60 告白
その教室には、彼女一人だけがぽつんとたたずんでいた。
やけに教室が広く感じて、反比例するように彼女の姿が小さく見えた。
開かれた窓からはそよ風が流れ、黒板の横のカーテンが揺れている。
風と共に入ってくる放課後の喧騒の中でも、すすり泣く掠れた彼女の声は小さいながらも鮮明に耳の中へ響いてくる。
教室の中へ入りゆっくりと扉を閉める。しかし、少しガタついたその古い扉は、閉まりきる際に鈍い衝撃音を放った。
「っ……?」
彼女もその大きな音は耳に届いたらしく、顔を上げてこちらを振り向く。
目と目が合う。真っ直ぐに俺に向けられたその瞳は、夕日に照らされた涙で淡く輝いていた。
「せ、せんぱ……」
涙を溜めた瞳を大きく見開く。それに合わせて一気に涙が溢れる。
頬を伝う感触に気づいたのか、それを俺に見せないようにとそれをすぐに腕で隠した。
「ご、ごめんなさぃ……っ。わたし……」
涙でぼろぼろになった声で、精一杯に振り絞って彼女はその言葉を口にしようとする。
俺は、静かに彼女の元へ歩く。その言葉の先を彼女の口から言わせてしまうのは、ダメな気がした。
彼女の前に立つ。いまだ言葉を出そうとする彼女に、俺はいつものように頭へ手を伸ばそうとし……やめた。
何かが違う、いや正確には何かが足りないような。彼女を支えられるようにするためには。
答えは俺の体が知っていたらしい。気づけば、両手で彼女を包み込み、抱きしめていた。
もうこれ以上彼女の涙が出ないように、強く自分の胸に彼女を抱き寄せる。
彼女の後ろにある机の上には、一枚の紙が置かれていた。
くしゃくしゃに折れ、雨の中で捨てられたかのように、しおれているその紙。
にじんだインクで書かれていたのは、他でもない彼女の期末考査の結果だった。
そこには輝かしい点数が並んでいた。すべてがほぼ満点と言ってもいいくらいの出来栄え。
しかし、彼女が求めている数値はその数の大きさでは無い。ただ一つの数値だけだ。
──そして、その数値が意味するのは、無慈悲で残酷な結果だった。
『学年順位:二位』
その紙で一番インクがにじんでいたその場所。だが、その事実はしっかりと形を残して俺にその意味を伝えてきた。
彼女の目標が達成されることはなかった。俺と彼女の約束は、守られることなく壊れてしまった。
「……椎名」
思わず、そう彼女の名前を呼んで、返事も聞かずに強く強くその体を抱きしめる。
そうしていないと、彼女が消えてしまうんじゃないか。そう思うほどに彼女は弱々しく見えた。
俺は、心のどこかで椎名は強いやつなのだと考えていた。
努力に努力を重ね、勇気を振り絞り、そして結果に繋げる。
そこからも満足することなく継続させ、自分にけじめを持たせてまた努力する。
そんな彼女をすぐ側で見ていた俺は、何の疑いも持たず強い女性だと……思い込んでいた。
誰よりも真面目で、かわいくて、小悪魔な、一つ下の後輩。
これまで弱みを見せることが少なかっただけで、彼女も普通の女子高生なのだ。
テスト期間に入る少し前に椎名と交わした約束。その時、俺はどこか彼女に甘えていたのかもしれない。
彼女の目標を応援して、その言葉を彼女のほうから伝えてもらう。
今になって考えてみれば、そのことこそ彼女が口にしていたような「ずるい」やり方では無いのだろうか。
──だから、俺も目標を立てた。
椎名の気持ちに自信を持って胸を張れるように、彼女と同じ目標を。
彼女のサポートを最優先にしつつ、家に帰ってからも自分の勉強に手を抜かずに取り組んだ。
おそらく、こんなにもバカ真面目に勉強したのは高校受験の時以来だろう。
俺は、未だに俺の胸に涙を流す椎名をもう一度強く抱き締め、やさしく髪を撫でる。
「椎名」
彼女の名前を口にする。
先程のような、こぼれ落ちるような言葉ではなく、はっきりと彼女に呼びかける。
返事は無かったが、俺が頭をさすってやるとだんだんと落ち着きを取り戻してきた。
一度体を離すため彼女の背中にまわした手を解こうとして、それを彼女に拒まれた。
ぎゅっと俺の背中にしがみついて離してくれなかった。
「……いま、顔見られたくないです」
掠れて消えそうな声で彼女はそうこぼした。
俺は一言だけ「悪かった」と謝罪して、彼女を抱き直す。
でも、この言葉は伝えなければならない。
これが、真に彼女のためなのかは分からない。しかし、今俺がやるべきことであることは変わらない。
すっと、深く息を吸ってから、ゆっくりと言葉を形にする。
「椎名」
「……はい」
「まずは、ごめん。椎名との約束を守れなかった。椎名を一位にしてやれなかった」
「ちがっ……それは私がっ」
「分かってる。それでも、俺の気持ちとして、謝らせてくれ。悪かった」
「………」
俺に謝られることが椎名にとって納得のいかないことだということは理解している。
だが、形式上彼女に雇われている身として、自分の力が足りなかったということは痛感した。
