53 目標
「私、先輩に伝えたいことがあるんです」
そう言った椎名は、自分の過去のことを話してくれた。
今思えば彼女の過去のことに関して、俺は全く知らなかった。
中学生のとき彼女が出会った一人の男子生徒のこと。彼女はその人の名前を語らなかったが、言わずとも分かった。
椎名の過去の、その登場人物。それは何一つ違いなく俺の記憶のものと同一だった。
そして、彼女は口にした。
私はその人に恋をしていた、と。
彼女は真剣な表情でその言葉を発した。その気持ちが俺の心に刺さり、思わず息を飲んだ。
「これで昔話は終わりです。そしてあの時の気持ちは今も変わりません。その結果が今に繋がりました」
「……そうか。一人暮らしをしてるのも、その作戦のうちだった訳か」
「本当は中学校卒業と同時に引っ越すつもりだったんです。そこを、無理を言って私だけこっちに残ったんです」
最初から気になっていた疑問が、今になって解消された。
彼女の一人暮らしはすべて俺のため……俺との時間を作るためのものだったらしい。
俺のためだということも信じられないが、それを行動に移し実行してしまう彼女には驚かされる。
俺の場合。人生の中で、恋というものには全くと言っていいほど関わりがなかった。
少し前に、椎名には過去に一度だけ告白されたことがら、という話をした。
その話自体あまりいい思い出ではないし、告白も断った。それに、もしあれをOKしていたところでそれが恋なのかと聞かれると、それは少し違う気がする。
俺の思い描く恋というものなんて、ドラマや漫画のようなものに影響されてずいぶん曖昧な存在になってしまっている。
しかし、おそらくあの時の俺の心の中に、恋と呼べるようなものは何もなかった。
もっと自然で儚くて、たぶん自分では気づかないようなものなんだと思う。
それを知ったのは、他でもない彼女のせいだ。
俺はあまり嘘をつくのが好きじゃない。そもそも、あまり嘘をつくのが得意でもないが。
だから、これまで彼女に明らかな嘘をついたことはなかった。
でもついさっき、椎名のお父さんに放った言葉、もしかしたらあれは嘘だったかもしれない。
彼女は、俺にとってかけがえのない存在。
その言葉の意味と俺の本心に大きな違いはない。その言葉自体に嘘はない。
しかし、今の俺の気持ちを表現するのには何かが足りないのだ。
俺の彼女に対する感情は、そんな言葉に収まるほど簡単で浅はかなものではない。そう気付かされた。
そして、今俺が知っている言葉でこの気持ちを表現するのであれば、おそらく一番近いものは……。
「椎名、俺もその気持ちに答えたい。しっかりと俺の気持ちも伝えたい」
「ごめんなさい先輩。それはダメなんです」
「え……?」
彼女はその真剣な表情を崩すことなくそう俺の言葉を遮った。理解が追いつかず固まる俺に、椎名はもう一度俺の手をぎゅっと握る。
「これは私の勝手なプライドとか気持ちとか、そういうことの話なんです。でも私にとっては大事なことが一つだけあるんです」
「大事なこと……?」
彼女は大きく息を吸い込む。そして、目を閉じてじっくりと一つ一つの言葉を確かめるように告げる。
「私はずるいんです。強引に先輩を家庭教師にして、二人きりの時間を作って。もちろん、その選択に後悔はありません。それが私なりの全力でした」
「ああ」
「でも、それはずるなんです。先輩や他人がどう思うかは分かりません。でも、私はこのやり方が完璧な恋路だとは納得できないんです」
「そんなことは……」
「結局は、私の心のよく分からないプライドなんです。でも、だからこそこのモヤモヤを放っては置けないんです」
椎名は俺の手を握ったままそれを自分の心臓へ当てる。
俺の心臓と同じくらいの早さの鼓動を感じる。でも、どこか悲しげに動いているような変な感覚がした。
椎名の気持ちと俺の気持ちは、表向きは同じでも心の中での色はまったく違う。
