第二話 「汚された初恋」
昨日から降り続いていた雨は明け方には上がった。
紅麗は着替えを済ませると、全身鏡の前に立ちその容姿に余念が無いかチェックした。
大丈夫問題無し・・・。鏡の自分に向かって微笑んでみせる。自分で言うのも変だが可愛い笑顔だと思う。
これで身長がもう少しあれば理想としている自分の姿にまた一歩近づくのだが
神様は人間に全てを与えるような真似はしない。現実の自分を見るとつくづくそう思うのだった。
無い身長のカバーは笑顔で補え!それが紅麗のモットーである。
依頼主との約束までまだ1時間ほど時間があった。ジーンズのパンツにブラウンのジャケット。それが一番動き易い紅麗のお気に入りだった。
紅麗はバッグの中身を確認した。化粧道具にエチケット関係。そして拳銃。
もはや見慣れてしまった拳銃だが、これを持つようにと言ったのは歪だった。
「万が一のためだ」
そう言った歪の表情は鉄兜のように冷たい。歪は紅麗が危険に晒されるのを恐れているのではない。
単純に紅麗が殺された後の始末が厄介だと、そう思っている。自分の身を案じてくれた拳銃ではなかった。
だがそんなこと紅麗も分かっていた。歪は自分を女として見ていない。女どころか仲間として見ているのかさえ疑問だ。
彼は仕事のためにしか動かない人間なのだ。誰を守る事も善しとせず、守る事を忌み嫌う節さえも感じられる。
それが証拠に一緒に住んでいるのに、今以上の関係にはならずに居る。
きっと歪は例え自分が居なくなっても悲しむ事はないんだろう。むしろ世話の掛かる人間が居なくなって喜ぶかも知れない。
歪はそう言う男。それは紅麗も分かっていた。
だがその反面、そういう状況だからこそ、歪の前では女でありたいと思う気持ちもあった。
彼の役に立てるならそれで良い。それで尚且つ女としている事が紅麗の願いだ。
血と殺戮、そして悪が渦を巻く世界で、少しでもオアシスのような空間を歪に作ってあげること。
それが自分の役目だといつも肝に銘じていた。
女として扱われなくても良い。自分が何かの役に立つのならそれで・・・。
鏡に映った紅麗の顔は間違いなく女の顔だった。頬が少々赤く染まっているのが何よりの証拠だ。
「さて!お仕事お仕事!」
紅麗はバッグを持ち、部屋を出た。
彼女の部屋の外は歪との共同のリビングになっており、テレビや家具などが置かれている。
ふと見ると、テーブルの上にホットドッグが皿に乗っていた。
紅麗は近寄ると、皿の隣に置手紙があるのを見つけた。
「腐る前に食え」
手紙にはそう書かれていた。恐らく歪が出かける際作ったのだろう。以前「一つ作るのも二つ作るのも同じ事だ」と言っていた。
自分の分だけ作るつもりだったのだが、それ用のパンが二つあった。だから歪は紅麗の分まで作ったのだ。
紅麗はなんだか可笑しくなった。普通なら「食べて良いよ」とか「お前の分」とか書きそうなものだが
「腐る前に食え」と言うのはあまりにも遠回しな言い方である。
紅麗は彼の言いたい事は理解できた。このままホットドッグを放置しておけば、やがて腐る。
その前に起きて食べろと言いたいのだ。つまり「ちゃんと起きろ」だ。
紅麗は何度か寝坊して依頼人と会う約束の時間を過ぎたことがある。
歪はそれを遠回しに小ばかにしているのだ。
「フフフ・・アハハ!!おっかしい〜」
まったく持って捻じ曲がった男である。
だが歪のこういう一面も知っているからこそ、彼の良きパートナーで居られるんだろう。それは素直に嬉しかった。
紅麗はホットドッグを口に含んだ。
「マズ!!つうか、マスタード入れ過ぎよ・・・」
高見 光は約束の時間よりも15分ほど早く着いてしまった。
それには分けがあった。あの痛い経験以来、現金は必要なときに家から持っていくと言うスタイルを取っている光だったが
今日は違う。財布とは別に分厚い茶封筒を持っている。その中には契約金の前金として300万もの現金が納まっているのだ。
そのため何処か緊張してしまい、いつもの時間間隔が麻痺し、約束の時間よりも早く着いてしまったのだ。
前金があれば後金もある。依頼料は総額500万円。お世辞でも安いとは言えない金額だが
