記憶をなくしたボクに、幼馴染みの美少女が恋人設定を刷り込んでくる。
沢渡さんは高嶺の花だ。
容姿端麗、文武両道、品行方正、才色兼備。
様々な言葉で褒めそやされる彼女は、女子からは憧れの眼差しを向けられ、また男子からの告白を受けたことは数知れず。
だがその告白のすべてを「お断りします」の一言で撃沈してきた。
そんな学校一の有名人で美少女が、ボクの同級生である『沢渡みかさ』という女子だった。
その沢渡さんがいま何をしているかと言うと――
「ねぇ聖護くぅん。
私のこと、ギュッてしてぇ」
……ボクに引っ付くのに夢中だった。
◇
いまは授業の合間の休憩時間。
沢渡さんから校舎の屋上に呼び出されたボクは、こうして物陰に隠れながら熱烈なハグを受けている。
「はやくぅ。
はやくギュッてしてくれないと、3時間目始まっちゃうじゃない」
「う、うん。
それじゃあ、……えいっ」
ボクは請われるがままに、正面から彼女の細い身体を抱きしめ返す。
温かな体温が伝わってきた。
さっきまでよりもっと、ボクたちの身体が隙間なくぴったりと密着する。
沢渡さんの心臓がドキドキしているのが伝わってきた。
「はぁ、はぁ……。
な、なんか緊張しちゃうよね。
でも嬉しいよぉ……」
沢渡さんが幸せそうに笑った。
瞳をうるうると潤ませ、口を半開きにして蕩けそうな表情でボクを見上げてくる。
「ん〜っ!
聖護くん、聖護くぅん……。
大好きぃ。
はぁ、はぁ……」
背伸びをした彼女に頬ずりされた。
って、沢渡さんってこんな子だったっけ?
……いやいやそんなことはない。
沢渡さんと言えば女子には人当たりがいいけど、男子に対してはものすごく素っ気ない態度を取ることで有名なのだ。
それがどうしてこうなった。
ボクは事の発端を思い出す。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ボクの名前は都丸聖護。
都内の公立校に通う高校2年生。
そして沢渡さんは、実はボクの幼馴染である。
家が近く親同士も仲が良かったボクたちは、子供の頃は互いの家でよく遊んだりした。
当時のボクらは『聖護くん』『みかさちゃん』と、名前で呼び合うほど親しかった。
それこそ、将来は結婚しようねなんて子供ながらに約束しあう仲だったのだ。
……だがそんな関係はもう遠い昔のこと。
小学校も高学年になり身体も大きく育ち始めたボクは、おままごとをして遊ぶより男子たちと走り回るのが楽しくなって、彼女から遊びに誘われても断るようになった。
最初は食い下がってきたみかさちゃんもボクのそっけない態度に諦めて、だんだんと女子たちと遊ぶようになっていった。
そして中学に上がった頃には、もうすっかりボクと沢渡さんは疎遠になり、高校生になった今では最早名前で呼び合うこともなくなっていたのである。
◇
ところで話は変わるが、先日、ボクは交通事故にあった。
信号無視をして突っ込んできたバイクに轢かれたのである。
なんか割と大事故だったらしい。
といってもボクの怪我は奇跡的に打撲程度で大したことはなかった。
けれどもそのときに、なんとボクは『記憶喪失』になってしまったのだ。
ボクが記憶を失ったという話は、噂好きな生徒たちの間に猛スピードで広がっていった。
毎日色んな生徒たちが席までやってきては、記憶喪失ってどんな気分なんだとか、俺のこと覚えてるかとか、興味本位で聞いてきた。
たぶん珍獣を見物している気分だったんだろう。
だがこういう話は飽きられるのも早い。
そして騒ぎも一段落して誰もが興味を失った頃、沢渡さんがひとりでひっそりとボクのもとにやってきたのだ。
彼女は言った。
――忘れちゃったの? 私たち恋人同士なんだよ?
と。
以来、ボクと沢渡さんは休憩時間の度に教室を抜け出して、こうして屋上でイチャイチャする関係を続けている。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
ひとしきりハグを堪能した沢渡さんが、次のお願いをしてきた。
「聖護くぅん。
次は私、あれしたいな。
恋人座り」
「え?
