われたらついていくに違いない。
あの人はいったい、誰だろう。
なんだかとても懐かしい……。




