58 ハグ
「椎名、何見てるんだ?」
「む。女の子のスマホを除くなんて、デリカシーないですよ、先輩」
「わ、悪い」
ほんの興味本位で聞いたことだったのだが、そう返されてしまうとぐうの音も出ない。
とはいえ、この状況を考慮すれば仕方のないことなのではと思うのだが……。
「なあ、椎名。ああ言った手前言いにくいんだが、そろそろ離れちゃダメか?」
「ダメです。今日が終わるまでずっとこのままです」
「……一応言っておくと、人間には生理現象というものがあるんだが、そこのところはどう考えておりますか椎名さん」
「私は気にしないので、どうぞ」
「何がどうぞだ。椎名のほうこそ、もよおしたらどうするんだ」
「失礼ですね、先輩。女の子はトイレなんていかないんですよ?」
「世界中の女子トイレは誰のためにあるんだ……」
椎名は現在俺の腕の中にいる。
具体的に言えば、俺が目の前に座る椎名を両腕で抱き、彼女がそれに身を任せ寄りかかっている状態。
何故こんなことになってしまったかと聞かれれば、恥ずかしながらすべて俺のせいである。
言い出したほうから、それをやめようと言うことがお門違いなことは理解している。
しかし、ずっと彼女と密着したままで平然を保ちきれる訳もなく、俺の心臓は騒がしくなる一方だった。
彼女を抱きしめるだけで精一杯で、中断する訳にもいかず、ただただ俺の腕の中でだらだらと過ごす彼女を見つめることしか出来ない。
その結果必然的に暇を持て余し、彼女がいじる携帯に目がいってしまった。
「まあ、見られて恥ずかしいものはないですけどね。どうせですし、先輩も一緒に見ます? 化粧品」
「俺は何を目的にそれを見ればいいんだ」
「後輩の女の子が使ってる化粧品を把握出来るなんてなかなかレア……いや、普通にキモいですね」
「おい」
若干煽られつつ、言われるがまま椎名のスマホを見る。彼女いわく、つい最近予約の始まった有名ブランドの化粧品なんだとか。
画像で見た高級そうなイメージ通り、価格は女子高生には似合わない金額をしていた。
まあ、近頃の女子高生の金銭感覚など知る由もないのだが、原則バイト禁止の高校に通う身としては軽々しく手の出せそうな価格ではなかった。
「野暮な質問かもしれないが、椎名はこれを買う予定なのか」
「今のところはそのつもりはないですね。ほら、私って元から可愛いですし」
「まあ、それもそうか」
「えっ、あ……その。あ、ありがとうございます……」
期待してた反応と違ったのか、言葉を詰まらせたあとぎこちなくお礼を言ってくる椎名。
今どきの女子高生がどのくらいの化粧するのか、はたまたそれにいくら程のお金を使っているのかは知らない。
だが、そんなことをしなくても椎名が可愛いということは素直にそう思う。
「……先輩は、化粧する女の子ってどう思いますか?」
「んー、そうだなあ……。もちろん本人の自由だとは思うんだが、俺はどっちもいいと思う」
「どっちも?」
「無理にお金をかけるくらいならしなくてもいいと思うが、本人の意思で自分の魅力を高めようとすることは素敵なことだし尊敬もする」
もしも椎名が、もっと綺麗になりたいと言って化粧をするとしたら、俺は全肯定マシーンになるだろう。
「……やっぱり、買おっかなぁ」
「元から可愛いのにか?」
「掘り返さないでくださいっ。だって……」
「だって?」
「……だって、先輩の前では一番綺麗で可愛くいたいですから」
控えめなトーンでそんなことを言ってくる椎名に思わず心臓が飛び跳ねて声が出そうになる。
その不意打ち的なセリフが相まって、先程まで激しかった鼓動が余計に早くなった。
そのちょっと気まずい空気のまま少し時間が経てば、鼓動は落ち着いてくる。
しかし、それと反比例するように彼女への思いが大きくなっていって、俺は気づけば椎名を抱きしめたまま頭を撫でていた。
「せ、先輩?」
「その……なんだ。ありがとな」
「私は別に、お礼を言われるようなことは何も……」
「さっきも言ったが、俺は今のままの椎名でも十分に魅力的だと思ってる。だから、無理はしないでくれ」
俺のその言葉を最後に、椎名は何も言わなくなってしまう。思わず、何か気に触ることを言ってしまったかと不安になる。
少ししてから彼女は、ゆっくりと俺の手を解く。そして、そのまま体を回転させ、俺と見つめ合うように座り直す。
目と目が合う。椎名の瞳は透き通るように綺麗で、俺はその光景に釘付けになる。
固まったままの俺に、彼女はあろうことかいきなり正面から抱きついてきた。
今度は椎名の腕が俺の背中に回され、当然ながらお互いの体が密着する。
彼女の温かさと柔らかさがダイレクトに伝わってくる。背中から抱きしめていた時の何倍もの恥ずかしさと幸福が心に満ち溢れ、息が出来なくなるほどだった。
