52 過去
◆ 椎名梓 ◆
中学生の頃の私は、自他ともに認める地味で目立たない女の子だった。
自信のなさが滲み出た長い前髪、校則をきっちりと守った膝下スカートとシャツのボタン。
本当に仲の良かった友達は少しいたけど、自分から関わりにいくようなことはなく、教室ではずっと本を読んで過ごしていた。
元々本を読むことは好きだったし、学校が嫌いな訳でもないし、もちろんいじめられていた訳でもない。
本当に、あまり活発ではない、ただの地味な女の子。
そんな私は本好きの名に恥じず、放課後は毎日のように学校の図書室で本を読んでいた。
元々図書室は静かな場所だと思っていたけど、私の学校の図書室は本当に人気が少なく利用者は片手で数える程度だった。
そうなると当然メンバーも固定される。お互いにコミュニケーションを多く取る訳では無い。
しかし、常連のメンバーの顔は意識しなくても覚えれる。そのくらいには人数が少なかった。
私はいつも、本棚の並ぶスペースの横に併設された、少し開けた場所に置いてある大きな机で読書をしていた。
出来れば個人スペースみたいなものがあればベストだったけど、人気がない図書室にそんなスペースはなく、座れる場所はその大きな机一つだけだった。
とはいうものの、机が大きい分に真隣にでも座られない限り、視界には誰も映らず一人で集中して読書が出来た。
机をはさんで向かい合うようにイスが並べてあったけど、机の幅は充分に広いので目の前に誰かが座っても特に気になることはなかった。
……まあ、そもそも人数が少ない分、近くや正面に誰かが座るようなことは稀だったけど。
そんな理想的な空間で読書を楽しむ私の平凡な時間は、ある時を境に全く持って平凡ではない時間へと変わってしまった。
そのきっかけは、図書室での読書時間がきっちり板について一年がすぎた二年生の秋頃。
いつものように図書室に向かい、いつもの席で本を読んでいた時だった。
ある一人の男子生徒が図書室に入ってきた。
私の席からは、少し顔をあげれば図書室の扉がちょうど視界に入る場所にある。
いつもであれば、特に気にすることも無くすぐに本の世界へ戻るのだが、その時は少しだけその人に意識がいってしまった。
何か変な気を起こした訳じゃなくて、単純にその人があまり見ない顔だったからだ。
もちろん利用頻度が低くてあまり覚えていない人もいるが、その男子生徒は本当に初めてみる人だった。
ちらっと見えた横顔の印象は「優しそうな人」だった。
何か特別な気持ちを感じたわけではない。でも、その顔には真面目で温かい雰囲気を感じた。
そこからの記憶は今でも鮮明に思い出せる。
最初は人目見ただけで特に気にはしてなかった。視界に写った時に少しチラ見するだけ。
彼は本棚から数冊本を取ってきて、私と同じようにここで読むらしくこちらにやってきた。
そして、ちょうど私の向かいの席に座った。
そうなると私もさすがに気になってしまい、読書を中断し本からちらっと顔を出して彼の様子を伺う。
ある程度の距離があるためどんな本を読んでいるかまでは分からない。でも、本のサイズ的に漫画や小説の類ではなさそうだった。
彼は持ってきた本を真剣な眼差しで読み始める。優しそうな印象は変わらない。でも、その真剣な表情は真面目で紳士な印象を強くした。
気づくと、じっと彼の様子を見続けてしまっていた。
私の視線に気づいたのかそれともたまたまなのか、彼がふと顔をあげた。
読書することをとうの昔に忘れて彼を見つめてしまっていた私は、当然のようにぱちくりと目が合ってしまうわけで。
「……っ」
私は、咄嗟に視界を本で遮って彼から視線を逸らす。
一気に恥ずかしさが湧いてきて、頬がかぁーっと熱くなるのを感じた。
何がそこまで私の心を引き付けたのか分からない。分からないがゆえに余計に自分の気持ちが分からなくてただただ恥ずかしかった。
それからはずっと彼の方を向くことは無く、全く内容の入ってこない本を読み続けた。
下校時刻を知らせる鐘が鳴り、なんとなく先に立ち上がれずしばらく本を読んでいると、彼が立ち上がった。
あれだけ真剣に読んでいたのに、本を借りることはせずにすべて本棚に戻して、そさくさと帰宅していった。
私は読んでいるのは家から持参しているものだから、このまま家に帰って暇な時にも読み進めるつもりだ。
でも、せっかく本の貸出をしてるんだし、家でじっくりと読んでもいいと思うんだけど……。
そんな素朴な疑問を抱えながらも、カウンターに座る図書委員から「早く帰って欲しい」という視線を感じ、私も急いで図書室を後にした。
