50 朝
朝、自然とまぶたが開く。
いつもであれば、けたたましく鳴り響く目覚ましでようやく目が覚めるのだが、なぜか今日は静まり返った部屋の中で意識が覚醒した。
まだ少しだけぼーっとする頭で、ふと寝返りをうつ。そして、目の前にかわいい後輩の顔が目の前に写った。
「っ……!?」
思わず息を飲み込んで、体を硬直させる。
少し体を動かせば触れてしまうような彼女との距離。慣れることの無いその距離に、寝起きの心臓が激しく鼓動した。
彼女の肌は透き通るように白く、ふっくらとした唇と、長く整ったまつげ。そのすべてが綺麗で俺の目を釘付けにするには十分すぎる可愛さだった。
静かに寝息をたてながら無防備に眠る椎名。その頬を指でつっつく。
ちょっと前にも触ったことがあったが、無抵抗な彼女にするのは違った楽しさがあった。
「んぅ……」
調子に乗ってつついていると彼女が声をこぼす。思わず手を止めるが、まだ起きた様子ではなかった。
それからも懲りずに頬をつつき続けていると、ふいにその手を椎名に掴まれた。
起きてしまったかと焦るが、彼女は相変わらず寝ぼけた声をあげる。
「ん、せんぱい……」
「………」
どうやら夢の中には俺が登場しているらしい。どんな内容なのかは当然定かではないが、俺の名前をこぼしながら幸せそうに口元を緩ませる姿はすごく可愛かった。
「せんぱいぃ……」
「なんだよ」
「えへへ、すきです……」
「なっ」
それは完全に不意打ちだった。
言葉が喉につっかえて、体は硬直し顔があつくなっていくのを感じた。
そんな俺の気も知らないで、彼女は俺の手を握ってまだ夢の中の世界を楽しんでいた。
いや、たかが寝言の一つだ。その言葉が意味することもそれに限った話ではない。
それに、こんなこといつも言われているような物じゃないか。今更動揺してどうする。
そんな言い訳をしながら心を落ち着けようとする俺に反比例して、鼓動は収まる気配が無かった。
時間が経つにつれてどんどんと恥ずかしさが増してきて、椎名の顔が見れなくなる。
しかし、彼女のほうは相変わらず俺の手を離してくれない。
今すぐに逃げ出したい気持ちでいっぱいだが、この状況で彼女を起こしてしまうわけにもいかず、身動きが取れない。
そうこうしているうちに彼女の意識が覚醒し始める。
そして、その大きな瞳がゆっくりと開かれ、ぱちりと俺と目が合う。
「おはよう、椎名」
「ん……おはようございます……」
眠たそうにまぶたを擦りながら、ふにゃふにゃな声を出す椎名。
「悪い、起こしたか? どうせ休みだしもう少し寝ててもいいんだぞ」
「いえ、大丈夫です。先輩が起きたのであれば私も起きます」
「そうか?」
「はい。……ところで先輩、寝ている間に変なことしてませんか?」
「……してません」
「えっ待ってください、なんですかその意味深な間は」
眠たそうに半目開きだった椎名の目が、ぱちくりと見開く。
「じ、冗談のつもりだったのに……ま、まさかあの先輩がそんなに私を求めて……」
「ま、待て。正直に言えばしてしまったんだが断じて一線を超えるようなことはしてないからな?」
「……何したんですか?」
「あー……その、頬を少しだけつんつんと……。悪い」
「本当にそれだけですか?」
「俺は本当にそれしかしてない」
「……その言い方だと、私が何かしたみたいに聞こえるんですが」
寝起きのくせにやけに鋭いところを突いてくる椎名。
「………」
「なんで黙るんですか、先輩」
「黙秘権を行使する」
「一体私は何をしたんですか!」
こればかりは口が裂けても言えない。そもそも不可抗力とは言え、人の寝言を勝手に聞いてしまったことには俺に非がある。
あの寝言が、もし彼女の本心から零れた落ちてしまったものなのだとしたら、それを彼女の意識を尊重せずに拾ってしまってはいけない。
「ごめん、椎名。椎名のために言えないんだ」
「……先輩が言いたくないことは聞きません」
「そうか……ありがとな、椎名」
「いえ、その分今日はたくさん先輩に構って貰いますから」
「お手柔らかに頼む」
それからベッドから二人で抜け出し、それぞれのモーニングルーティンをする。
こうして誰かの家で朝を迎えるなんて実に数年ぶりだ。
なつかしさと少しの緊張を覚えながら、朝の支度を済ませる。
そして、椎名と朝食をとるために二人で食卓に座る。今日はいつもの俺の朝食に合わせてもらい、トーストをいただくことに。
「せんぱい、何飲みますか?」
「ホットココアで頼む」
「りょうかいです」
キッチンに立つ彼女は慣れた手つきでココアを作ってくれる。その間に俺は食器出したりテーブルを拭いたりと、雑用を済ませておく。
