46 お泊まり
休日の朝。いつもより少しだけ多く睡眠をとり、軽めの朝食を食べて、今日の準備を始める。
準備というのは、椎名の家庭教師のための準備だ。
いつもであれば、椎名の家へ向かう時には、さほど大した準備などしないのだが、今日は特別だ。
というのも、先日椎名の家庭教師を奏のことでお休みをもらった際に、次の時には何かしら埋め合わせをすると約束した。
その約束のための準備をしているというわけだ。
あらかた荷物を詰め終わり、それを持ってリビングに戻りしばらくすると、いつも通り休日はお寝坊さんな奏が起きてきた。
「おはよう、奏」
「おはようございます、兄さん」
髪とパジャマを乱れさせて、目を擦りながら寝起きの舌足らずな声でこたえる奏。
しかし、俺の横に置いてある大荷物を見て、ぱちぱちと目を瞬かせる。
「兄さん、その荷物は……?」
「ああ。今日は椎名の家にお泊まりする予定なんだ。だから今日と明日の夜まで、二日間家にはいないが、大丈夫そうか?」
「……寂しいですけど、椎名さんにはこの前の恩もありますし、我慢します」
「そうか。ありがとな、奏。えらいぞ」
口ではそう言いながらもしょんぼりした顔をする奏の頭を、寝癖を溶かすように撫でてやる。
そうすると、いつものようにぎゅっと抱きついてくるので、俺も負けじと抱きしめる。
たぶん、寂しいのは奏だけではないのだ。
* * *
奏に見送られて家を出て、電車に揺られて椎名の家にたどり着く。
インターホンを押せば、彼女が出迎えてくれて、中に入れてもらう。
「えへへ。待ちくたびれましたよ、先輩」
「時間通りに来たはずなんだが」
「そういう意味じゃないです~。あれから一週間も待ったんですから」
「それに関しては本当に悪かった」
「別に謝ることじゃないです。その分、今日は期待してますからね?」
一体何を期待しているのだか、うふふと微笑む椎名。
しかし、俺だって何も手ぶらで来た訳では無い。奏の分までしっかり椎名にはお礼をしなければいけない。
俺はお泊まりの荷物とは別に、手で持ってきた紙袋を椎名に渡す。
「これは……?」
「とりあえずの、お詫びの品だ」
「開けてもいいですか?」
「ああ、もちろん」
これは、先週お休みを頂いて、桃花ちゃんと奏と一緒に出かけた時に、ショッピングモールで買ってきたものだ。
せっかく女子が二人もいる状況だったので、プレゼントの内容も二人と相談して決めた。
「これは……入浴剤と、マグカップですか?」
「俺は実用品のほうがいいと思って入浴剤を買って、よく分からないんだが奏にそのマグカップを強く推されてな。結局そっちも買ったんだ」
「ふふ。実用品なんて、先輩らしいですね」
「ダメだったか?」
「ダメじゃないです。先輩らしいのが一番いいです。でも……」
「で、でも……?」
「このマグカップ……カップル用ですけど」
「えっ?」
奏が選んだものだし、間違いはないだろうとしっかり内容を確認していなかったのだが、どうやらカップル用のペアマグカップだったらしい。
実際実物を箱から出してみると、顔の付いたマグカップには両手が生えるように二つの取っ手が付いており、マグカップを並べるとカップルのように腕を組んでいるように見えるという粋な作りをしていた。
「ふふ、まるで私と先輩みたいですね?」
そんなことを言いながら、椎名がマグカップと同じようにと俺の腕に抱きついてくる。
椎名に引っ張られてリビングに置かれた鏡の前までいくと、そこに映っていた俺たちは、たしかにマグカップと同じ構図だった。
「あのマグカップほど、にっこり笑顔はしてないけどな」
「それは先輩のせいじゃないですか。ほら、先輩、笑顔ですよ~」
「誰がやるか」
「あ~ん」
椎名の手を振りほどき、なにかと意地悪に使われそうなそのマグカップを、キッチンの一番高い場所の天棚の奥に閉まっておく。
「先輩、それじゃ私出せないんですけど」
「それが狙いだからな」
「ぶー。先輩ったら照れ屋さんなんですから」
「言ってろ」
まさかの奏という伏兵に、まんまとしてやられた。
しかし、今回は俺もからかわれてばかりでは無い。
今回のお泊まり。女子の家にお泊まりするなんて、紗月とまだ幼い頃に数回程度なものだ。
多少緊張もするし、その分椎名からからかわれるのも想定内。
だがしかし、それはまた逆も然り。
この一晩の間に俺の方から攻める機会だって、存分にあるはず。