なにそれ、どうやるの?」
「んっとね。
聖護くんはそこの壁にもたれて、足を開いて座って?」
言われた通りにする。
すると沢渡さんがボクの足の間に入り、座ってから背中を預けてきた。
「じゃ、じゃあお邪魔するわね。
よいしょっと」
ボクの胸やお腹が、沢渡さんの背中とぴったりくっ付く。
彼女の髪からふわりと甘い匂いが漂ってきた。
女の子の香りなんか嗅いだこともないボクは、なんだか頭がクラクラしてボーッとしてきた。
「くぅぅぅ……!
いま私、聖護くんと恋人座りしてる……!
はぁ、はぁ……」
だんだんと沢渡さんの鼻息が荒くなっていくものだから、なんだかつられてボクまで興奮してきた。
「ちょ、ちょっとこの座り方恥ずかしいよね。
……照れる。
さ、沢渡さんは?」
「もうっ、こら聖護くん。
呼び方は『沢渡さん』じゃなくて『みかさちゃん』だって言ってるでしょ?
聖護くんが記憶喪失になる前は、みかさちゃんって呼んでたんだよ?
だ、だって私たち、恋人同士なんだから!」
沢渡さんは顔を真っ赤にして、言い切った。
……だが残念ながら、そんな事実はない。
沢渡さんは嘘をついているのだ。
そのことをボクは知っている。
というか呼び方うんぬん以前に、ボクたちが恋人同士とか、まずそこからが真っ赤な嘘だ。
沢渡さんはボクが記憶を失ったのをいいことに、これ幸いとボクを騙そうとしているのだ。
なぜボクにそれが分かるのか。
それは実をいうと、ボクの記憶喪失はもう治っているからだ。
……というか、今朝治った。
朝、起きたらいきなりズキーンと頭痛がして、気付けば記憶がぜんぶ戻っていたのだ。
そうとも知らずに沢渡さんは今日もボクに甘えてくる。
「ね、ね、聖護くぅん……。
私のお腹に手を置いてから、ギュッてしてぇ。
はぁ、はぁ……」
言われた通りにしながら考える。
いったい沢渡さんはボクを騙してどうするつもりなんだろう。
ちょっと前まではあんなにつんけんしてたのに。
だって家が近いから一緒に帰ろうって誘ったときも、『……都丸くんと? 噂になったら嫌だからお断りよ』とか言われたくらいなのだ。
◇
そんなことを考えていたら、沢渡さんがまた次のお願いをしてきた。
このところ彼女のお願いはだんだんとエスカレートしてきている。
きっと『聖護くんは記憶喪失で忘れちゃってるけど』、と前置きをすればボクが大体はほいほい信じちゃうと分かってきたから調子に乗り始めているのだ。
沢渡さんは恋人座りをやめて、ボクに向き直った。
「ね、ねぇ聖護くん。
はぁ、はぁ……。
こここ、これは前からよくやってたことだから、驚かずに聞いてね?
はぁ、はぁ、はぁ……」
沢渡さんの鼻息が、かつてないくらい荒い。
いったい何をお願いされるのだろうかと、ボクは戦々恐々だ。
「せ、聖護くん、キキ、キスしよっか……?
で、でも勘違いしないでよね!
記憶を失う前は、いつも聖護くんのほうからキスのおねだりをしてきたのよ。
だ、だから私がしたい訳じゃないんだからね!
はぁ、はぁ……」
……そうきたか。
ボクはちょっと考えてみる。
こうしてテンパっている姿を見るととてもそうは思えないけど、沢渡さんは紛れもなく学校一の美少女で、ボクの幼馴染だ。
そんな彼女とキスをする……。
ボクは黙ったままこくりと頷いた。
沢渡さんの目がくわっと見開かれる。
「い、いいのよね⁉︎
はぁ、はぁ……。
も、もうダメって言っても、取り消しは効かないから!」
「ダメなんて言わないよ。
それに記憶をなくす前はいつもしてたんなら、これが初めてのキスって訳じゃないんだろ?
そんな緊張しなくてもいいじゃない」
「そ、そうよ?
