41 勘違い
「何か言うことはありますか、先輩」
「すみませんでした」
目の前に仁王立ちして、真っ赤な顔でこちらを見下ろしている椎名。
俺は情けなくその足元で正座させられている。
さすがにやりすぎてしまったことは深く反省しているし、誠意を持って謝るつもりだ。
これ以上彼女を怒らせてしまえば、多分本気で嫌われてしまう。
信頼を築くのには時間がかかるが、崩れるのは一瞬。という言葉もある。
椎名にはからかわれてばっかりだったが、その彼女のおかげで、俺の生活は騒がしくもたしかに楽しいものに変化した。
そうそう簡単に壊れてしまっていいものではない。俺はそう願っている。
「わ、私少し前に言いましたよね! 私に触りたい時には一声かけてくださいって」
「ああ……俺から触るのはセクハラっていう理不尽な」
「何か言いました?」
「なんでもないです」
一応でも俺が先輩なわけなのだが、今この状況では完全に椎名の方が上の地位である。
そのおかげで、俺は何も椎名に反論することが出来ず、口をつぐむ。
どのくらい前だったか、椎名の家庭教師をしている際にそんなことを彼女から言われたことがあった。
椎名のほうからはこれでもかというほどにくっ付いてくるというのに、俺から触るのはセクハラだとかなんとか。
これほどまでに酷く理不尽な差別はなかなかに見たことがない。
そのときは、実際俺から椎名に積極的に触れようとする機会など、ほぼほぼないと思っていたためその謎制度の存在を完全に忘れていた。
なぜそんな制度を椎名が言い渡してきたのかも謎である。
と、少し考えてみるとそんな変なことでもない気がしてきた。
たしかに、男からいきなり体を触られるのは、不快以外の何ものでもないだろう。
そう考えれば、俺はかなり最低で許されないことをしてしまったのかもしれない。
俺は、正座の姿勢のまま腰を曲げ、手を地面について俗に言う土下座を敢行する。
「本当に悪かった。いきなり触られるのは嫌だったよな、謝る」
「わ、分かればいいんです。次からは勝手なお触りはダメなんですからっ」
「ああ、気をつける。ところで、一つだけ聞いていいか?」
「? なんですか?」
たしかに、いきなり俺から頬や耳を触ったのは悪かったし、反省もする。
だが、一つだけ矛盾していることがある。
「さっき、俺が椎名を抱きしめた時は、俺に触られるのは嫌じゃないって言ってなかったか?」
「あっ…………」
図星、とばかりに声を漏らし、固まって無言になる椎名。
土下座の姿勢を少し崩して顔を上げて彼女の顔を伺うと、やってしまったとでも言いたげな微妙な顔をしていた。
あの時は、多少椎名も勢いで言っていた要素もあるが、そのあとに嘘じゃないとも付け足した。
つまり、俺であれば触られるのは嫌じゃないということで。見事に矛盾しているということになる。
「椎名?」
「か、勘のいい先輩は嫌いですよっ」
「いや、勘とかいう問題じゃないだろう」
「そっ、その。あれは特別なんです! ダメなものはダメなんですからっ!」
うろたえながらも、そんなことをまくし立てる椎名に冷たい目線を送る。
その視線に耐えられなくなると、彼女はムキになってもっと反論してくる。
「だ、だいたいどうして先輩はいきなりあんなことをしてきたんですか!」
「そっ、それは……」
「い、言えないようなやましい理由なんですかっ?」
「いや、そういう訳では無いんだが……」
椎名に痛いところを突かれてしまった。
なぜ、あんなことをしてしまったのか。日頃の仕返しと、子供じみた嫉妬心の起こしてしまったこと。
そんなことを直接言うような度胸はなく、どう答えればいいものか悩んでいる間に、じりじりと椎名が問い詰めてくる。
「家に来てからずっと態度が変でしたし。先輩、私に何か隠していませんか?」
「それは……」
「正直に言ってくれれば、私は何も言いません。私だって、先輩がよこしまな気持ちだけであんなことをするとは思っていません。だからこそ、本当のことを教えてください」
「………」
あれだけのことをしても、椎名は俺の事を信じてくれているらしい。
罪悪感を覚えながらも、少しだけ胸が熱くなるのを感じた。
彼女がここまで言ってくれているのだ、俺もいつまでも卑屈になっていては格好もつかない。
俺は、恥を承知で心の内を椎名に伝えることにした。
「俺は、あの男のことがずっと気になってたんだ」
「あの男って、もしかして浩平くんのことですか?」
「ああ。その、情けない話なんだが、椎名がその浩平くんとどういう関係なのか。それが気になってたんだ」
「そ、そんな事だったんですか……?」
「悪かったな、そんな事で」
自分でも、頬が熱くなるのを感じた。
あらためて言葉にしてみれば、本当に情けない話だ。穴があったら入りたい。
「だ、だって、そうじゃないですか。なんで浩平くん……」
「それだよ、その名前呼び。これまで椎名がそんなふうに下の名前で異性を呼んでるのなんて、見たこと無かったし」
「それはだって、浩平くんは特別ですし……」
椎名の特別という言葉に、またもやちくりと胸が痛む。
「その特別ってなんなんだ。椎名にとって浩平くんはどんな相手なんだ」
「どんな相手って……いとこ、としか言えませんけど」
「……え?」
今、椎名なんて言った?
