黒いワンピース
あのあと連絡先を交換した、「よろしくね」なんて短い文のあと返信が途絶えた。ああやはり高嶺の花には手が届かないのか……、そう諦めかけていたある日。
「いらっしゃいませー、空いてる席にどうぞー」
同じ言葉を繰り返し、ペコペコ頭を下げては料理を運ぶ。それなりに稼げるこのバイト代は、母親のギャンブル代へと消えていく。
アルコール依存症の父の暴力に耐えられなくなった母はギャンブル依存症、僕の前だけ強気になり金をたかる。
大学生になった僕は自分の学費も払えなくなりそうなぐらい母からたかられ、自立などする余裕もない。
毎日毎日、父から暴力、母に暴言を浴びせられ金をせびられ、学校以外はほとんどアルバイト。逃げ出したかった。
ああもう倒れるかもと、ふと力が抜けそうになってはすぐに復活する。そのまま倒れて死ねたら良い、どうせ誰も僕など必要としてない。
休憩時間ですら心休まらなかった、そんな時スマホが鳴った。
「……もしもし、どなたですか?」
「もう忘れちゃったの? サチエよ、今あの時のメックにいるの。来てくれるわよね?」
「何かあったんですか? でも僕バイト中で……」
2週間も連絡が無かったのに、いきなり電話するなんて……内心怒りたくもなったが、彼女の「会いたいの」という切ない声に胸が締め付けられた。
狭い階段を駆け昇り、息を切らしながら彼女を探すと黒いワンピースで優雅にシェイクを飲む、不釣り合いな姿を見つけた。
僕と目が合うと微笑む彼女は美しい。
「はぁはぁ……どうしたんですか、急に呼び出して……!」
「べつに、ただ会いたかっただけなの。それに理由が必要? それよりあなたすごい汗ね、ひとくち飲む?」
忙しい中で呼び出された苛立ちもあり、僕はシェイクを受け取って一気に飲み干した。
「もう、ひとくちって言ったのよ? 全部飲むバカが、どこにいるのよー」
「すみませんでした……でもいきなり理由も無く呼び出すより、メッセージ一つや二つ送ってくれてもよかったんじゃないですか」
「そんなに怖い顔しないでよ、私にも事情はあるの」
不貞腐れた僕に申し訳そうな顔をしながら、彼女はやっぱり強気だ。それでいて美しくて愛らしく、何でも許せてしまうオーラがある。
サチエさんはまた2人分のシェイクを買ってきて、「これあげるから許して?」と舌を出す。少し古臭いその仕草もやはりキレイだ。
「……今度は、会う時は事前に連絡くださいね?」
「出来る限りそうするわ。そうだ、今日は風にでも当たりに散歩に行きましょう?」
正直言って僕には時間が無かった、けれども家に帰ったってどうせまた辛い時間がやってくるだけ。それなら彼女に振り回されるほうがまだマシだった。
僕達のいるこの街はゴミゴミとしているが、少し歩くと川沿いに舗装された遊歩道が姿を現す。日中は汚い緑色だが、夜になると夜景が反射して煌びやかだった。
遊歩道にそえられた、ちょっとした手すりに彼女は腰をかけた。今にも取れそうなぐらい錆びついているのに。
「あ、危ないですよ! 落っこちたらどうするんですか!」と瞬時に、彼女の腰を抱き寄せた。
不意に近づいてしまった距離感に、僕の顔が真っ赤に染まっていくのを感じる。
「別に、あなたの前なら……落ちても良かったのに」
「何言ってるんですか、今日おかしいですよ。サチエさん」
「私がおかしくなかったら、あなたと出会ってないわ」
冷静さを保とうとする僕を尻目に、どこか儚げな表情をするサチエさんは色気がたっぷりだ。
キツく抱きしめたくなる劣情を抑えて、彼女から体を離そうとすると、耳元で「あなたも、おかしくなったらいいわ」と囁かれた。
僕の理性は彼女を咄嗟に突き放すが、また抱き返されてしまう。首に回された手の熱がひどく熱く感じて、頭がクラクラする。
「私のことがきらい?」
「い、いえ……違うんです……! でもなんかいきなりすぎて……」
どんなに頭をブンブン振っても、両頬に手を添えられて見つめられると僕ももうどうしたらいいのか……。
「私、壊れちゃいたいの。煩わしい事から逃げてしまいたいの……」
「サチエさん……」
「……ねえ、逃げさせて」
その言葉に男として抑えが効かなかった僕は、彼女の艶やかな唇にキスを落とした。