06 休日
椎名の家庭教師を始めてから、最初の休日がやってきた。
椎名が言うには、俺さえよければ土日も家庭教師をしてほしいとのこと。
部活にも所属していない俺は、特に土日の予定はない。
椎名の提案を断る理由は何もなかった。
ピーンポーンと間延びした音を鳴らした後、鍵が空いたのを確認してから中に入る。
「おかえりなさい、あなた♪」
「お邪魔します」
「ちょっと、そこは『ただいま、ハニー♡』って言ってくださいよー!」
「誰が言うか。俺はいつからお前のダーリンになったんだ」
「出会って三秒です☆」
「それが許されるのは小学生の友達までだ」
今の時間は午前十時。
ずいぶんと早い気がするのだが、椎名がそう望んで、俺も予定がなかったため致し方ない。
それに、そこまでして勉強がしたいというのはいい心構えだと思う。
椎名の勉強の進みが良いので、実はちょっとばかし授業より先の勉強をしたりもしている。
だからと言って、先に進みすぎるというのも良くない。
ということで、最近では俺自身の勉強をしていたりする。
一応でも俺は椎名に雇われた家庭教師なわけで、これまではずっと椎名の勉強に付きっきりだった。
しかし、最近椎名の勉強に余裕が出てきたのもあって、彼女のほうから俺自身の勉強を勧められた。
自分の勉強のことなんて考えてもみなかったが、今思えば椎名に時間を割いてる分、自分の勉強が疎かになっているのは確かだ。
椎名からそう言ってくれたのは、いろんな意味でありがたかった。
「今日は、家庭教師のほうでいいのか?」
「はい。午前中は、ですけど」
「午後は何をするんだ?」
「秘密です♡」
椎名は、人差し指を唇にあててウインクする。
内心ほんの少しだけドキッとした自分自身に腹が立つ。
そんな心の内を表に出すことは当然なく、いつも通り「そうか」と塩対応で返す。
そんな風に返すと、いつもつまらなそうな顔をしていた椎名も、最近だと気にしなくなった様子。
今みたいな返事をしても、変わらない笑顔でニコニコしている。
少し変わったな。そう思った心も、そっとどこかにしまい込んだ。
彼女は、きっと変わってない。これが彼女の本当の姿なのだろう。何故かそう思えた。
「じゃあ、とりあえず昨日の復習からするか」
「はーい」
椎名はかわいく返事をしてから、手際よくリビングの机に教材を準備する。
俺は一度お手洗いを借りてから、リビングに戻り椎名の横に腰をおろす。
「えへへ。村上先輩も、こうして勉強するの結構気に入ってるんじゃないですか?」
俺の腕に抱きつきながら、意地悪そうに聞いてくる。
その手を適当にあしらいながら答える。
「お前がこうじゃないと勉強しないから仕方なくだ。他意はない」
「そうですか♪」
俺の、つまらないであろう回答にも、椎名は嬉しそうに答える。
出来ることなら、抱きつかれたりなんてせずに落ち着いて勉強を教えたいものだが、拒否すると椎名はあからさまにやる気を無くしてしまう。
そんな風にされてしまえば、教師のはしくれとして拒否出来ない。
ため息混じりに椎名の顔を見ると、あることに気づいた。
「今日は眼鏡じゃないのか?」
こちらに笑いかける彼女の顔に、今日は眼鏡がなかった。
家にいるときはいつもコンタクトではなく眼鏡をかけている椎名。
よく見てみれば、服装もいつものようなラフなものではなく、外出してもおかしくないような私服だった。
「ふふっ、村上先輩は眼鏡な私のほうが好きですか?」
「……そんなことは聞いてねえ。家だといつも眼鏡だったんじゃないのか?」
「普段は休みの日もそーなんですけど、今日は特別です」
「特別?」
「午後の予定がありますから♪」
午後の予定? もしかして友達と遊ぶ予定があったりするのだろうか。
それを秘密にするというのはよく分からないが、詮索は好きじゃないし問いただす気もない。
そこからはいつも通りで、何かとくっついてくる椎名をあしらいながら勉強を教える。
一時間ほどで椎名の勉強は切りがつく。その後、彼女に了承を得てから自分の勉強を開始する。
「こーゆーのもいいですよね~♪」
「こういうの?」
「はい。私も先輩も一緒に勉強してる、この感じがです」
「そうなのか」
「なんか、教師と生徒じゃなくて、高校生の男女~って感じじゃないですか?」
「元に俺たちは高校生の男女なんだが」
