蘇る死者
二部に入ります。
兄王ダレイオと王妃タビサの間の、ホライヨン王子の目線です
あの日から、母さんは変わってしまった。ふらふらと彷徨うさまは、まるで狂女のようだ。大きく見開いた目は何も見てはいない。息子の俺でさえ。
「ダレイオ、ダレイオ。気の毒な私の夫。可愛がっていた実の弟に殺されてしまうなんて。いいえ、あの男にこの国の王は殺せはしない。緑の肌を持つ生命の源、偉大なるダレイオ大王は、決して死んだわけではない。わが背の君を殺せるものは唯……」
ここで母さんは急に声を潜める。辺りを見回し、低い声でつぶやく。
「裏切り者の妹め。まさかルーワンが夫の子だったとは。緑の肌のルーワン。彼こそまごうことなきこの国の祝福。ダレイオを殺せるのはただ一人、ルーワンのみ。しかし、妾は決して認めはせぬ。よもやダレイオをこの国の王座に座らせるなぞ……」
そしてじっと俺を見つめる。母の突然の変貌に戸惑い、怯えて縮こまっている俺を。褐色の肌をした、彼女の一人息子を。
「肌の色など関係ない!」
唐突に彼女は叫ぶ。
「エメドラードの次期国王は貴方よ。わが子ホライヨンこそがこの国の唯一の正当な日嗣の王子。選ばれしダレイオの息子」
そして、必ずと言っていいほど涙をこぼす。
「貴方が私を裏切っても、私は貴方を忘れることができない。愛しい背の君、私のダレイオ。いいえ、貴方は死んではいない。待っていて。貴方の欠片を集め、私はきっと、貴方を復活させてみせる。だから……」
「母様。ルーワンはどこ? エルナ叔母さまはどこへ行ってしまったの?」
母を鎮めることができるのは、唯一血の繋がったエルナ叔母のみだということを俺は知っていた。けれど、いつの間にか叔母は姿を消してしまった。そして、彼が生まれた時からずっと一緒だったルーワンも、どこかへ行ってしまった。
あの日……。
隣国に勝利した我が国艦隊が帰港し、海軍を指揮していた叔父が父のところへ凱旋報告に来たその日。
幼かった俺は、母に抱きかかえられて宮殿の外へ連れ出された。着の身着のまま、母はエメドラードの荒野を走り続けた。傍らにはエルナ叔母と小さな従弟のホライヨンがいたと思う。突然緑の肌に変化したホライヨンをよく覚えている。けれど……ああ、記憶が混乱する。
戦火。追っ手。応戦する母の魔術と、辺り一面の血の海。
もうひとつの記憶は、エルナ叔母をなじる母の強い叱責だ。ホライヨンの激しい泣き声が耳元に蘇る。エルナ叔母は、何一つ反論しなかった。母に頬を打たれても、顔をそむけることさえしなかった。
気がついたら叔母と従弟の姿は消えていた。母は俺の手を引き、まるで物乞いのようなみすぼらしいなりで、タバシン河の岸辺を歩いていた。
「ごらん、ホライヨン。あの人の腕が……」
不意に母が叫んで走り出した。
母は、気が狂ったのだと思った。けれどそれは虚言などではなかった。一本の太い腕がタバシン河の波に乗って流れてきたのだ。
俺は息を呑んで立ち止った。
衣が濡れることもいとわず、母はじゃぶじゃぶと河に乗り込んでいった。
「これは右腕よ! 私を愛撫した優しい手。貴方の頭を撫でてくれた父君の手よ!」
身を屈めて拾い上げた恐ろしい漂流物に頬ずりしている。
不意に、顔が歪んだ。
「あの悪鬼め、私のダレイオを切り刻んで、腕を河に流すとは!」
「母様、危ない!」
思わず俺は叫んだ。川岸の葦の茂みの間から、何かがゆらりと立ち上がったのを目の端に捕えたのだ。
不気味な黒い影が、母に向かって進んでくる。ふらふらと右に左に揺れながら歩み続けるそれは、生きた者の歩みではなかった。
重そうに太刀を引きずる鎧に見覚えがあった。肩口にエメドラード王親衛隊の紋章が刻まれている。
これは、先日、母が斃した追っ手の死骸だ!
「ああ、さすがにわが君、生命の源であられる王! 貴方のお力は、たとえ腕一本であろうと、死者を蘇らせることができるのですね!」
彼女は一顧だにせず、迫りくる死人をなぎ倒した。狂女そのものの目が、川下に据えられる。そこでは、数十人もの死体が、次々と大地から起き上がっていた。いずれも、先日母が殺したはずの追っ手の死骸だ。
「あそこに一際多くの死人たちが! すると、あそこにも貴方の片鱗が?」
狂喜したように叫び、母は川辺を走り始めた。
「母さん!」
立ち上がったばかりの死人たちは見えない目を剥き、咆哮を上げている。その只中に母は飛び込んでいく。軽々と宙を飛ぶように。
「母さん!」
河原に大量の血が飛び散った。固まりかけたどす黒い、死者の血だ。襲い掛かる死人たちを次々となぎ倒し、弾き飛ばし、あるいは素手で胴に穴を穿つ。戦い続ける母は、夜叉のように美しかった。
数十人はいたであろう死人たちは悉く屠られ、中洲には母だけが残った。
「ご覧、ホライヨン。思った通りだわ。あの人の……お前のお父様の手よ。左腕だわ」
天に向けて高々と差し出されたそれは、確かに男の腕だった。左わきに右腕抱え、右手に高く父の腕を掲げたまま、静かに母は泣き始めた。




