57 気持ち
風邪をひいた椎名の看病をした日、俺は事前に許可をもらって彼女の家で一夜をすごした。
たかが風邪ひとつで心配しすぎだと言われそうな過保護っぷりだが、正直なところ否定できない。
毎日勉強漬けで頑張りすぎている椎名が単純に心配だった。それが紛れもない本音。
日頃から家庭教師として、そして彼女の先輩として、惜しまずに全力で協力はしてきた。
ある意味それが彼女に対してプレッシャーになってしまっていたのかもしれない。そもそも、なにか彼女のためになることが出来ていたのか。
そんなことがぐるぐると頭を巡って、その日はなかなか寝付くことが出来なかった。
朝、リビングのソファで目が覚めると、鼻腔をくすぐるおいしい香りが漂っていた。
体を起こして半目開きの目で匂いの元を見ると、キッチンに立ち朝食を作る椎名の姿があった。
俺が起きたことに気づくと、椎名は朝食を作る手を止める。
「おはようございます、先輩」
「ああ、おはよう。体調は大丈夫なのか」
「もちろんです。懸命な看病をしていただきましたから」
「そうかよ」
一晩開けて寝起きで空っぽの頭に、昨日の記憶が次々と蘇ってくる。
改めて思い返してみれば、本当にすごいことをしてしまったんだなということをひしひしと感じ、胸に突き刺さってくる。
「こんなに先輩が心配してくれるなら、もう少しだけ風邪をひいててもありだったかもですね」
「バカ言うな。こっちは本気で心配してたんだぞ」
「分かってます。冗談です、ごめんなさい」
そうは言いながらも彼女の口角は緩んでいて、鼻歌を口ずさみながら料理を再開していた。
椎名と朝食をとったあと、すぐに勉強を始めた。
今日は土曜日。あらためて椎名が風邪をひいたのが週末で良かったと感じる。
もしそうでなければ、昨晩のように付きっきりで看病することも難しかった。
そのおかげなのか、すっかり体調の回復した彼女だが、病み上がりであることはたしかだ。
勉強に励むことはもちろんいい事だが、心配の気持ちの方が大きいことは言うまでもない。
「なあ、椎名」
「………」
「おい、椎名?」
「あっ、すみません。どうかしましたか?」
「……その、大丈夫か?」
「? はい、このくらいの問題なら余裕ですよ、ふふん」
「いや……。……そうだよな、野暮な質問だったな」
「いえ、こうなれたのも先輩のおかげですから」
いつもと何も変わらないその笑顔。それなのに何故か彼女の顔が俺の瞳には霞んで映っていた。
残り数日となったテストまでの時間。風邪で休んでしまっていた分の遅れ。焦る気持ちは痛いほど理解出来る。
そして、それに向かって頑張る彼女を応援したい気持ちも当然ある。
しかし、そう考えれば考えるほど、心の中のもやもやが大きくなっていき胸が締め付けられた。
何かを掴もうと彼女に手を伸ばしかけ、結局何も掴めず。
「……椎名」
その胸の痛みに耐えきれずに気づけばもう一度彼女の名前を口にしていた。
「先輩……?」
再び名前は呼ばれた椎名は不思議そうな顔をして、俺の顔を見つめてくる。
俺はその顔を見つめ返して少し悩んだ後、ゆっくりと口を開く。
「今日の家庭教師は、お休みにしないか?」
「え……?」
椎名は何かに撃ち抜かれたかのように体を硬直させる。
少しの間彼女は俺の目を見つめる。そして、俺が冗談で言っている訳では無いと分かると、顔を俯かせる。
「私との勉強、嫌ですか……?」
「そんなわけない。椎名と一緒にいて嫌だったことなんて一度もない」
「で、でも……じゃあなんで……」
「それは……」
その当然の疑問に対して、俺は口ごもってしまう。椎名が心配、ただそれだけのことなのだが、上手く言葉が作れない。
彼女には明確な目標があって、それに向かって全力で挑んでいて。それを応援するのは俺の仕事……いや、使命と言っても過言ではない。
だからこそなのかもしれない。彼女に無理をして欲しくない反面、そのやる気を無下にするわけにもいかない。
その結果、口先だけで椎名が心配だということを軽々しく言えなかったのかもしれない。
「勉強するのは悪いことじゃないし、椎名が頑張ってるのも理解してる。でもそれ以上に……椎名が思っている以上に、俺は椎名が心配なんだよ」
「で、でも、一位だったらって……約束したからっ」
「分かってる。それがどれだけ大切なことかももちろん分かってる」
「じゃあ……っ!」
「心配なんだよ! 後輩としてでもなく生徒としてでもなく、俺の大切な一人の女の子として椎名のことが心配なんだよ!」
「っ……」
気づけば、自分でもびっくりするほどに声を荒らげてしまっていた。
その声にびくっと口をつぐんだ椎名を見て、少し冷静になって息を整える。