俺には分からない、理解できないことなのかもしれないが、彼女にとってそれはとてつもなく大きく大切なことなのだろう。
そして、それに納得が出来ていないというのであれば、俺はそれを待つしかない。
「椎名は、どうしたいんだ?」
「私は……」
彼女と目が合う。
綺麗なその瞳がこちらを見つめ、その鏡には俺の顔が映っていた。
少しして、彼女の中に結論が出たらしい。眉にぐっと力を入れ、唇をきゅっとつぐむ。
そして、その後にゆっくりとその口を開いた。
「私は、自分の中に何かケジメを付けたいです。先輩に認めてもらえるような、先輩に胸を張れる確かな結果が欲しいです」
「それは……?」
「夏休み前に期末考査があります。すごく安直かもしれません。でも、先輩に対する敬意と成果を見せるにはそれが最適解だと考えました」
彼女はふぅ、と小さな息遣いをして。
「私は次の期末考査で、学年一位を目指します」
「……本気か?」
「本気です。こんなことで意味があるのか、先輩が納得してくれるかは分かりません。でも、私の中はこれが一番だと考えました」
真剣な眼差しで言葉を並べる椎名。
あまり触れなかったことだが、俺たちが通う高校は県内でもそこそこにレベルが高い。
何か目立った功績や校風がある訳でもないし、特別な人気がある訳でもない。
その分、通う生徒中には成績優秀で真面目なやつが多い。少し気合いを入れて勉強したところで、十位以内に入れれば御の字というくらいだ。
その中でのトップで狙うとなると、当然かなりの勉強量が必要になる。もちろん多少の運だって必要だろう。
椎名も分かっているだろうが簡単なことではない。しかしそれを自分に対するケジメだとするのであれば、それだけ彼女が本気なんだと言うことが伝わってくる。
俺の気持ちはもう決まっているし、それが変わることも彼女を見捨てることも絶対にしない。だが、彼女がそれを望むのなら俺がそれを否定する理由はどこにもない。
「分かった。でもそれが椎名の負担になるのは嫌だ。絶対に無理はしないでくれ」
「大丈夫です。先輩のためなら私はなんでも平気です。恋する乙女を侮らないで下さい」
「そうかよ」
ウインクをしながらその細い腕で力こぶを作ろうとする椎名に、俺は笑いながら言葉を返す。
「はい。だから、その結果が出た時あらためて私の気持ちを伝えさせてください」
「ああ。これから勉強にも気合い入れないとだな」
「はいっ」
俺の言葉に笑顔を見せる椎名。
いつも通りの明るいその顔に、心のどこかで安心する。
そして、少し早めの昼食を済ませて、午後からはまた勉強を再開した。
椎名が本気で学年一位を狙うのであれば、それ相応の対策をしなければならない。
これまで余った時間は主に予習などに割いていたが、その時間を活用しない手はない。
ただ単に点数を上げるだけならそう難しくないが、完璧を目指すとなると違う対策が求められる。
とりあえず、先程中断していた課題を椎名が終わらせるまでの間に俺はその対策法を考えていた。
先輩のために頑張るのに先輩に協力してもらうのはどうなんでしょう、と椎名は言っていたが、そこは俺の方から譲歩してもらった。
椎名が頑張るというのであれば、それを応援せずに見ているだけなのは、それこそ俺のプライドが許せない。
あくまで家庭教師の仕事なんだと椎名を納得させて、俺は椎名が学年一位になるために全面的な協力をすることに決めた。
「あの、先輩」
「どうした、椎名」
「その、私のワガママに付き合わせてしまってすみません」
「今更何言ってるんだ。俺は椎名の家庭教師だぞ、どれだけでも付き合ってやる」
「えへへ、ありがとうございます」
俺が椎名の頭をぽんぽんしながらそう言ってやると、椎名は幸せそうににへらと笑う。
そして、少しだけ横にずれて俺に体を寄せてから、勉強を再開する椎名。
相変わらずながらの彼女に安心感を覚えて、そのまま彼女の髪を撫でて俺も机に目を向ける。
こうして、俺と椎名の期末考査へ向けた勉強がスタートした。
みんなも勉強、がんばろうね!