今回のお泊まりは、俺の反撃のチャンスでもあるのだ。
「ほら、とりあえず勉強するぞ。昨日言った問題は解けたのか」
「………」
「おい、目をそらすな」
なんやかんやと一悶着しながらも勉強を開始。問題集に真剣に取り組む椎名を横から眺める。
例の雑誌の、もう正式名称は忘れたので胸きゅんランキングとでも言っておくが、そのランキングの6位『不意打ちで至近距離で顔を覗き込んでくる♡』今回の狙い目はこれである。
俺はその実行をすべく、椎名へと距離を詰める。
いつも、椎名の方から俺に距離を詰めてくることはあるが、その逆は当然ない。
だからこそ、椎名は驚いた様子で俺の方をチラッと見てくる。
俺はわざとそれに気が付かないフリをして、椎名のノートから目を離さずに様子を見る。
椎名は少し首を傾げて不思議そうにしながらも、すぐに勉強に戻る。
そして俺は、ノートのすぐ横まで顔を下ろし、下から覗き込むように椎名の顔を見つめる。
いつも以上に距離の近い椎名の顔、真剣な表情から驚きで一瞬で表情が変わるのを見るのは結構面白かった。
「な、なんですかっ、いきなり」
「いや、なんだ。かわいい顔だなって?」
「ひゃ、ひゃい!?」
当然特に意味などないので、適当に返事したのだが、意外にもそれがクリーンヒットだったらしい。
頬をリンゴのように染めて、口をぱくぱくとさせている。
その椎名の様子が余計におかしくて、ふふっと笑いをこぼしてしまう。
椎名はそれが相当に癪に障ったのか、これでもかとリスのように頬を膨らませる。
「せ、先輩のくせに……な、生意気ですっ」
「くせにってなんだよ。生意気なのはお互い様だろ」
「わ、私は真面目な生徒ですよ~だ」
「どの口が言うんだよ」
「この口ですー。い~だ」
子供のように意地を張って言い返してくる椎名が無性にかわいく思えてきて、つい奏に接する時のように頭を撫でてしまう。
しかし、椎名はそれさえも俺の意地悪だと判断したらしく、その手を払い除けてその場で仁王立ちをし、
「先輩がその気なら、私だって本気出しちゃいますからね!」
「本気?」
「はい、お昼ご飯の後は覚悟して置いてくださいね!」
そう、宣戦布告をしてくるのだった。
* * *
「あの、椎名さん。これは……?」
「膝枕です」
「いや、そういうことじゃなくて……」
「膝枕です」
「………」
結局そのあとは普通に勉強をして、いつものように椎名のお手製のお昼ご飯を頂いた。
もしや、ご飯に何か仕込まれているのではなんて予想もしたのだが、さすがに大丈夫だった。
そして、これまたいつも通り食後の休憩としてテレビの前のソファに腰掛けると、いきなり椎名に頭を捕まれ倒され。
気づけば、俺の頭はすっぽりと椎名の太ももの上に収まっていた。
「ど、どういう意味だよ。これは」
「少し前に先輩に膝枕していただきましたし、そのお返しです」
「俺はそんなこと希望した覚えはないぞ」
「もちろん強制ですよ?」
「勝手すぎる……」
覚悟しておけ、なんて言われたからには結構身構えてしまったのだが、ある意味拍子抜けである。
「どうです? 私の太ももの感触は」
「どうって……これなんて答えてもセクハラだろ」
「もちろんです」
「おい」
正直、椎名の太ももの感触はとてもとても気持ちいい。
体温は俺よりも高く、家の枕より断然柔らかくて、ついでになんだかいい匂いもして。
やっていることは完全に危ないことなのに、それに対しての背徳感も相まって、変な気持ちになりそうだ。
「先輩の髪、意外とさらさらなんですね」
俺の頭が椎名の膝の上から動かないことをいいことに、さっきのお返しとばかりに俺の頭を撫でてくる椎名。
俺の髪なんて、奏とかと比べれば全く気持ちのいいものでもないと思うのだが、椎名は何故か気に入ってしまったらしい。
ひたすらに俺の頭を撫でつづけていた。
最初は恥ずかしさやらで、この時間が早く終わらないかと感じていたのだが、意外にも椎名に頭を撫でられるのは悪い気はしなかった。
どこか懐かしさを感じるような妙な安心感。俺に頭を撫でられた桃花ちゃんが言っていた安心感は、このことだったのだろうか。
そんなことを考えているうちにだんだんと意識が薄くなっていく。
食後のせいなのか、はたまたそれ意外のせいなのか。迫り来るその睡魔に、俺はなぜか身を任せてしまった。
そして、俺の意識はそこで切れた。
うらやましい。