「やっぱり、先輩はずるいです」
「……お互い様だろ」
そう返してから、俺も椎名の背中に腕を回す。
先程よりも密着していて、より彼女の存在を強く感じる。
少し経てばいつ間にか胸の動機も恥ずかしさも、すっと何処かへ──彼女に吸われていくように消えていった。
ただただ幸せな時間で、本気でこの時間が永遠に続けばなんて、柄でもないようなことを考えてしまうほどだった。
「少し前に話してたな」
「? 何がですか?」
「ハグすると、ストレスが減るとかなんとか」
「ふふ、あの時は恥ずかしがって先輩からはハグしてくれませんでしたもんね」
「言いがかりだ。それに今はこうしてしっかりハグしてるだろ。どうだ、ストレスは減りそうか」
「先輩と一緒の生活でストレスなんて感じないので、意味ないですね」
「ならもう止めるか?」
「だーめーです」
予想していた答えを返してくれた椎名は、さっきよりも強く俺を抱きしめてくる。
そんな彼女を、俺は甘んじて受け止める。この幸福な時間に、もっと浸っていたいという気持ちは自分でも抑えきれなかった。
そのあとも多少体勢を変えつつも、ずっと椎名とは離れずにくっついていた。
彼女が俺の胸に寄り添ってきたり、手を繋いだり、またハグしたり。
自分から勉強のお休みを提案しておきながら、この幸福感を前には何も考えられず、明日からまた勉強を始められるか不安になる。
それほどまでに幸せで、依存してしまいそうな感覚が頭を染め尽くしていた。
そんな時間に、最初に水を刺したのは俺のお腹だった。
「ふふ、情けない音が鳴ってます」
「悪いな。こちとら成長期の男子高校生なんだ」
「たしか今だと……オムライスならすぐに作れますよ」
「よろしく頼む」
時計を確認すれば、針はもうすぐ一番上で重なろうとしていた。俺の腹時計はかなりの精度を発揮しているらしい。
椎名が立ち上がり、キッチンでエプロンに着替え始める。
いつもの事ながら、料理のことは椎名に任せ切りになってしまっているので、俺に出来るのはそれを見守ることだけ。
椎名がいなくなって、なんとなく寂しさを感じる膝元をさすって、もう一度キッチンに目をやる。
椎名はせっせと下準備を進めていて、相変わらずの手際の良さにあらためて感心する。
手持ち無沙汰な俺は、なんとなくキッチンに向かい椎名に話しかける。
「その、手伝えることないか?」
「ふふっ、そんなにお腹すいてるんですか?」
「人を勝手に食いしん坊扱いするのはやめろ。ほら、いつも何も出来なくて待ってるだけだから」
「私がやりたくてやってるんですし、気を使って頂かなくても大丈夫ですよ? もちろんお気持ちは嬉しいですけど」
俺が手伝うといっても、出来ることは限られてるし仕方の無いことなのだが、どうにも自分だけ何もしていないのは癪に障る。
俺はそのまま椎名の背中を見つめて考える。何も出来ないのが何とはなしに悔しくて、俺は悪いことを思いついてしまう。
俺は料理を進める彼女の後ろからゆっくりと近づき、少し葛藤したあと勢いに任せてその背中をそっと抱きしめる。
「ひゃっ」
小さく彼女が悲鳴を上げて、首だけでこちらを振り返る。
「な、なんですかっ?」
「いや、なんとなく」
「なんとなくって……私、料理中なんですけど」
「お気になさらず」
「そんな事言われても、結構これ恥ずかしいんですけど……」
「たしかに」
先程よりかは全然密着度は高くないのに、何故かとてつもなく恥ずかしくていけないことをしている気分になる。
なんというか、考えるだけでも恥ずかしいが、フィクションで見るラブラブな新婚夫婦のようは気恥しさがむんむんと漂っていた。
「なんか、新婚みたいだな」
「それ言っちゃうんですか!? 恥ずかしいから私もあえて言わなかったのに!」
「いや、恥ずかしさに耐えきれずつい」
「このパターンさっきも見ましたよ! やった方が恥ずかしくなるやつ!」
「両方とも俺だな。ははっ」
「笑い事じゃないですよ!」
俺に抱きしめられ、ツッコミを入れながらも料理をする手が止まっていないのはさすがと言ったところか。
結局、なんやかんやと料理が完成するまでの間椎名と雑談をしていた。
椎名と何気ない話をすることも、また違った幸せがあり、彼女と一緒にいるだけで十分なんだなと再認識した。
今日が終わればまたいつも通りの日常に戻る。
目標は必ずしも簡単ではない。それはもちろん彼女の目標だが、それをサポートする側として彼女以上に気合いを入れて行かなければいけない。
気持ちを切り替えて、ただ全力で自分のやるべき事をやるだけ。
それは彼女のためでもあり、自分のためでもある。絶対に目標を達成する。
テストは、いよいよ来週に迫っていた。
けしからん。




