44 距離感
その日の授業が終了すると同時に、俺は一目散に教室を飛び出した。
下校する生徒の誰よりも早く生徒玄関を抜け、いつもは絶対に乗ることの無い一番早いタイミングの電車を目指して通学路を走り抜ける。
いつもであれば、今日も椎名と一緒に帰るはずなのだが、今日は先に連絡を入れてお休みにさせてもらった。
不満そうにしていた椎名には、本当に申し訳ないと思っている。だから、椎名には次の家庭教師の際にはしっかりと埋め合わせをすると言っておいた。
そうすると彼女も了承してくれたが、小悪魔かわいい笑みで「埋め合わせ、期待してますね」と囁かれてしまった。
次までには何かしら考えておかなければ、そう思いつつも俺の頭にそんな余裕はなかった。
俺が今こうして駅へとダッシュで走っているのは、他でもない、家で寝込んでいる奏のためである。
ここ最近、奏の様子はずっとぎこちなかった。
他人から見れば、ごく普通なのかもしれないが、俺からすれば天変地異が起こるのではと思うほどだ。
自分で言うのも変な話だが、奏は俺に対して極度の甘えん坊だった。
何をするにも後をついてきて、俺から決して離れない。そんなブラコンな妹だ。
それがつい一週間ほど前、奏が友達と出かけて帰ってきたあとから態度が激変した。
ありとあらゆる俺への甘えん坊な接触はすべてなくなり、あげくには普通に会話をするときでさえ距離を置いたようなぎこちない会話になってしまっている。
そして今朝、奏は高熱を出して学校を休んだ。
もちろん、その時点で俺も学校を休むつもりでいた。
それまで態度がおかしかったのもそうだが、その原因は十中八九俺のはずなのだ。
だが、母さんに「私がしっかり看病するから、あなたは学校に行きなさい」と言われてしまえば、返す言葉もない。
そうして、悶々としながらいつもより長く感じる授業を乗り切り、こうして家へと全速力で向かっているというわけだ。
あと少しで駆け込み乗車になりかけるギリギリのタイミングでお目当ての時間の電車に乗り込む。
最寄り駅に到着すれば、あとはひたすらに走るだけ。少しだけ夏に近づき日が長くなってきたせいか、まだ太陽の光が眩しく額に汗が滲む。
乱雑に袖でそれをぬぐいながら走り玄関をたどり着く。すると、そこに見慣れた制服を着た、見慣れない女の子が立っていた。
近づいてよく見てみれば、それは奏の友達の桃花ちゃんだった。
汗だらけの乱れた呼吸で背後から近づけば、おまわりさん一直線であることは明白なので、多少体裁と息を整えてから声をかける。
「桃花ちゃん?」
「ひゃっ。あっ、お、お兄さんでしたか」
「な、なんか驚かせちゃってごめんな」
「い、いえ。私が変に反応しちゃっただけなので……」
いくら俺の見た目が普通の学生だとしても、もし桃花ちゃんに俺が忘れられていて悲鳴を上げられれば、どっちみち俺が犯罪者となるだろう。
ふぅ、と一息ついて安心する。
「えっと、桃花ちゃんはここで何を?」
「その、奏ちゃんが熱を出したって聞いて、学校のプリントを持って来たんです」
「そっか。わざわざありがとな」
「い、いえ。では、お兄さんのほうから渡して頂いたほうがいいですか?」
「せっかくここまで来たんだし、上がっていきなよ。奏も桃花ちゃんがお見舞いに来てくれたら喜ぶよ」
「いいんですか?」
「もちろん。ほら、遠慮せず」
「お、お邪魔します」
玄関を開けて、桃花ちゃんを中に案内する。
靴を脱ぎながら「ただいまー」と声を上げれば、上の階にいたらしい母さんの声が返ってくる。
おそらく、奏の部屋で看病してくれている最中なのだろう。
俺は、しっかりと脱いだ靴を揃えて端っこに置く育ちの良い桃花ちゃんを、引き続き二階に案内する。
階段をあがり、かわいい奏お手製のプレートが着いた俺の部屋を通り過ぎて、もうひとつ奥の扉をノックすると、奏ではなく母さんの声が返ってきて扉を開ける。
「おかえり、陸。あら、そちらのお客さんは?」
「母さんは初対面か。こちら奏のお友達の桃花ちゃん」
「は、はじめまして」
「あら~、あなたが桃花ちゃんなのね。奏から話は聞いてるわよ。ほら、入って入って」
母さんも奏に友達が出来たことは喜んでいて、桃花ちゃんを見ると快く迎え入れてくれた。
奏は、冷えピタをおでこに貼ってベッドで眠っていた。
朝の時点ではかなり辛そうな様子だったが、母さんの付きっきりの看病が効いたのか今は落ち着いた呼吸で眠っていた。
あまり声を立てない程度に母さんは桃花ちゃんとお話をしていて、俺はその間に奏のすぐ横へ移動して彼女の手を握る。
