56 わがまま
風邪気味ながらも椎名は、俺の作ったおかゆを最後まで残さず食べてくれた。
食欲があるというのはいい傾向だ。食欲がなければ栄養が取れず弱ってしまう。
あれだけ食べれるならば、そこまで心配はいらない。あとは時間が経つのを待つだけだろう。
俺はベッドで横になる椎名のすぐ横に腰掛け、教科書をぱらぱらとめくる。
その様子を、椎名がどこか不満そうに見てくる。
「どうかしたのか」
「私が寝てるのに先輩だけ勉強してるのはズルいです」
「風邪の時っていうのは自分が思ってるよりも体が疲れてるもんだ。いい子にしてろ」
「むぅ~……」
なかなか寝付けない駄々っ子を寝かしつけるように咎めると、椎名のほうも駄々っ子よろしく不満で口を尖らせる。
まあ、ご飯を食べてすぐ寝るというのもあまりいいものではないし、少し体を起こして休んだ方がいいかもしれない。
「分かった。少しだけやるか」
「ほんとですか!」
「ああ、体起こせるか?」
椎名が壁に背を当てベッドに腰掛けるのを待って、さっそく椎名に作った対策ノートを開く。
俺が口頭で問題を読み、椎名がそれに答える。ただそれだけの繰り返しだが、何も見ずに答えを導き出すというのは勉強法としては悪くない。
実際の試験において、頭の中のタンスの引き出し方を身につけておくことは重要なことだ。
試験の時間も、長いようですべてを完璧に解こうと思うとかなり短い。
パッと見で答えられるようにする時短も大事だが、記憶を遡る速さを鍛えておくのも何かと役に立つ。
風邪気味のときにあまり負担はかけたくないためあまりにも難しい問題や引っ掛けのような出し方はしなかった。
しかし、それを抜きにしてもかなり椎名の正答率はよかった。軽く計算しても九割方はほぼ解答通りの答えが返ってきた。
「すごいな、椎名。この短期間でここまでおさえられてるとは思わなかったぞ」
「えっへん。私、やるときはやるんですから」
「まあ、そのせいでこうして体調崩してるんだけどな」
「んぐ……」
何も言えずに口を噤む椎名。もちろんそれが原因のすべてではないし、俺も椎名の体調まで気を配ることが出来なかった。
そこは家庭教師としての新たな課題だ。
しばらくはそのまま椎名と勉強を続け、窓の外から差し込む夕日は消え、すっかり暗くなっていた。
時計を見れば、いつもであればそろそろ帰宅する時間。
「先輩、そろそろ帰らなきゃじゃないですか?」
「ああ」
時計を確認した俺を見て察したのか彼女の方から話を振られる。
俺は短く返事を返して、そのまま荷物をまとめ……ることはなく、椎名が綺麗に食べきってくれたおかゆの皿を持ってキッチンへ向かう。
「せ、先輩。それくらいは私がやりますから!」
「いいんだよ。俺が好きでやってるんだから」
「で、でもこれ以上迷惑をかけるのは……」
「生徒の体調に気を配れなかった俺にも反省点はある。風邪の時は存分に甘えていいんだぞ」
「……私、風邪の時じゃなくても甘えてる気もしますけど」
「自覚はあったんだな」
後輩から甘えられることに悪い気は当然しないが、椎名の場合いつも遠慮のえの字もなく全力でかまってくるので対処に困ることはある。
そんな彼女でも、その人懐っこさやかわいさゆえに許してしまっているのは、他でもない俺なわけだが。
おかゆを作った鍋と使った食器類を洗い、それぞれ乾かして片付ける。
一度椎名の部屋へと戻ると、彼女はなんともいえない複雑な顔で布団を被っていた。
「なんだ、その顔は」
「改めて甘えてもいいって言われると、なんというか……」
「俺だって、たまには先輩としてカッコつけたいんだよ。全力で甘えてくれ」
「……本当にいいんですか? いろいろお願いしちゃいますよ?」
「望むところだ」
胸を張って椎名に向かって親指をたててやる。最近いつも頑張り続きの彼女に、少しくらいご褒美があってもいいだろう。
すると、いつもとは打って変わった、おずおずとした様子で椎名はゆっくりと望みを口にする。
「じゃあ……」
* * *
俺はベット脇の台に水を入れた洗面器を置き、その中からタオルを取り出す。
洗面器の上で水を絞ってタオルの形を整えてから、俺は彼女のほうを見る。
「な、なあ。本当にするのか?」
「先輩、なんでもしてくれるって言いました」
「そ、それは……」
「言いました」
「えっと……」
「言いました」
「………」
椎名はきっぱりとその言葉を刺してきて、有無を言わせないといった態度だ。
俺は、言い訳どころか言葉すら発せない状況。ただ椎名の顔を見るだけしかできない。
「言いました」
「まだ何も言ってないんだが……」
「先輩は嘘をつかない誠実な人って、私知ってますよ」
