SM掲示板で知り合った訳アリ男女のラブコメ?ヒューマンドラマ?
僕の人生と化したネットの海で遭難していた頃、あの人は手を差し伸べてくれたんだ。……いやあの人のほうこそ、僕に救われていたのかも知れない。なんて、淡い期待を抱きながら彼女との記憶を亡くさないように綴ることにした。
カーテンの隙間から日差しが顔を出そうとしてる、早朝5時半、そのままネットの世界に入り込んでいきそうな勢いで液晶を眺めていた。
『ようこそ、SM掲示板へ』
罵詈雑言や卑猥な言葉が羅列する、掃き溜めみたいなサイトにしがみついて、僕を支配してくれる人を探していた。
どんなに酷いことを言われても、されても、すべて塗り替えて欲しかった。
一瞬でも目を閉じて思い浮かぶ光景は、真っ暗闇の底の中。怒号、泣き叫ぶ声、目も当てられないような暴力暴力暴力……。もうやめてくれと願えば願うほど再演公開、大音量で僕の脳内を支配してる。
それは性的嗜好にまで影響が及んだ、ハードSMのAVばかり消費しては、僕は一生過去から逃れられない事実を思い知る。
だけど僕は人を傷つける事なんてしたくない、かわいい女の子が傷つく姿なんて見たくないという普通の男の道徳心はあった。
そのせいで、ネット掲示板で好みのお嬢様に出会えずにいた。
どこもかしこも女の子をいじめて…まるで父親のようだと吐き気を催しながら、スクロールし続けた。
『25歳、女、忠順な犬募集。キモいS男はくんな』
簡素な募集文だったし、5個も年上だと話合わないだろうな、まあ話だけ話して良い感じになったら……なんて適当な気持ちでメールを送ったんだ。
「眞栄田さん……でしたっけ? こんばんは、お会いできて嬉しいです」
「あ、え……? さ、サチエ様ですか……!? ほ、ホンモノ……?」
まともに写真交換もせずに出会ったサチエさんは、漆黒のロングヘアで透き通るほど白いワンピースに眩しい笑顔を見せた。土曜日の夜のラブホだらけの駅前で。
人通りが多い街、きっと人違いだとあってくれと思いながら無意識下で様呼びをした僕を、美しい彼女は「私じゃないほうが良かった?」と見上げてくる。
「い、いやいやいや! あなたが……あなた様が良いに決まってるじゃないですか、いや、予想以上にキレイでかわいくて……あの、これって夢ですか?」
「人見知りかと思ったら、よく喋るのね。まあ、そんな口説き文句なんて不要よ。それより早くお城に連れってよ、王子様」
動揺する僕をそっちのけで、面白いおもちゃを弄びたい彼女は腕を組んでズンズン引っ張っていく。
こんな強気な女性は初めてで、僕はただ引きずられながらこの後の事を想像して、顔が赤くなった。
彼女の募集文を見つけてから1日も経っていないような気がする、待ち合わせの場所を決めるまで簡潔なメッセージのやりとりしかしていなかった。
正直……詐欺を疑っていたが、今こうしてラブホテルの一室を借りてシャワーを浴びてるのは現実のようだ。
曇りガラス越しに脱衣所を見る、財布の心配もあったが、あの美しい彼女を逃したくない下心が顔を出す。僕の心の悪魔は良い機会だと笑っている。
「ねえ、いつまで浴びてるの? 私も入って良いかしら、さっきロビーでバスソルトを貰ってきたの。あなたもどう?」
ノックも無しに彼女は浴室に頭を突っ込んできて、僕は慌てて「うわぁああ!?」と情けない声を出し、尻餅をついた。
「まあ……一緒にホテルに来たのに、そんな事で驚くの?」
無神経なのかと顔をしかめようとする僕に、手を差し伸べる彼女はやはり綺麗だった。
僕は彼女の手を取り、気持ちを落ち着かせるため咳払いをし、もう少しだけ待って欲しいと伝えた。
心許ないバスローブだけの姿で、彼女が上がってくるのを待っていると、僕は今この状況を整理しようとした。だが、足りない頭で、熱に浮かされたままの僕に現状把握能力はない。
ピンク色の照明、ロマンチックなBGM、ふかふかのベッド……いやそれは関係ないか。関係なくても良い、今は無心にこのベッドを堪能してるほうが僕は冷静でいられる。
やわらかい、家とは大違いのベッドに顔を埋めて、落ち着け落ち着けと頭で唱えていると、背中に熱い重みを感じた。
「頭隠して尻隠さずってやつ? お尻が丸出しよ」
僕の背中に乗った良い香りのする彼女は、お尻をぺちんと一発叩いた。
「いたっ! ちょ、いきなり何ですか!?」
「お尻叩かれるのは嫌だった? まあどう見ても初心者っぽいものね、まあいいわ。このまま叩かれ続けたくなかったら……お座りしなさい」
彼女の意図は分からないが、僕は距離を空けて彼女の隣に座った。
言う通りに動くと満足気な彼女は、美しい顔を柔らかく崩し、にっこりと笑った。
「よくできたわね、ポチ」
言ってる事は常識に反しているし、この人の考えてる事も全く分からないが、まるで幼い子供のように笑う顔に目を奪われる。
「かわいい……」