キスくらい、いつもやってたんだから……!」
ボクはもう一度頷いてから、沢渡さんに目を閉じるように促した。
すると彼女もこくりと頷いてから、キュッとまぶたを閉じ、ボクがキスしやすいようにクイッとあごを持ち上げる。
沢渡さんの細い肩に手を添えた。
ふるふると震えている。
きっと緊張しているのだろうけど、その様子はなんだかリスとかそんな小動物みたいで可愛らしい。
「い、いくよ」
ボクはそっと顔を近づけて、彼女の唇に自分の唇を重ね合わせた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜ッ⁉︎」
沢渡さんの身体が強張るのが伝わってくる。
でもさすがにボクだっていっぱいいっぱいだ。
沢渡さんの桃色で可憐な唇は少しだけ湿っていて、彼女の身体から匂い立つ花の蜜のような甘い香りも相まってボクの頭をこれ以上ないくらいクラクラさせた。
◇
いつまで唇を重ねていただろう。
気付けば3時間目の開始を告げるチャイムの音が、屋上まで鳴り響いてきていた。
そっと唇を離す。
触れていた箇所から沢渡さんの温もりが失われていくのが残念なようでいて、けれども代わりに暖かく胸を満たす充足感も感じられた。
「……キス、しちゃったね」
ボクがそう言うと、沢渡さんは真っ赤になって言葉を失いながら、何度もこくこくと頷いた。
そしていきなり立ち上がったかと思うと、早口で捲し立てる。
「じゅ、授業始まっちゃった!
早く行かなきゃ!」
そして彼女は足を踏み出し、足早に屋上を後にしようとする。
ボクはその背中を呼び止めた。
「待ってよ、沢渡さん!
いまのがボクらのファーストキスだったんだ。
少しくらい余韻に浸ってもいいんじゃない?」
沢渡さんがこちらに向き直った。
その顔はもうトマトみたいに、これ以上なく真っ赤に染まっている。
「な、なにを言ってるのかなぁ?
ファーストキスぅ?
だから言ってるじゃない。
聖護くんと私は恋人同士だし、キスくらいこれまでだって何回もしてきたんだから」
「あ、そういうのいいんで。
ね、沢渡さん。
ボク、もう記憶喪失治ってるんだけど」
「…………はぇ?」
「いやだからね。
ボク、もう記憶喪失治ってるんだって」
「…………へ?」
「治ってる」
「……はぁ……えっ⁉︎」
ピシリと音がしたような気がした。
呆けていた沢渡さんがピタッと動きを止め、まるで石像みたいに固まりだした。
◇
屋上で、ちゅんちゅんと小鳥がさえずっている。
…………。
……しばしの沈黙が流れた。
…………。
さらにいくらかの時間が経過して、黙ったままだった彼女がようやくポツリとカタコトのような言葉を紡ぐ。
「……イツカラ……デスカ……?」
記憶が戻ったのはいつからか、という質問だろうか。
それなら今朝からだ。
いや遡ってぜんぶ思い出してるんだから記憶が戻ったのがいつだとしてもあまり関係はないんだけど、そんなことを考える余裕はいまの沢渡さんにはあるまい。
「今朝だよ。
なんか起きたら記憶喪失治っちゃった。
黙っててごめんね」
手を合わせて謝ると、沢渡さんがその場に崩れ落ちた。
「ああああああああああああああああああっ……!」
バシバシとコンクリートの床を手のひらで叩いている。
きっとこれまでボクについてきた甘い嘘の数々を思い出して羞恥に悶えているのだろう。
まぁ気持ちはわからないではない。
沢渡さんってば、だいぶやらかしてたもんなぁ。
ボクはしばらく彼女をそのままにして落ち着くのを待つことにした。
身悶えながらゴロゴロ転げ回ったり、頭を抱えて唸ったり、屋上を意味もなく走り回ったりしてから、やっと沢渡さんは落ち着きを取り戻した。
ボクは頃合いを見計らって尋ねる。
「ねぇ沢渡さん。
なんでボクと恋人同士だなんて嘘をついたの?」
「……うっ。
そ、それはですね……」
言葉に詰まった沢渡さんに代わってボクはひとりで話し続ける。
「当ててみせようか?