500万円で積もりに積もった恨みを、自分では無い別の人間が晴らしてくれる。しかもその事で光の手や経歴は一切汚れない。
それに殺人と言う現実を踏まえれば安いものである。依頼先の人間はあの男の命に500万と言う値段を付けたのだった。
光には殺したいほど憎い男が居た。彼さえ居なければ光の人生は光り輝いていたのだ。
彼の出現が光の人生全てを奪ったと言っても過言ではない。
男の名前は小向 宮地年齢は光と同じく28である。
宮地とは小学校の頃からの同級生で、光の初恋の相手だった。当時野球部に所属し、ピッチャーをやっていた彼は一際輝いていた。
中学に上がっても野球を続け、持ち前の甘いマスクで女子生徒から人気を得ていた男である。
小学校の頃から好きになり、その気持ちは中学、高校まで途切れる事はなかった。
宮地はいつも光を見て「可愛いな」と言ってくれた。セリフだけで考えれば在り来たりな言葉であるが
下心を感じない分、信憑性を感じてしまったのだろう。今思えばそう思ってしまった自分にも非はあったと思えるのだが
当時の若かりし自分では、まさかこの先詐欺に合う事など想像も付かない。
やがて時は流れ二人は大人の関係へと発展して行った。
人間誰でも初恋の相手と言うのは忘れないものだ。それだけ強烈な経験であることに加え、嫌いになることはあまり無い。
久しぶりに再会して相手の風貌が劇的に変化していない限り、ほろ苦い過去が蘇り軽い緊張感を覚えるものだ。
しかし光の場合は再会と言うものが無い。初恋にして彼を手中に収めてしまったために、彼に対する執着心は凄まじいものがあった。
最初は些細な事だった。「悪いんだけど千円貸してくれないかな?」光は疑いもせず貸した。
その後も金を貸してくれと言う言葉が増えて行ったが、その度に彼は返して来たので、何の不安も感じてなかった。
だが20歳を過ぎたある日、二人の間で同棲の話が持ち上がった。
「一緒に住もうか」と言い出したのは宮地の方だった。光は飛び上がるほど嬉しかった。
「初恋は実らない」と言う言葉は嘘だと、光は心からそう思ったのだ。
しかし一緒に住むためにはそれなりにまとまった金が必要となる。二人はお互いにどれくらいの貯蓄があるのか話し合った。
その結果、宮地よりも光の方が貯蓄額が上である事が判明した。
この時点で宮地は既に光の銀行の口座番号と暗証番号を知っていた。それは何故か?
同棲の話が持ち上がったのとほぼ同時期に宮地は「実は企業を起こしたい」と言い出し
更に光が妊娠している事が発覚したのだ。企業を起こすには金が要る。宮地は言葉巧みに光を誘導し
光の口座番号と暗証番号を聞き出したのだ。
妊娠が発覚した光は安静のために、同棲先の住居の確保や、出産に備えての準備などを全て宮地に任せてしまった。
それから先の崩壊は見事なまでに迅速だった。
まるで光の妊娠から逃げるように宮地と連絡が付かなくなった。おまけに銀行の口座から現金が全て引き出される始末。
何度携帯電話に掛けてみても繋がらない。どうやら宮地は使い捨てのプリペイド式携帯を偽名で使っていたようだ。
宮地の家にも行ってみた。しかしそこに家は無く、あるのは開発中の野原だけだった。
最初は意味が分からなかった光も、徐々に自分が騙された事実に気付いた。
その後光は様々な人脈を伝って宮地の実態を知った。
驚いた事に自分と同じ被害に合った女性が、光の他にも数名いたのだ。
しかも騙された時期が皆同じだったのだ。つまり彼は光と関係を続けながら別の女性も同時に騙していたと言う事になる。
世の中には自己防衛の気薄な女が居る。好きになってしまい視野が狭くなってしまったために男に騙されると言うケースだ。
ホストに貢ぐバカな女たちと同じだ。人間は恋をすると盲目になり、バカになる。
その顕著な例が光だったと言えよう。ましてや光は宮地以外の男を知らない。
初恋がそのまま発展し、光の知る男は宮地ただ一人だったのが最大の原因だ。男を知らなさ過ぎたのだ。
男はいつまでも子供で夢ばかり見ている・・・・これは女性の間でよく聞く言葉だが
何も全ての男がそれだとは断言できない。したたかで容赦のない男も確かに存在するのだ。
光や他の女たちが男の本質を知っていれば、あるいは回避できた詐欺だったかも知れない。