最近ではこうして彼女の手に触れることすらなかったなと考えていると、彼女のほうから俺の手を握り返してくれた。
「ん、にいさん……」
起こしてしまったかなとも危惧したが、幸いただの寝言だったらしく、そのまま俺の手を握ったまま再びすうすうと寝息を立て始めた。
もう片方の手で奏の頭を撫でて、ふと時計に目がいく。
「母さん、夕飯の準備は大丈夫?」
「あら、もうそんな時間なのね。陸、あとは任せていいかしら?」
「ああ、任せてくれ」
「ありがとうね。桃花ちゃんもゆっくりしていってね」
「はいっ」
スリッパでパタパタと部屋を出ていく母さんを見送り、部屋には俺と桃花ちゃん、そしてベッドで寝ている奏が残された。
当然俺と桃花ちゃんとの話題など数える程しかないわけで、なんとも言えない空気になってしまう。
しかし、こうして奏自身が体調を崩してしまうまで無理をしていたのだ。
そしてその無理をし始めたのには、おそらく何かしら桃花ちゃんが関わっているはずだ。
俺は思い切って、桃花ちゃんにそのことを聞いてみることに。
「なあ、桃花ちゃん」
「はい、なんですか?」
「変な質問なんだけど、俺のことを奏から聞いたりとか、したか?」
「……えっと、その……はい、聞きました」
「そうか」
その、反応からなんとなくだが察しがつく。
「あの、私が口を出すのがお門違いなことは理解しているんですけど……」
「ああ」
「お兄さんは、奏ちゃんを性的な目で見ているんですか?」
「ぶふッ」
少し前に紗月の部屋に行った時のように、口の中からお茶が吹き出るようなことはなかったが、問題はそこではない。
何かしら桃花ちゃんが俺たちの関係性に疑問を抱いていたのではとは考えていたが、開口一番の質問でそんな言葉が出てくるとは予想だにしなかった。
「よし、桃花ちゃんが誤解しているようだからはっきり言うが、俺と奏はちゃんと血は繋がっているし、そんな関係ではない」
「で、でも、奏ちゃんから聞く限りそうとしか思えなくて……」
「ちなみに、どんなことを聞いたんだ……?」
おそるおそるとそう聞けば、桃花ちゃんは奏との会話を思い出すのに少し時間を開けた後、おずおずと話を始める。
「えっと……家ではいつでも一緒にいて」
うんうん。
「お風呂もいつも一緒で、洗いあいっこもして」
う、うーん……。
「お布団の中でも朝まで一緒に過ごしたり」
………。
「私にも兄がいるのですが、さすがに距離感がおかしいんじゃないのかなって、その……」
「すみません。俺も否定できないところはあります」
至って普通の村上家の日常風景なのだが、あらためて他人の口から一つ一つ挙げれると、とてつもなくやばい雰囲気が漂うので驚きである。
しかし、誇らしげにそんな話をする奏は容易に想像ができて少し頬を引きつらせて笑ってしまう。
たぶん、今の口ぶりから言って桃花ちゃんは奏にそのことを伝えたのだろう。距離感がおかしいのでは、と。
奏にとって桃花ちゃんは、俺や紗月以外では初めて出来た大切な友達だ。
そんな彼女の言うことなのだから、それを真に受けてしまい俺との距離感を気にしていた、ということだったのだろう。
俺としては奏に何かがきっかけで嫌われてしまったのではとまで考えていたのだが、ひとまずは一安心だった。
それはそれとしても、桃花ちゃんの想像しているものとは違うことを伝えなければいけないのだが、なんと説明すれば納得してくれるかと頭を悩ませる。
しかし、未だに握られたままの奏の手を見ると、案外その答えはスッと心のどこかから表れた。
「あのな、桃花ちゃん。たしかに他から見て俺と奏は特殊なのかもしれない。でもそれは俺たち兄妹なりの愛情表現なんだ。もちろんこれまで間違いが起きたことも無い。だから、できれば奏にはあまり言わないでやってくれると、助かる」
「……分かりました」
「奏にとって桃花ちゃんは大切な友達だからさ。色々と迷惑をかけるかもしれないが、これからも仲良くしてやってくれないか……?」
「もちろんです。私も奏ちゃんは大切なお友達です。それに、お兄さんとお話してみて色々と安心しました」
「そうか、ならよかった」
俺の方こそほっと胸を撫で下ろして、もう一度奏の頭を撫でてやる。
心無しか先程よりも顔色が良くなっているような気がして、またもや「兄さん……」と寝言をこぼすのだから、俺は桃花ちゃんと小さく笑い合うのだった。
個人的に陸ママの出番もっと増やしたい(なぜ)