下手な慰めという意味の謝罪ではない。彼女の気持ちも理解している。
自分へのけじめ。そして何より、この約束をしっかりと終わらせるためのものだ。
「その上で、椎名にお願いがある」
「……?」
「椎名と同じ約束を、もう一度俺と交わしてくれないか」
「えっ……」
あとだしで、ずるくて、自分勝手な約束。
だとしても、今の俺に出来る、今の彼女のために出来ることはこれしかないと確信している。
だから、俺はその言葉を伝える。
「今回のテストで一位を取ったら、俺の気持ちを伝えさせてくれないか」
言葉通り、それは彼女との約束と何も変わらないもの。それが意味する理由は彼女は理解しているはずだ。
そして、今この時にその約束を持ち出した意味も彼女は察しが付いているだろう。
「せ、先輩。そ、それって……」
椎名が俺の背中にまわした手を離し、俺と目が合う。
これでもかと腫れた瞼は大きく見開いて、涙は止まっていた。
俺は制服のポケットからその紙を取り出し、椎名に渡す。
彼女は畳まれた紙ゆっくりと開き、そこに書かれた文字と数字に目を落とす。
『学年順位:一位』
息を吐いて、ゆっくりと吸い込む。
そして、もう一度吐き出す。次は、言葉と一緒に──
「俺は、椎名のことが好きだ」
窓から吹いた風が、彼女の前髪を揺らす。
その綺麗な瞳は、夕日の茜色に照らされ瞬いた。
「だから、返事を──椎名の気持ちを、聞かせて欲しい」
時計の針はメトロノームのように規則正しく時間を刻み、それに合わせて胸が鼓動する。
彼女以外のすべてが見えなくなり、その綺麗な瞳だけが自分を映していた。
「……私は、すごくわがままな女の子なんです」
「ああ、知ってる」
「……それに、ずるくて悪い子なんです」
「それ以上に良い奴だってことも知ってる」
「……結局、肝心なところで上手くいかない、不器用な後輩なんです」
「不器用だからこその椎名の良さも知ってる」
俺が好きになったのは──俺が守りたいと思ったのは、他でもない彼女だから。
「私は──」
彼女のすべてが、俺を引き付け魅了していた。
「私は、先輩に伝えたい気持ちがあるんです」
「……聞かせてくれないか」
彼女が目を閉じる。
俺と同じように、息を吐き、そしてゆっくりと吸い込んだ後、目を開く。
彼女と目が合った刹那、またすぐに瞳は閉じられ、次の瞬間。俺の視界は、その閉じた瞳で埋め尽くされた。
「んっ……」
唇が触れ合う。
彼女は背伸びをして、俺は目を見開く。
初めてのその感覚は、驚くほど脳内を溶かして意識を奪った。
五感のすべて、意識のすべてが彼女で埋め尽くされ、思考はぷつりと途切れた。
どれだけの間キスをしていたのか分からない。
脳はとてつもなく長い時が流れ、体は数秒だけしか時が進んでいなかった。
「村上先輩」
彼女に名前を呼ばれる。
朱色に染まった頬は、夕日のせいなのか。それとも──
「私も、先輩が好きです。ずっとずっと大好きでした」
透き通った声が脳内に反響する。
胸がぎゅっと締め付けられるような感覚がして、浮遊感のようなものを覚えた。
椎名から見たら、俺の頬も見事に夕日に照らされていただろう。
彼女のその言葉に返す気の利いた返事も、何も思いつかなかった。
口をついてようやく出たのは、ありきたりな、俺の好きな言葉だった。
「ありがとう、椎名」
「お礼を言うのは、私の方です」
目を腫らしながらも、いつもの笑顔を見せてくれる椎名。
でも、そのまま場を流してくれるほど彼女は優しくなかった。
「えへへ……、その、しちゃいましたね」
「あ、ああ」
わざとらしく指先を唇に当てて、いたずらに微笑む。
「……私の初めてですから、その……責任、取ってくださいね?」
「せ、責任って……」
「ふふっ、先輩は誰にも渡しませんからっ」
椎名はくるっと体を回して、俺に背を向ける。
そのまま数歩歩いたところで立ち止まり、
「これからも、よろしくお願いしますね。先輩」
振り向いた彼女は、そう言い残し。
そして、舌先で唇を舐めて、小悪魔かわいい微笑を浮かべるのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございました。こんにちは、風井明日香です。
『小悪魔かわいい後輩に家庭教師として雇われました』少しでも楽しんでいただくことができていたら幸いです。
私の2作品目のとなる本作品でしたが、この60話にて完結とさせて頂きます。
もしかしたら、空いた時間に気が向いた際にはおまけ的にもう少しだけ続く……かもしれません。あくまで、かもです。鴨、美味しいですよね。
この先の活動についてですが、しばらくは非公開で新作の執筆を細々と進めていく予定です。
なんとか今年中には公開するべく頑張ります。
公開の際には、とんでもなくビッグな重大発表もございますので、よければお楽しみに……。
長くなりましたが、これにて筆をおかせて頂きます。
またいつか、お会い出来る日まで。失礼致します。