51 覚悟
玄関で見知らぬおじさんと見つめ合う。
それは彼に何が怪しい雰囲気を感じていたとか、そういう訳では無い。
単純に、どこか彼の見た目に見覚え……正しくは誰かに似ているような気がして固まってしまっていたのだ。
「え、えっと。何か御用ですか?」
さすがに気まずくなりおじさんにそう尋ねるが、彼は何も言わずに俺の顔と部屋の番号を見比べ、何かを考え込んでいる様子。
どうしたものかと思っていると、音を聞いて不審に思った椎名が玄関にやってきた。
「先輩、どうかしたんですか……って、パパ!?」
「……えっ?」
椎名が発したその単語に、俺は驚きで言葉を落とすと同時に先程まで感じていた違和感の正体に気づくのだった。
* * *
「えっと、紹介しますね。先輩、この人が私のパパです」
椎名が少しやりにくそうに、俺の正面に座る椎名のお父さんを紹介してくれる。
ちなみに、椎名のお父さんは家に入ってからも一度も言葉を発していない。
ただただ俺の顔をじっくりと見つめている。……どちらかというと睨まれていると言った方が適切かもしれないが。
その視線のおかげで居心地はこれでもかというほど悪いが、家庭教師を始めた頃からいずれは通らなければいけないイベントだとは考えていた。
俺は姿勢を正し、その視線に真っ直ぐと見つめ返す。
「はじめまして。娘さんと同じ高校に通う村上陸と言います」
「ああ、はじめまして。紹介の通り、私は梓の父だ」
このままだんまりを決め込まれたらどうしようかと考えていたが杞憂だったようだ。
その椎名に似て整った顔立ちから発せられる声は、落ち着いていて低いながらもよく通る声だった。
「先程は失礼な態度を取ってしまってすみませんでした」
「いや、それはこちらこそだ。私のほうこそ何も言えずに悪かった」
俺が玄関での態度を誤ると、椎名のお父さんのほうも頭を下げる。かなり身構えていたのだが、その柔らか対応に少し方の力が抜けた。
「ところで、村上くん。君は、椎名とはどういう関係なんだい?」
しかし、椎名のお父さんが吐いたその言葉で、和やかな雰囲気はすぐに張り詰めた空気に戻った。
予想していた通りの質問だったというのに、その言葉は想像よりも大きく重いものだった。
俺は一つ深呼吸をして、もう一度佇まいを直す。
「僕は、娘さんの家庭教師をさせてもらっています」
「家庭教師……?」
椎名のお父さんは、ピンと来ていない様子でその言葉を疑問形で復唱する。
「私の聞き方が悪かったかもしれない。君は梓の恋人ではないのか?」
「違います。交際はしていません」
「本当か?」
「はい」
少し鋭くした視線で聞き直してくるその言葉に、素早く否定を重ねる。
当然椎名のお父さんの考えている、思っていることには予想が出来る。
自分の大切な娘の部屋を訪ねると、どこの馬の骨とも知らない男が一緒の部屋にいたのだ。
そして、その男が恋人でもなんでもない家庭教師というよくわからない関係性。
疑わしい、理解出来ないというのは、俺だって分かっていることだ。
正直俺だって椎名との関係性について問われた時、うまくすべてを説明は出来ない。
ただの友達でもなければ、恋人でもない。ではただの教師と生徒だけの関係なのかと問われれば、腑に落ちない気持ちが残る。
「私も娘の人間関係についてあまりとやかく言いたい訳ではない」
「はい」
「しかし、残念ながら私には、君の言う家庭教師という関係には疑問がある」
変わらない、落ち着いた声色で話す椎名のお父さん。
「娘の気持ちも尊重したいし、君のことも信用したい。だが、親として納得いかない気持ちがあるのも分かるだろう?」
「はい、分かってます」
「だから、もし君が家庭教師という口実で、娘に対して軽い気持ちで近づいたのなら……」
「パパ! 先輩はそんな人じゃ──」
「いや、いいんだ椎名。これは俺が答えなきゃいけないことだ」
お父さんのその言葉に、耐えきれず口を出す椎名を俺は制止する。
俺は、大人でもなく子供がいる訳でもない。だから親の立場に立ったことは一度もない。
だが、椎名のお父さんの気持ちは手に取るようにわかる。俺が過去に同じことを考えていたからだ。
もちろん、そもそもの始まりは強引気味に椎名からお願いされて始めた家庭教師だ。
だが、俺が断ることや途中で辞めることだって出来たはずなのだ。
しかし、そんなことを考えたことは思えば一度もなかった。そしてその理由も見当たらなかった。
