55 風邪
その日の放課後、俺はいつもと同じように生徒玄関で椎名を待っていた。
着実と期末考査は近づいてきている。そろそろ他の生徒たちもテストを意識し始めて、最近では部活をせずに帰宅する人も増えてきた。
椎名と俺も、もちろん毎日の勉強を欠かしていない。なにせ彼女の目標は学年のトップだ。
少しの油断が命取りになる、そういう世界なのだ。
彼女をしっかりとバックアップするために、最近は俺も一年前の復習をしている。
前々から少しは取り組んでいたのだか、あらためて隅々まで勉強し直している。
今日の範囲では何について説明してやるべきか、そんなことを考えながら椎名を待つ。
しかし、いつまで待っても彼女が表れない。
いつもであれば誰よりも早く玄関で待っているというのに。日直か何かの用事だとしてもあまりにも遅い。
何かあったのだろうかと、椎名の教室へ向かい椎名のクラスメイトに話しかける。
いきなり訪ねてきた先輩に少しびっくりしている様子だったが、その生徒は親切に相手をしてくれた。
そして話を聞くと、そもそも椎名は今日学校に来ていなかったらしい。
なにやら風邪を引いて欠席すると、朝の段階で学校に連絡を入れていたらしい。
そう言われてから携帯を確認すると、椎名からメッセージが届いていた。
学校を欠席すること、今日の家庭教師はキャンセルという趣旨が完結に書いてあり、最後には「ごめんなさい……」とセリフのついたしょんぼりしたネコのスタンプが送られてきていた。
俺は教えてくれた生徒にお礼を言って、椎名に「今から行く」とメッセージを送ってすぐに学校を出た。
いつも椎名と帰る道を逸れて、近場の薬局へ向かう。さすがに今の彼女の症状までは分からないのでスポーツドリンクや栄養になりそうなものを少しだけ買って早足で椎名の家へ向かった。
たかが風邪をだとしても、彼女は一人暮らしだ。何かがあってからでは遅いのだ。
そもそも、もしかしたら昨日の時点でその予兆があったかもしれない。
それなのに、それに気づけなかった自分がすごく嫌になった。
そんなことを考えてもなんの意味もないことはわかっているが、やっぱり悔しかった。
その気持ちを紛らわすように、俺はひたすらに足を動かした。
さほど時間もかからずに椎名の住むマンションへ到着する。彼女の部屋の前まで来て、インターホンを鳴らす。
もしかしたら、寝込んでいて出れるような状態じゃないかもしれない。
どんどんとよからぬ方向へと思考が巡ってしまうが、その扉はすぐに開いた。
「あれ……先輩、今日はキャンセルって……」
「メッセージ見てないのか。心配だからお見舞いだ」
「そ、そうだったんですか。ありがとうございます」
「それより動いて平気なのか、椎名」
「はい、そんなに酷くもありませんから。どうぞ上がってください」
そう言いながらも足取りはおぼつかない様子。ふらふらと部屋へと歩いていく。
部屋の電気は着いておらず、カーテンも閉まったまま。俺の心配は加速するばかりだった。
「あ……今、お茶いれますね」
「何言ってるんだ椎名、今は休まないとダメだろう」
「でも……」
「でもじゃない。病人は寝るのが仕事だぞ」
「そんな赤ちゃんみたいな……」
「いいから。俺のことは気にせず横になってろ」
「……はい」
俺が少しだけ強い口調でそう促すと、しょんぼりしながらもベッドに戻り布団を被る椎名。
俺は薬局で買ってきたものたちの整理をしながら、椎名に話しかける。
「熱はあるのか?」
「朝は微熱がありました。今は……どうでしょう」
「測ってないのか。体温計は?」
「……そこの机の上です」
俺はその体温計を手に取り、ベッドで横になる椎名に近づく。
そして、手のひらを彼女の額に当てる。驚くほどに熱い訳でもなさそうだが、少なくとも平熱ではなさそうだ。
それに、椎名の目もどこかとろんとしていて、頬も染まっている。
「いったん熱を測るぞ。体起こせるか?」
「はい……」
パジャマ姿の無防備な彼女に少し心拍数を上げながら、彼女の体を支えて体を起こさせる。