「そうじゃなくてー。まあいいです。とにかく私はこの時間が好きなんです」
そう宣言した後、懲りずに俺にくっつき肩に体を預けてくる。
いい加減、いきなり体を避けてカーペットと一緒に眠らせてやろうかとも思ったが、少し考えてやめた。
頭によぎったのは、つい昨日のこと。いや、もしかしたら椎名の家へ行くようになってから毎日だったかもしれない。
でも、はっきりと分かったのは、やはり昨日だった。
彼女との授業が終わり玄関から出る際、扉を閉めるその時。
彼女の顔に、ほんのわずか一瞬だけ、寂しさが見えた気がした。
気のせいと言ってしまえばそれまでだが、確かに寂しさなのだと俺は感じた。
その日椎名は、少しだけ自分の家族のことを話してくれた。
県内のちょっと遠くに住んでること、家族構成のこと。
多くは聞けなかったが、彼女が家族を愛していることは表情と声で分かった。
初めて彼女と会った時、彼女は家族と別居していることを平然と話した。
だが。それでも、彼女はまだ高校一年生。家族と離ればなれになってずっと平気なんてことは無いに決まってる。
その寂しさを紛らわせるために、俺に寄り添い明るく笑ってるのではないのか。そう考えてしまう。
杞憂かもしれないが、もしそうだとしたら俺の思い付きの行動で彼女が傷ついてしまうかもしれない。
仮にも俺は教師で、椎名は生徒だ。俺の中で彼女の存在は、少なくともただの後輩ではない。
俺に出来ることがあるのであれば、積極的にやりたい。
結論として俺は、肩に寄りかかる彼女を容認することを選択した。
「えへへ、なんか安心します。この感じ」
「……そうか」
「先輩? どうかしました?」
「いや、なんでもない。椎名の好きにしてくれ」
「な、なんか急に素直ですね、先輩」
「そうか?」
椎名はちょっと照れた様子で疑問の眼差しを送ってくる。
なんでもない振りをしてノートに視線を戻す。
「ふふ、素直ってところ否定しないんですね」
「椎名はこの前、素直じゃないって言ってたけどな。それに、否定してほしかったのか?」
「そんなわけないです。……だから、もうちょっとだけこうしてていいですか?」
「好きにしろ」
「はい♡」
遠慮なく体を預けてくる椎名。相変わらず彼女の体は柔らかくて、甘ったるい匂いが鼻孔と脳を刺激する。
しばらくその状態のまま自分の勉強を進める。これまた小一時間ほど勉強を続けた。
その間椎名は、腕に抱きついたり膝枕をして寝転がったり、目一杯俺を満喫していた。
気づけば彼女は、またもや俺の膝の上で寝息をたてていた。
俺は、机の上に置いてあった左手を椎名の頭へ持っていき、一度だけ髪を撫でる。
ぴくっと椎名の眉が動いた気がしてパッと手を離す。
それから数秒後、何故か顔を赤くしながら彼女が起き上がる。
「……先輩ってエッチですね」
椎名の予想もしていなかった言葉に心臓が飛び跳ねる。
思わず声が出そうになるのをギリギリで押し止める。
「……起きてたのか」
「先輩は、髪フェチなんですか?」
「断じて違う。俺にそんな性癖はない」
「でも、この前だって私の頭撫でてたじゃないですか」
「あの時も起きてたのかよ……」
「まあ、あの時は偶然起きてただけですけど、やっぱり頭撫でるの好きなんじゃないんですか?」
そう聞かれると、心当たりはある。
かれこれ十六年以上正直者と臆病者を貫き通してきた俺には、それを隠すということさえ出来なかった。
「……謝罪にはならないし、言い訳っぽくはなるんだが、いいか?」
「構いません。私は先輩の性癖が知りたいだけですから。寝込みを襲うのが好みかもしれませんしね」
「先に言っとこう、それだけは絶対に違う」
「じゃあ、なんなんですか?」
「……俺には妹がいるんだ。そいつが昔からかなりの甘えん坊で、事あるごとに頭を撫でてくれって言ってくるんだよ」
「それの癖で、ということですか?」
「まあ、そうなるな」
「……そう、ですか」
何故か、寂しそうな悔しそうな顔をする椎名。
その意味が分からず黙っていると、いきなり椎名が立ち上がる。
そして、俺を指差し堂々と宣言する。
「外出しましょう、先輩!」
「……は?」
人を指差すなと言おうとした脳とは裏腹に、口からは情けない一文字が飛び出た。
椎名の目はどこかやる気に満ちていて、輝いているように見えた。
女の子が無防備に寝てたら、とりあえず頭を撫でる。これテストに出ますよ。