沢渡さんって、もしかするとボクのことが好きなんじゃない?
それでボクが記憶喪失になったのをきっかけに、ボクと恋人行為をたくさんして既成事実を作ろうとしたとか」
「そ、そうじゃないよ!
す、好きなのは当たってるけど……」
「そう?
じゃあどうして?」
「そ、それは……!」
促すと、沢渡さんはポツポツと話し出した。
「だ、だって聖護くん。
私のことずっと放ったらかしにして、構ってくれないんだもん。
け、結婚の約束だってしたのに、そんなの酷いじゃない……」
結婚の約束?
もしかして、小さな頃に交わしたあの約束のことかな?
って沢渡さんってば、あんな子ども同士の口約束を真に受けていたのか。
なんて純真なんだ。
「だ、だから私、我慢できなくて……。
最初はちょっとだけのつもりだったんだよ?
聖護くん記憶喪失で困ってるだろうし、手助けしながら手を繋いだり、少しだけ恋人気分を味わえれば嬉しいなって。
でもどんどんエスカレートしちゃって……。
だ、だって聖護くんと恋人ごっこしてると、幸せなんだもん!」
ああ……。
この胸に去来する感情はなんだろうか。
ムズムズとしてこそばゆいような、それでいて暖かなこの感じ。
ボクはいま沢渡さんのことが可愛くて仕方がない。
なんだかうずうずしてくる。
そんなボクの気も知らず、沢渡さんは項垂れたまま話す。
「でもごめんなさい。
私、聖護くんの恋人でもなんでもないのに、ファーストキスまで奪っちゃって……。
こんな酷い真似をして、どうやっても許してもらえないよね」
いやいやそんな訳ない。
許すも何もないのだ。
だってボクだって沢渡さんのこと好きなんだから。
ボクはそのことを彼女に伝える。
「待って待って!
ちょっと待ってくれよ沢渡さん。
ボクはさっき、記憶が戻ったのは今朝だって言ったよね?
そしてキスのお願いをされたのって、ついさっきじゃない。
つまり記憶はしっかりと戻ってる状態で、沢渡さんからのキスのお願いをオーケーしたつもりなんだけど」
沢渡さんがうつむかせていた顔を上げた。
はっと気付いて目を見開く。
「え⁉︎
そ、それってつまり……⁉︎」
「……うん。
ボクもね、沢渡さ――じゃなくて、みかさちゃんとキスしたいって思ったんだよ。
だからキスした」
昔みたいにみかさちゃんの名前を呼ぶと、彼女は花が咲いたみたいに、ぱぁっと笑顔になった。
やっぱりこの子は辛そうにうつむいているより、こうして笑っている方がいい。
「それでね、みかさちゃん。
さっきキミはボクらの関係を『恋人ごっこ』って言っただろ?
でもボクはごっこで終わらせたくないんだ」
「……あ。
も、もしかして……」
「うん。
改めてお願いします。
沢渡みかささん、ボクの恋人になって下さい」
ボクがそう言うと、みかさちゃんの瞳からボロボロと涙が溢れ出た。
感極まったのか彼女はボクのもとまで走ってきて、思い切り抱きついてくる。
その衝撃でボクらはもつれあって屋上の床に倒れた。
「聖護くん、聖護くん、聖護くぅん!
うぇぇ……。
嬉しいよぉ。
わ、私、なるっ!
私、聖護くんの彼女になる!」
ボクはみかさちゃんの下敷きにされたまま、彼女の艶やかな髪を撫で付ける。
「うん、ありがとう。
みかさちゃん、ボクも昔の約束思い出したよ。
将来は結婚しようね」
「うん……!
うん!」
みかさちゃんが何度も頷きながら、涙とキスの雨を降らせてくる。
「……ね。
3時間目はさぼっちゃおうか。
もう少しみかさちゃんと一緒にいたいんだ」
「私も!
私だって聖護くんと一緒にいたいから!」
ふたりして抱きしめ合いながら、ボクたちは幸せな時間を過ごす。
みかさちゃんと過ごすこれからの学校生活に想いを馳せると、ボクはたまらなく胸が踊った。
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