その日から、彼は毎日のように図書室に足を運ぶようになった。
毎日同じ本を本棚から持ってきて、いつもと変わらない私の正面の席で真剣に本を読んでいる。
たまたま、この間本の表紙を見ることが出来た。
ずいぶん分厚めの本を読んでいるなぁとは思ってけど、その正体は参考書だった。
内容はたぶん、高校受験対策用のテキストと問題集。
いまさらだけど、彼はひとつ上の先輩だったみたい。三年生の彼は年明けに高校受験が控えているはず、そのための追い込みをかけ始めているところなんだと思う。
日が経てば経つほど、彼のことを考えることが増えていった。
そんなある日。図書室に来て、私は珍しく本棚の前にいた。
家にストックしてあった本をあらかた読み切ってしまい、新しい本を買うのを忘れてしまっていたのだ。
だから、久しぶりに図書室の本を借りて読もう。そう考えて普段は見ない本棚を眺めて、良さそうな本がないか探していた。
ふと目に入ったタイトルが私の目を引き付けた。そこは小説類の棚で、シンプルだけど興味をそそられるタイトルに私は手を伸ばした。
しかし、あと数センチというところで、私の手が伸びきって届かなかった。
背伸びをして踏ん張ってみるが、本の背表紙にちょんちょんと触れるだけ。到底引っ張り出すのは無理そうだった。
なんとなく、わざわざ台を持ってくるのも億劫で何か他にいい作品がないかとあきらめて下の段に視線を落とした時。
ふっ、と辺りが暗くなった。電気が切れた訳では無い。何かが影になって私を覆っているような……。
そのとき私の視線に映ったのは、私の後ろから本棚の最上段へ伸びる大きな手だった。
「取りたかったのはこの本ですか?」
「えっ」
振り向いたそこには、私を引き付けていた本を手にした彼の姿があった。
いつもは少し離れた場所から見ていた彼の顔が目の前にあり、そして初めて彼の声を聞いた。
男の子らしくしっかり低いながらも、落ち着いていて優しく耳に残る声だった。
優しく微笑んでくれる彼。対して私は動揺に動揺が重なり、消え入りそうなほど小さな声で「は、はい」と情けない返事することしか出来なかった。
彼はそんな私に対してもう一度優しくはにかみ、その本を私に渡して自分の席へ戻っていった。
たぶんあれが、最後の引き金だったんだと思う。
私の心を引き付け、心を埋めつくし、そして締めつけた。もう隠せない。溢れ出た。
私は、名前も知らないあの人に恋をしていた。
何か大きな関わりがあった訳じゃない。たくさん彼のことを知っているわけでもない。
でも。だからこそ、いつの間にか私の心はふらふらと彼の元へと惹きつけられていた。
もしかしたら、私は単純ですごくちょろいのかもしれない。
でも不思議と複雑な気持ちになることはなかった。
彼が好き。そう考えるだけで、その他のことはどうでもよくて、何も考えられなかった。
そこから私の学校生活は一変した。……まあ、元々あの人のせいで乱れちゃってたけど。
恋する乙女よろしく身だしなみはもちろん、まずはしっかりと情報を集めた。
あまりストーカーみたいになるのは嫌だったけど、勇気を出してクラスの子の友好関係を広げていき、人脈作りに勤しんだ。
意外にも世の中は狭いもので、仲良くなったクラスの子の彼氏が彼の友達だったりして、あまり苦労はしなかった。
当然その彼氏持ちのクラスの子には、彼への恋心はバレバレだったけど。あるいはそれを知って彼女はすごく協力的になってくれた。
でも時間と私の勇気が足りず、結局彼の卒業までに私は行動に移ることが出来なかった。
三年生に進級した時には、これでもかと後悔をして、最初は涙も零した。
でも、そんなもので冷めるほど私の恋心は小さくなかった。そしてこれから一年間、ずっと燃え続ける。そんな自信が心の中にしっかりとあった。
そして一年後私は彼のいる高校に合格した。
一年でイメチェンもした。あのクラスの子ともさらに仲良くなって、アドバイスをたくさんしてもらった。
オススメの美容室に連れていってもらい髪を切った時には、勿体なさすぎると結構な剣幕で怒られたりもした。
そして春。
高校に入学して私は彼と再開した。中学校の時よりも大人びてカッコよくなっていた彼に、ちょっとどころじゃないくらい心臓が跳ねた。
どう声をかけるか、どう攻めて攻略するか。これも友達と作戦会議のたまものだった。
「ここまでが中学生の私。そしてここから、夢にまで見た私の高校生活──村上先輩との家庭教師生活が始まったんです」
私があの本の立場だったら、限界化して自分のページ破いてましたね。