バイト初日
香山成は生まれてから十五年間必死になった物がなかった。執着もしなかった。三人兄弟の真ん中だったのがまずかったんだろう。両親は姉と弟と私を比べることこそ無かったが物理的にも精神的にも距離があるように感じていた。
姉は得意なこと好きなことにおいては誰よりも秀でていて、弟は少し教えるだけでスポンジがごとく吸収していく。生には何もなかった。どうしても自分に自信が持てなかった。勉強は嫌いじゃないがやる意味を感じない、運動はいつも下から数えた方が早かった。
小学3年生のとき、両親は共働き、姉は中学、弟は学童保育で家に一人だったとき家に置いてあった本を読んだことで生のその後の生き方が変わった。
「人間の顔も体も死ぬまでの器に過ぎないんですよ」
姉は中学生の時点で既に優れた容姿だった。弟も成長すれば間違いなくイケメンと言われるだろう顔だった。
枷が外れたように感じた。それから周りからの評価がどうでも良くなった成は、今・・・
「じゃあ明後日からお願いね、香山さん」
バイトの面接を終えていた。
対して勉強もせず名前は有名だが偏差値が低く倍率も低い公立高校に進んだ成は入学式を終えたその足で家から離れたスーパーの面接をうけた。姉がバイトをしている家の近くの商店街の人から声をかけられたが断っていた。
(おじさんたちへの愛想笑いとか、おばさまたちの駄弁りに付き合うとか私は無理だ)
さらにこっちのスーパーの方が給料が良かった。
言われていたとおりスーパーの裏口、従業員用出入り口から中に入るがそこで待っててとしか言われていない生はオロオロするしかない。入ればすぐに作業場なためいろんな人にチラチラ見られるのが恥ずかしい。
「こんにちは、香山さんだよね」
声をかけてきたのは中肉中背で柔らかい雰囲気を纏った男性。案内してくれる人かなと察した成。
「香山です。今日からお願いします」
ふと名札を見て生はギョッとした。
(ふ、副店長自ら来た)
緊張しながらも副店長について行くと従業員の休憩室に通された。副店長はテレビをいじり出すとその前にイスを置いた。
「基礎的なことは研修生用のビデオを見てもらいます。終わった頃に戻ってくるから」
それだけ言うとさっさと休憩室から出て行ってしまった。
(・・・緊張するだけ損だった)
ビデオの内容は接客する際の心構えや身だしなみ、など特別スーパーらしいものはなかった。接客業なら誰もが知っておくことばかりだった。
十五分のビデオが終わりテレビの電源をけした方が良いのか、イスを片付けた方が良いのかなど細かいことを考えていると後ろから名字を呼ばれ肩がはねた。
立ち上がりながら後ろを向くと成と同じくらいの身長に目つきが鋭いおばさんがいた。
「チェッカーの相川です。この後レジ打ちの練習するから、制服に着替えてくれる」
目つきに反して声も雰囲気も優しい人で安心して、女子更衣室に案内される。指定されたロッカーには自分の名前のシールが貼られており中には制服が入っている。制服はシャツにズボンにエプロンで色合いもシンプルで成は心の中でホッとした。
しかし一つ問題が発生した。ズボンのウエストがぶかぶかなうえ裾が足の甲が隠れるほど長かった。
(どうしよう、ベルトも裁縫セットもヘアピンも持って来ていない)
「香山さん、大丈夫?」
更衣室の外から声をかけられる。とりあえずウエスト部分と裾を折って着替え終え外に出る。
「すみません、終わりました」
「じゃ行きましょう」
すぐにはレジ打ちの練習には行かずお客様が入れない従業員用のスペースの案内をしてもらった。
「まあ、香山さんはレジ打ちだからあんまり使わないと思うけど」
(いいなー、私も裏で仕事したい)
面接のさいにどこの担当がいいか聞くものだが成が希望を言う前にレジと決められていた。そもそもスーパーと一言で言っても部署が分かれていることを知らなかった成。ちなみにチェッカーはレジでお客様の商品を機械に通す人のこと、キャッシャーが会計をする人のことだがレジ打ちは基本一人でやるためチェッカーと呼ばれる。
「もし分からないことがあれば、私でも他のパートさんにでも聞いて、分からないままにしておく方が駄目だから」