「ほら、体温計」
「ありがとうございます……」
体温計を受け取った彼女はパジャマのボタンを数個外し、そのまま左腕の脇に入れる。
当然ながらいつもより肌が露出する訳で、俺は慌てて目を背ける。
少ししてからピピピと音がなり、ようやく俺は視線を戻し彼女から体温計を受け取る。
「37.6度……普通に微熱だな」
「ごめんなさい。テストも近いこんな時期に風邪なんて……」
「何だ急に。椎名のせいじゃないだろう」
「私……結局は浮かれてたのかもしれません。先輩に甘えてばっかりで」
「椎名」
らしくもない弱音を吐き始めた椎名を、彼女の名前を読んで制止する。
覇気のない萎れた顔をする椎名の頬にやさしく手で触れる。
彼女は、驚いた表情で目を丸くする。
「椎名は頑張ってる。少し頑張りすぎて、体がびっくりしたんだろう。椎名は悪くない」
「でも、先輩には迷惑をかけて……」
「俺が椎名にされたことで迷惑だと思ったことなんて何一つない。甘えてばっかり? むしろ上等だ。どれだけでも甘えてくれ」
「いいんですか……?」
「当たり前だ。椎名のためならなんでもやってやる」
「じ、じゃあ……」
椎名が何かを考え、言葉を出そうとしたとき。
きゅるるると、彼女のお腹から悲痛な声が聞こえてきた。
「え、えへへ。お、お腹がすいちゃいました」
「お腹の虫の方が素直なみたいだな。少し待ってろ、何か作ってくる」
再び椎名をベッドに横にして、部屋を出る。
薬局で買ってきたものの中から、おかゆの素を取り出す。もしもの時のために買っておいたが、正解だったようだ。
妹の奏が風邪をひいて母さんが出かけている時は彼女の看病をしていた。
慣れてる……とまではいかずとも少なくとも初めてではない。
椎名を待たせるわけにも行かないので、ささっと準備をして料理に取り掛かる。
それほど凝ったものは作っていない。作り方通りのものを作り方通りにやっただけだ。
あの部屋の様子やキッチンの様子を見るに、おそらく朝起きてからまともなものを食べていなかったのだろう。
風邪をいち早く治すには、とにもかくにも元気をつけることが最重要。そのためにはまずはご飯を食べなければ何も始まらない。
椎名の部屋に戻り、ベッドの横に椅子を持ってきて腰掛ける。
「ほら、簡単だけどおかゆだ。食べれそうか?」
「あ、ありがとうございます……」
「熱いから気をつけて食べろよ」
「あ、あの……先輩」
「ん、どうかしたか?」
「食べさせて、くれないんですか……?」
「なっ……」
ベッドに座って、こちらに向けて首を傾げて上目遣いでそんなわがままを言ってくる。
たしかによく見るお決まりのシチュエーションだし、なんでもやってやると断言したばっかりだ。
しかし、実際にあんな物欲しそうな甘い目線でお願いされると嫌でも鼓動が早くなる。
男に二言はない……後輩が素直に甘えてくれるのならそれには答えなければいけない。
「……分かった。冷ましてやるから少し待てよ」
「えへへ、はーい」
かわいく返事する椎名に少しだけ呆れつつ、おかゆを少量レンゲにすくって息をかけて冷ます。
椎名はその様子を眺め、俺の準備が完了すると俺のほうを向いてその小さな口を開けた。
俺はまだ少し動悸を加速させながらその口へおかゆを運ぶ。
「……ほ、ほら。あーん」
「あーん」
「どうだ。熱くないか?」
「おいひいです♪」
ゆっくりと咀嚼したあとそう言って笑顔を見せる。いつもの笑顔よりかは元気はなかったが、先程よりかは幾分いい顔になった気がした。
「先輩、料理も出来たんですね」
「本当に簡単なものだけだぞ。期待はするな」
「大丈夫ですよ。私が作ってあげますからっ」
「……はいはい」
その言葉の意味するところを深く考えてしまい、軽くあしらって俺は逃げる。
彼女はまた笑いを零したあと、再びおかゆをせがんでくる。
結局俺は、おかゆの最後の一口まで彼女にあーんをして食べさせてやるのだった。
料理男子はモテるってマジですか。