そうなった時、もしかしたら心のどこかに椎名への邪な気持ちがあったのかもしれない、そんなことを考えたことがあった。
その気持ちがあったからこの家庭教師を続けていたのではないか。その可能性が捨てられずにいたことは事実だ。
椎名の顔を見る。
さらさらの髪、長いまつげと大きな瞳、ふっくらとした小さな口。
しかし、たぶん俺の頭を埋めつくしていたものはそれだけではなかった。
些細なことで嬉しそうにに笑う姿、真剣に勉強に取り組む真面目な姿、俺をからかってくる時の楽しそうで生き生きとした姿さえ。
いつの間にか彼女の存在自体が俺の生活の一部になっていて。彼女に対する気持ちにもある程度心の中では結論ができていて。
だから、俺はその気持ちを伝えなければならない。
椎名のお父さんへ。そしてもちろん、椎名本人にも。
「僕……いや、俺は、断じてそんな軽い気持ちで椎名に近づいてはいません。彼女は家庭教師としての俺の生徒です」
「本当か? 本当にそれだけの関係なのだとしたら距離感がおかしいとは思わないのか」
「そうですね、たしかに俺もそう思います。すみません、少し嘘をつきました」
「嘘?」
「はい。俺にとって椎名は、たしかに最初はただの生徒でした。しかし、今では大事な後輩……いや、俺にとってかけがえのない大切な存在です」
俺は、椎名のお父さんの目を真っ直ぐに見つめてそう言い切った。
もちろん、こんなことを椎名に伝えたことなんてない。とても恥ずかしくていえたものではない。
だが、今の俺が感じていることはたしかにこれで間違いはない。そう確信している。
俺の言葉に、椎名のお父さんはぐっと黙り込んで俺を見つめ、椎名も驚いた顔で俺の顔を見ていた。
勢いに任せて紛れもない本音を暴露をしてしまったことに、ほのかに頬が熱くなるのを感じる。
早くこの沈黙が終わらないものかと椎名のお父さんの様子をみる。
まだ何かを考えている様子だったが、少し時間を開けて一つ息をついて目を閉じた。
「……村上くんの気持ちは分かった。すべてを理解出来た訳では無いが、君が娘を思う気持ちは分かったつもりだ」
「そうですか。ありがとうございます」
「今日は久しぶりに娘の様子を見に来ただけだったんだが……うん、安心したよ」
そう椎名に優しく微笑むお父さん。その笑顔は、椎名の笑う顔とそっくりだった。
「お邪魔しちゃったね。私は帰るよ」
椎名のお父さんは椅子から立ち上がり、手を挙げてそう言った。
椎名はお昼ご飯くらい一緒に食べようと話していたが、この後に用事があるとかで丁重にお断りされた。
「それじゃあ梓、何かあったらすぐ連絡するんだぞ」
「あ、うん……じゃあねパパ」
「村上くんも、娘のことをよろしく頼むよ」
「はい」
やはり椎名を育てた親だと思うような真面目でいい人だった。朗らかな笑顔をしながら帰っていく椎名のお父さんに手を振り見送る。
その後に部屋に戻って一息つく。結果的に穏便に済んだが、緊張が解けたせいで力が抜けてしまった。
「そ、その。すみません、先輩。私のパパが……」
「椎名が謝ることじゃないだろ。それに、ずっと前から覚悟していたことだ」
そんなふうに強がったセリフを返すが、内心かなり疲弊してしまっている。
……それに、今あまり椎名の顔を見れない。椎名のお父さんを説得するためとは言え、やはり椎名の前で堂々と言うことではなかった。
居心地が悪くなりなるべく椎名と目が合わないようにしていたのだが、椎名の方から近づいてきて俺のすぐ横に座り込んだ。
そして、ぴとっと俺の肩にくっついてきた。
「……なんだよ」
「今は、そういう気分なんです」
「どういう気分だ」
「先輩のせいですよ?」
「………」
甘い声でそう言う椎名に、明らかな思い当たりがあるため俺は何も言えなくなる。
椎名は、何も言えない俺をいいことに俺の左手を奪って自分の頬に優しく当てる。
彼女の頬の体温はとても暖かく、そのとろんとした目を見てしまい、余計に居心地が悪くなる。
椎名はそのまま俺の手を握ったまま、しばらく目を閉じていた。
なるべく彼女が視界に入らないように目を逸らして耐えていると、ふと頬に触れる感触が消える。
不思議に思い振り向くと、両手で俺の手を握りしめた彼女が俺の顔を見つめていた。
そして、いつになく真剣な声色で言葉をこぼした。
「私、先輩に伝えたいことがあるんです」
パパァ!