バカな男も多いが、同時にバカな女も多いと言う事だ。
まさか初恋の相手が詐欺師だったとは夢にも思ってなかった光の憎悪は、日に日に大きくなった。
光はその後宿していた我が子を堕ろす結果となった。それから宮地を殺そうと決心するまでの3年間は必至になって金を貯めた。
25歳から28歳までのこの3年間は、屈辱と苦痛に塗れた3年間だった。
「いつか殺してやる」その思いは3年経った今でも色濃く残っているのだ。
初恋の成就、そして妊娠、同棲・・・。この経路はある意味での邪道である。
もし光がこの邪道と言える道を歩んでいなかったら、今頃幸せだったかも知れない。
初恋が実ってしまっただけの衝撃は、3年間と言う殺意を増殖させるに相応しい現実だったのだ。
「初恋が実られなければ良かった」
光は今でもそう思うときがあった。
そんな折、インターネットで「始末屋」と言うサイトを偶然見つけてしまった。
始末屋は海外経由のサーバーを利用しており、何十にも施されたセキュリティの関門を突破しない限り辿り着けない境地である。
何故光のような善良な市民が辿り着けたかと言うと、某掲示板でこのサイトが話題になっていたのだ。
その掲示板は裏社会に生息する人間のみが入ることを許されるサイトで、ネット上の知人から入場のパスワードを教えてもらう事に成功した。
そしてその掲示板で「始末屋」の事を知ったのである。
「貴方に代わって代行殺人を行ないます」この言葉は光の救いとなった。
明記された連絡先に電話を入れると、意外なことに可愛い声をした女性が出た。その事実に若干拍子抜けだったが
光は宮地の件を話し、彼を殺して欲しいと願い出たのだ。
そして今、光は指定された約束の場所。新宿の繁華街にある裏路地に来ていた。
この裏路地は両脇に高層ビルが立っているため、昼間でも薄暗い。店なども無いため人気は極端に少なかった。
光はその裏路地で行き止まりの壁を正面にして立っていろと告げられた。
つまり光の目の前には行き止まりの壁があり、背後に繁華街に戻る道があると言う形だ。
相手の女性は光がその体制を取らない限り、会いに行く事は出来ないと言った。
おそらく相手に顔を見られるのとまずいのだろう。何せ人を殺す仕事をしているのだ。当然と言えば当然である。
時刻は約束の時間ちょうどを刻んだ。すると光の背後に足音が響き、真後ろでそれが止まった。
「こんにちは。高見光さんですね」
その声は電話の受け答えをした女の声と同じだった。
「はい」
「そのままの体制で聞いてください。決して振り向かないように。万が一こちらを振り返ったら貴方の命はここで消えます」
身の毛もよだつとはこの事だった。今自分の真後ろに狂気がいるのだ。
「約束のお金は持ってきましたか?」
「はい、バッグの中に入ってます。あの、茶封筒に入って」
「分かりました。ではバッグから取り出して、右側にあるドラム缶の上に置いてください」
「はい」
光は言われたとおり、300万円の入った茶封筒をドラム缶の上に置いた。
すると女は前に向かって歩き出し、ドラム缶の上に置かれた茶封筒を掴んだ。
光の視界の隅にブラウンのジャケットを着た細い腕が映った。
「残りの金額はこの後2時間以内に先日指定した銀行に振り込んでください。振込みを確認次第、仕事を開始します。
万が一振込みが確認できなかった場合は、やはり貴方の命は消えることになりますので、ご注意ください」
「は、はい・・・・」
声そのものは高い声で女性らしいのだが、言葉の端々に狂気を感じる。光の額から冷たい汗が流れた。
「それからこんな事は無いと思いますが、くれぐれも警察などに通報する事はしないように。
私たちの仕事はお客との信頼関係の名の元に成り立っています。もし警察に通報するようなことがあれば
貴方が私たちに殺人を依頼した事を告白します。そうなれば貴方の人生はそれまでです。
貴方が黙っている限り、私たちも他言はしません。お約束します」
「分かりました」
「それでは、貴方にとってこの先最良の人生となりますように」
その言葉と共に背後の気配は消え、静かになった。光はしばらくそのままの体制で居たが、やがて振り返ってみた。
だがそこには誰も居なかった・・・・。
END