その言葉に成にはドキッとしたが表情には出さない。成は周りからの視線こそ気にしなくなったがそれと遠慮しなくなることは別だった。成は謙虚と言えば聞こえは良いが人に頼っていいという当たり前のことが苦手だった。
日本人は社交辞令するため、快く頼み事を引き受けてくれていても心の中では苛ついているのではないか、面倒くさいと悪態をついているのではないかと不安だった。
(そうだよね、ここには私を知っている人はとりあえず従業員の中には居ないし)
相川さんの後に続くと扉から売り場に出てレジが並んでいる場所に来た。一番端のレジに入るよう言われる。看板のように下げられている丸い板には1と書かれている。
高校生になるまで自分がこっち側に立っているのを想像したことがなかった。初めて見る裏側に珍しくてジロジロ見てしまう。
「さっそくやってみて」
いつのまにか相川さんはいくつか商品を持って来ていた。だいたいの商品にはどこかしらにバーコードが付いているためそれを翳すだけなのだが野菜や果物はそうもいかない。
「野菜や果物は前のパネルから探してね」
初めて見るためパネルの中から目当ての商品を探すのに時間が掛かる。
「コレばっかりは慣れだからね。次はコレね」
渡されたのはお酒でバーコードを翳すと機械的な女性の声が「年齢確認商品です」と言った。
「お酒とかタバコを買うお客様がいたらその声が出るからぱっと見の年齢をボタンで打ち込む」
言われたとおりとりあえず40とボタンで打ち込む。もう一回お酒を通すよう言われやると再び同じセリフが機械から流れる。
「見た目が若い人には年齢確認できるものの提示をお願いしてね」
(これは勇気いるなー)
「年齢確認できるものを持っていなかった売らないで」
ここまでで不安な部分はないかと聞かれたが一度にたくさんのことを覚えないといけないうえ何が分からないのか分からない状態。そのまま伝えると少しずつ覚えて慣れていこうと言われた。
「次に会計をやってもらいます」
ポイントカードをもっているかの確認をしてお札と小銭を機械に入れるだけでおつりも計算せずとも出てきてくれるのはありがたがったが、ここからが苦労した。商品券や優待券クーポンの使い方がそれぞれ違い、レジ打ちで一番苦手な作業になった。なんと何回聞いても覚えられずこのままでは無駄だと成は感じ「分からなかったらすぐに呼ばせてもらいます」というと相川さんもそっちの方が覚えると思ったのか見本の商品券や優待券を片付け始めた。
「最後ね、挨拶や確認を覚えてもらいます」
いらっしゃいませ、ありがとうございました、ポイントカードはお持ちですか。だけだった。声出ししてみてと言われたが目立つのが嫌いな成は恥ずかしがったがヤケクソだと声を出すと他のレジに並んでいたお客がこっちを見た。何人かは空いていると思ったのかこっちに来ようとしたがどうすればいいかわからずばっと相川を見る。
「一通り終わったのでレジに入ってもらいます」
「は、はい」
いきなり一人でやるのかと不安になっていると看板に4と書かれているレジに入っている人に声をかけた。声をかけられるとさっとプラスティックの板をお客が入ってくる方に向けておいた。板には他のレジへと促す言葉が書かれている。
「香山さん、今日閉店まで二人制を組んでもらう衣川さんです」
「衣川です」
「香山です、お願いします」
茶髪のショートカットで物腰が柔らかい人だ。成がレジに入ると相川さんはサービスカウンターと札が掛かっている場所で自分の仕事を始めた。
「最初はチェッカーだけやってもらいます」
プラスティックの板を退かすとすぐにお客の列が出来る。記念すべき最初のお客は全身茶色の服を着たおじいさんだった。顔には白い髭が伸びていた。幸いかごの中にはお弁当と水だけだったためすぐに終わった。
「ポイントカードお持ちですか」
衣川が聞くと財布を漁っていたおじさんが顔を上げた。眉間にしわを寄せている。
「持ってるわけねーだろ!持ってたら出すだろ、そんなこともわからねえのか!」
何が気に障ったのか怒鳴って怒りだした。
(・・・・・・バイト辞めたい)
バイト初日にして成は早くも心が折れかけていた。
スーパーのバイトは一筋縄ではいかない。