「……今日一日だけでいいから、教師でも先輩でもない俺と一緒にいてくれないか。これは身勝手な俺の、椎名への一生のお願いだ」
「っ、それでも……わたし、は……」
彼女は言葉をつまずかせて、何も言わずに目を逸らす。まるで、俺に顔を見られたくないかのように。
そして、俺に背を向けたまま何かに耐えるように右手のペンを握りしめ、微かに震わせていた。
俺はその背中を見つめることしか出来ない。これはただのお願い、俺のわがままなのだ。
……でも。それでも、どうしても俺は譲れなかった。今日だけは、どうしても自分の中で納得がいかなかった。
だから、俺は……。
……俺は、その震える背中に体を寄せた。
「せっ、せんぱいっ!?」
椎名の肩から腕を回し、彼女を包み込む。
華奢なその体は、俺の腕の中にすっぽりと収まった。
激しく動揺する椎名を更に強く抱きしめて、どこにも逃がさないとばかりに引き寄せる。
しばらくそのまま捕まえていると、彼女が先程とは違う意味で震えた声を出す。
「せ、先輩。そ、その……これは一体……?」
「悪い、嫌だったか」
「い、いえっ。嫌ではないですし、どちらかといえば、その、嬉しいです……けど……」
「それなら良かった」
「よ、良くないです! 嫌では無いですけどすごく恥ずかしいんです!」
「そうか、正直俺も恥ずかしいかもしれない」
「な、ならっ。い、一旦離れて……」
「嫌だ」
「……え、あの、だから一旦」
「嫌だ」
俺は断固として拒否する。
彼女が聞いて、俺が応えた通り。たしかに正直めちゃくちゃ恥ずかしい。だからといって、後戻りはできない。
「悪いが、椎名が今日休んでくれるまで離すつもりは無い」
「それまでずっとこのままですか!?」
「ああ。で、出来ればなるべく早く決断してくれると嬉しい……」
「先輩も限界迎えてるじゃないですか! な、なんでこんなこと……」
「言っただろ。椎名が心配なんだよ。本当にそれだけだ」
「先輩……」
本当に変な意地だと思う。
たぶん、これまで生きてきて、これほどまでに意地を張ったのはこれが初めてだろう。
まさかその相手が後輩の女の子になるとは思いもよらなかった。あらためて、彼女との関係性が不思議に感じてしまう。
されど風邪なのはもちろんだが、一般的に言えばたかが風邪。
いくら大切な人だからといって、さすがに心配しすぎ。そんなことはとっくに分かりきっている。
でも、気づけばこんなことになっていた。自分でも自分が分からないほどに彼女のことで頭が埋め尽くされていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。椎名を抱きしめる俺の腕に、彼女の手が触れた。
何よりも暖かいその手の温もりが、俺の心まで染み渡った。
「……分かりました。今日だけは、先輩に負けてあげます」
「本当か……?」
「はい。こんなにも先輩が私を心配してくれて、こんなにも先輩が私を必要としてくれたことは、初めてですから」
「恥ずかしながら、間違いない」
「だから、仕方なく今日は、先輩の大切な女の子として一緒にいてあげます」
「……ありがとな」
椎名らしいその答えに、俺は大きく安堵する。
生意気で、それでも憎めない。当然のことなのに、彼女はいつもと何も変わらない彼女であることに安心した。
そうして、椎名にお礼を言ったあと俺はゆっくりと抱きしめた腕を解こうとして、
「でも、一つだけ条件があります」
「えっ?」
その腕を椎名に掴まれた。
彼女から離れることが出来ないまま、彼女は言葉を続ける。
「私がいいって言うまで、この状態のままでいて下さい」
「……本気か、椎名」
「はい。先輩からしたことですし、責任取ってくれますよね?」
「……分かった」
「えへへ、言質頂きました♪」
諦めて、離しかけていた腕を戻して再び彼女の体を抱きしめる。
抵抗することなく彼女も俺に体重を預けてくる。
彼女の温もりを俺が包み、また俺の温もりが彼女を包む。そんな、互いの体温を共有し合うだけの時間。
でも、これほどに幸せな時間なんてないだろう。五感全てがそう感じている気がした。
「先輩」
「なんだ」
「私のこと、しっかり抱きしめててくださいね」
「ああ。もちろん」
言われなくても、この手を離すことは無い。離したくない。
「私のこと、しっかり見ててくださいね」
「ああ。いつも見てる」
椎名のことを見ていない、考えていない日なんてない。
「私のこと……」
答えの決まっている質問を投げかけ続ける椎名。
しかし、当たり前のことでも、言わなくても伝わることでも、言葉にしなければそれは本当の意味で相手には伝わらない。
「私のこと。ずっと、離さないでくださいね」
だから──
「ああ、離さない。ずっと、な」
俺は彼女を、また一つ好きになる。
あひゅん。