「その言葉、この状況じゃなかったら素直に嬉しかったんだがな」
「それで、してくれるんですよね? 先輩」
「……ああ」
もう少しだけ葛藤をした後に、俺は首を縦に振る。
俺の手には濡れタオル。そして彼女は風邪気味のためお風呂に入ることが出来ない。……そういうことである。
今日ほど、男に二言があってもいいのではないかと思ったことは無い。
椎名と生活をする中で、この手のパターンは嫌というほど経験してきたというのに、なぜか学習していない。
いつも、ふとした時に格好をつけて取り返しのつかない失言や約束をしてしまう。もちろん、彼女に対してだけ。
「えっと、じゃあ……少しだけ後ろ向いててもらえますか? その着替えを見られるのはちょっと恥ずかしくて……」
「す、すまん」
すぐに体を回し、扉の方へ頭を向ける。
いつぞやの温泉の時には一糸まとわぬ姿だったというのに、何を今更……。とはいうものの、たしかに、着替えを見られるのが恥ずかしい気持ちも理解出来る気がする。
しばらくして背後から布の擦れる音が聞こえてくる。自分のすぐ真後ろで彼女が服を脱いでいると考えるとおかしくなりそうで、最初に耳を塞がなかったことを後悔する。
一回その音を聞き始めると、途中でミュートすることを不思議と躊躇させられる。
とてつもない背徳感に襲われながらも、しっかりとその音を俺は聞き続けてしまっていた。
「お、終わりましたので、もう見ても大丈夫……です」
「あ、ああ」
その声でゆっくりと体を戻し、椎名のほうを向く。
もちろん、何も大丈夫ではない映像が俺の目に飛び込んできた。
真っ白な、華奢で綺麗な背中がそこにはあった。
邪魔にならないようにと、肩から前に流した彼女の髪。
そのせいで、普段見ることの無い首元も露になり、思わず息を飲む。
「せ、先輩?」
俺がタオルを握りしめたまま、その場から動けずにいると、彼女の方から催促がかかる。
意味もなくもう一度洗面器にタオルをつけて、時間を置いてから覚悟を決める。
「じ、じゃあ、行くぞ」
「は、はいっ」
ゆっくりとタオルを椎名の背中に近づけていく。
触れるだけで壊れてしまいそうな程に、彼女の背中は綺麗で繊細に見えた。
「んっ……」
タオルが肌に触れると、微かに椎名が声を漏らす。
ただのその一声だけが妙に色っぽく聞こえ、俺の精神を削っていく。
ぐっと顔に力を入れて自我を保ちつつ腕は丁寧に、撫でるように椎名の背中を拭く。
しかし、力を入れないようにするあまり、思うように動かせずうまくいかない。
「少し、触るぞ」
「えっ……ひゃっ」
俺は空いている左手を椎名の肩に乗せる。
彼女は小さく悲鳴をあげるが、ここまで来たら引き下がれない。
俺は出来るだけやさしく彼女の肩を掴み、再びタオルを動かす。
「ん、んぅ……っ」
先程より力が入りしっかりと拭けている感覚がある。しかし、当然彼女に触れる左手は自分の体ではないような感覚だった。
椎名の素肌に触れるなんてことは、当然慣れていることは無いし、ひたすらに緊張が走り鼓動も早まる。
俺はただ平静を保つことだけを考えて、タオルを動かし続けた。
「お、終わったぞ。後は自分で頼む……」
「ほ、他のところは、してくれないんですか?」
「色々と耐えられない……。椎名のほうこそ耐えれるのか」
「……か、確証はないです」
他のどの部位に関しても出来る気がしない。一周回って背中が一番安全な部位なんだと気付かされた。
これ以上はさすがに俺もキャパオーバーなため、椎名が背中以外を拭く間俺は部屋の外で待つことに。
その後タオルを片付けて、ぎこちない雰囲気から逃れるように時計を見ればすっかり良い子は寝る時間。
電気を消して、部屋から出ようとすると彼女に服を掴まれた。
「最後のわがままです。私が寝るまで、隣にいてくれませんか」
彼女はか細い声でそうお願いしてきた。
俺は一つため息をついたあと、服を掴んだその手を握りしめて、ベッドの横に座る。
「これで、寝られそうか?」
「はい♪」
椎名はえへへ、とはにかんで「おやすみなさい、先輩」と言って目を閉じる。
俺は「ああ」とだけ返して、その手を握ったまま軽く目を瞑る。
しばらくそうしているといつの間にか意思が無くなっており、頭が倒れそうになった感覚で意識が戻ってくる。
時計は半回転ほど進んでおり、ベッドで休む彼女はすぅすぅと整った寝息をたてて静かに眠っていた。
俺はゆっくりと握った手をほどき、立ち上がる。
幸せそうな顔を眠る椎名。俺はそっとそこに顔を近づけ、彼女の額にやさしく唇を当てる。
「おやすみ、椎名」
なんだこのイケメン、腹立つな。