その後、甘いココアの香りと香ばしいトーストの焼けた匂いが漂ってくる。
二人並んで「いただきます」と声を合わせて、ちょうど良くこんがりと焼けたトーストにかぶりつく。
「どうですか? 私の作ったパンのお味は」
「美味いぞ。椎名の愛を感じるやさしい味がする」
「ふぇ……そ、そこは焼いただけじゃってツッコむところなんですけど……」
すぐにふにゃる椎名を笑いながら、トーストと一緒にココアを飲む。シンプルなトーストと味わいと甘すぎないココアが絶妙で頬が緩む。
そのまま流れるように朝食を食べきり、食器を片付けてさっそく勉強を始める。
「大丈夫か? 椎名」
「え? 何がですか?」
「昨日からずっと勉強尽くしで疲れていないか?」
「平気です。先輩とならどれだけでもできます。先輩こそ大丈夫ですか?」
「ああ、椎名が優秀なおかげでな」
「えへへ、褒めても何も出ませんよ?」
「やる気くらいは出ないもんかね」
「それは先輩次第ですね~」
「? どういう意味だ」
俺が聞き返すと、不意に彼女の手が俺の手の上に乗せられる。
ぎゅっと指を絡ませ、体を寄せて近づいてける。
「分かりませんか?」
「なにがだよ」
「先輩がいっぱい甘やかしてくれたら、やる気が出るかもしれません」
「不便なやる気スイッチだな」
「そうですか? 先輩さえいればいつでもどこでもONになるなんて、とても便利じゃないです?」
「ないです」
裏を返せば、俺がいなければ一生スイッチが入らないという、なんとも可用性のない製品だ。
そこそこ一緒にいれば、そんなことは分かっていたし、今更驚くこようなことではない。
しかし、こうも自分が彼女にとって必要な存在なんだと自覚させられると、どうも気恥しさがある。
……まあ、それはお互い様なのかもしれないが。
「あーあ。なんだか今日はやる気が出ませーん」
「おい、最初の意気込みはどこにいった」
「んんん~、先輩がもっと構ってくれれば、やる気が出そうなんですけど~」
「椎名、お前なあ……」
なんというか、最近椎名の行動に歯止めがかからなくなってきている気がする。
今更なのではというのももっともな意見だが、彼女との仲が深まれば深まるほどその内容がヒートアップしているのも事実だ。
「先輩は、かわいい後輩を甘やかしたいとおもわないんですか?」
「思ってないって言ったら嘘になるが、教師として生徒を甘やかすわけにはいかない」
「それなら、今だけ教師モード禁止です。先輩として後輩を存分に甘やかしてください」
「俺は何しに来てるんだ……」
昨晩にあれだけ甘えてきていたというのに、椎名の欲求は留まるところを知らない。
一晩明けたとは言え、まだ俺の中では昨日の熱は冷めきっていない。
本当に、これ以上理性を保てるか甚だ怪しいところである。
「ダメだダメだ。ほら、昨日の続きからやるぞ」
「ぶー、先輩のけち」
「悪かったな、つれない先輩で」
「先輩がそう言うなら、こっちにも手がありますから。つれない先輩には、こうです!」
そう言って椎名は立ち上がって俺の背後から飛びついて抱きしめてきた。
彼女の体温と柔らかさがダイレクトに伝わってきて、意図せず動悸が早まる。
「知ってました? ハグをすると一日のストレスがかなり減るらしいですよ。私が先輩のストレスを消してあげます」
「俺からは抱きしめてないが、それで二人ともストレスを減らせるのか?」
「む。つれない先輩の次は、へりくつ先輩ですか? そんなこと言うなら先輩からもしっかりハグしてください」
椎名は一度背中から離れて、次は両手を広げて俺のほうを向いてくる。
「椎名が真面目に勉強してくれれば、ストレスも減るんだがなあ」
「うっ……ズルいですよ、先輩」
「真面目にやってくれれば、少しはご褒美をあげてやってもいいんだがなぁ?」
「先輩、ここの問題で質問なんですが」
「(……ちょろい)」
少しご褒美をチラつかせただけでこの変わりようなのはある意味納得いかない。
集中してくれることに越したことはないが、そういうことでしか生徒のやる気を出せないのは問題な気もする。
とりあえずは勉強を再開してくれた椎名を見守りつつ、自分用に持ってきたテキストをパラパラとめくる。
しばらくそうしていると、不意に家のインターホンが鳴る。
集中してくれている椎名に配慮し、俺が出ると椎名に伝えて玄関へ向かう。
「今出ますね~」
そう言いながら俺が扉を開けたときそこに立っていた人は──
どこか誰かの面影を感じる、驚きの形相を浮かべた初老の男性だった。
私なら抱きしめてましたけどね。