「ふふふ……私はかわいいより、かっこいいって言われるほうが好きなのよ?」
満更でもなさそうなのに素直じゃないなと思っている僕を前に、彼女はバスローブをゆっくりと脱いだ。
僕は慌てて目を塞ぐ素振りをしたが、好奇心は手の隙間から彼女を見た。……黒い、なんかゴスロリみたいな下着だ。
「え、うわぁあっ……は、わえ!?」
「何よ、下着も見た事ないの? このぐらい、あの掲示板の住人には何の効果も無いのに……ふふ、あなたのほうこそ可愛いじゃない」
「い、いやあ、だ、だって!! いきなり脱がれたら、びっくりするじゃないですか! ほらこういうのはもっと、ムードがあるものでしょう!!」
バカにされて悔しくて顔を真っ赤に抵抗するも虚しく、彼女にぎゅーっと抱きしめられて、枕より柔らかい胸に息が止まりそうになる。
「よぉーしよし、怖がらなくていいでちゅよ〜。あら、耳まで真っ赤にして……ふふ……あははは!」
「……ぷっ、はぁはぁ……! ば、バカにしないで下さい!!」
彼女の胸に触れないように、お腹を押して顔を上げた。そこにある瞳は、じめっと暗い色をしていた。
「あなた……本当に男なの? こんな事されても襲ってこないなんて、去勢されちゃった?」
余裕ぶってバカにしてる口調だが、彼女の体は少し強張っている。暗く不安そうな瞳は怯えているようにも見える……僕にはこの感覚に覚えがある。
「……怯えてる女の子に、手なんて出せません。そりゃあ、お互いあの掲示板にいたって事は、下心はあるでしょうけど……でも僕は……えーっと……」
頭を掻きながら目を逸らして考えを巡らせてみたが良い言葉は浮かばず、沈黙が流れた。
外から夜の街の喧騒が流れてくるだけになり、混乱しきってる僕も徐々に冷めてきた。
きっと彼女は僕と同じように何かから逃げたくてここに来たんだろう、そう勝手に想像してカバンから財布を出した。
「あら、なに? 私まだ何もしてないのにお布施……」
「ええっと……確かここに……あ、あった! メックのクーポン!」
「え?」
有名なファーストフードのクーポンを高々と披露し、暗い雰囲気を一掃するため「良かったら食べに行きませんか!?」と誘ってみる。
正直断られると思ったが、彼女は「バカな犬ね」と笑いながら僕の手をそっと握った。
「……さっきまでホテルにいたのにね、まさかメックで腹ごなしなんて……ふふふ、あははは!」
「そんなに笑わないで下さいよ……! 僕まだ学生でこれぐらいしか奢れなくて……」
「ふふ……奢らなくていいわ、あなたには充分楽しませて貰ったわ」
そう言って上品そうな彼女は案外豪快な一口でハンバーガーを貪り、子供みたいに唇を尖らせてちゅーとシェイクを啜った。
赤く化粧された艶のある唇から、シェイクの白色が少し滲むと僕の頭は良からぬことを考えた。いけないと頭を振るが、どうしてさっき、あの時……あのまま……なんて悪い考えが浮かぶ。
「何よ、そんなにジロジロ見て。このシェイク飲みたいの? ひとくち飲んでみる?」
「え、ええええ……!? それは! さすがに! えっと……」
「ふふ、そんなにいやらしい目で見といて、あなたって本当にウブなのね」
また笑われてしまった。
「だ、だって! いくらオオカミでも怯えてる赤ずきんを食べるなんて出来ませんよ、少なくとも僕は!!」
「ぷるぷる怯えた子犬なのに、オオカミのふり? 強がっちゃってかわいいー」
彼女はまた、ハッキリとした二重を細めてニヤニヤと笑い、「オオカミになりたいなら、しっかり食べることね。その細い腕じゃ赤ずきんに張っ倒されるわよ」と僕の口にポテトフライを数本突っ込んだ。
しばらく何気ない世間話をしたあと、サチエさんは何の脈絡もなく「眞栄田くんは何をしたかったの?」と聞いてきた。
「僕は……また殴られてみたかったんです、本当に変態なのか、知りたかった」
「その頬の傷が関係してるんでしょ、言わなくても分かるわ。誰も殴られたくて殴られてる訳じゃないでしょ」
終わりかけのシェイクを勿体なさそうにクルクルと回して、流し目で僕をみる。
「気づいてたんですか」
「まあね、私もそんな事があったわ」
「え……?」
言葉に詰まった僕に、サチエさんは微笑んだ。彼女の顔は照明で照らされているのに、まるで逆光の中のように暗く影を落とす。
「人を支配する暴力なんてうんざりなのにね、あの時の心のざわつきをトキメキかなんかと間違えてしまうの。脳みそってバカよね」
「あなたも私もバカだわ」なんて、引きつった顔でわざとらしく笑う。そんな彼女を見てると放って置けなくなり、つい手を握ってしまった。
「……なによ」
「サチエさんの手は、汚さないで欲しいです……どうせ汚すなら、僕をハンカチ代わりに拭いてください」
「ふっ、バカみたいな告白ね。やっぱりあなたは変態よ、私と同じくね」
強く呟いた彼女の目は少し潤んでいた。