「い、いや。待て椎名。浩平くんってのは、椎名のいとこなのか……?」
「え、はい。そうですけど。あれ、言ってませんでした?」
「言ってねえ……」
思わず頭を抱える。
俺は今の今まで、椎名のいとこ相手に嫉妬をしていたというのか。
たしかに椎名を下の名前で呼ぶくらい親しいのも、色々と納得が行くが……な、なんという不覚……。
しばらくの間、自分の早とちりの誤解による勘違いに悶えていると、椎名がすべてを悟ったように「あっ、まさか」と声を出す。
もう、嫌な予感しかしない。
「もしかして先輩、浩平くんが気になってたっていうのは……嫉妬しちゃったんですかー?」
「ぐっ……」
「あっ、当たっちゃいました?」
くっ……これだから、察しのよすぎる後輩は嫌いだ……。
調子に乗った椎名は、先程のお返しだと言わんばかりに俺の頬をつんつんしながら煽ってくる。
「ふふふっ、先輩ったら、そんなに私のことを独占したかったんですか~? もう、しょうがない先輩なんですから~」
「ぐぐぐっ……」
まさに言いたい放題、言われたい放題である。
椎名がご機嫌な気分なのは、さっきに比べれば断然いいのだが、恥ずかしさでもう死にそうだ。
限界を迎えた俺は、吐き捨てるように椎名に言葉を投げつける。
「悪かったな。男ってのは、そういうものなんだよ」
「そういうもの?」
「少し一緒にいただけの女の子が、他の男と話している。それだけでモヤモヤしちゃう、そういう生き物なんだよ」
「……そ、そうですかっ」
俺が思い切ってそう言うと、椎名は面食らったように歯切れを悪くする。
しばらく彼女は俯いて、考え込んだあと俺の顔を見つめてくる。
恥ずかしさで視線を逸らしたくなるのを我慢して見つめ返していれば、ゆっくりと彼女が口を開く。
「私だって……モヤモヤしますよ?」
「……えっ?」
「先輩だけじゃないです。私だって、先輩が他の女の人と話してたらモヤモヤしちゃいます」
「そ、それって……」
「べ、別に変な意味じゃないですからね! 先輩は私の家庭教師なのにって、それだけですから!」
強い口調であくまで家庭教師というところを強調してくる。
もちろん、椎名が俺のことを……なんて勘違いはしていない。椎名はたぶん俺と同じなだけなのだ。
少しだけ、独占欲が強いだけ。たぶん、それだけで充分な理由になってしまうのだ。
「椎名」
「な、なんですか?」
「その。頭、撫でてもいいか?」
「き、急にどういうことですかっ」
「いや、深い意味は無いが。ダメか……?」
「ん……嫌では、ないですけど……」
先程、とっさに抱きしめてしまった時と同じような反応をする椎名。
相変わらず、いじらしくて可愛いその反応に鼓動を早めながら、彼女の頭に手を乗せる。
ゆっくりと丁寧に、髪を梳くように撫でる。
何回か椎名の髪に触れたことはあったが、椎名が起きている時に頭を撫でるのはこれが初めてかもしれない。
「先輩、なんだか慣れてないですか?」
「慣れてるって、頭を撫でることがか?」
「はい。なんというか、ツボをおさえていると言いますか……」
「伊達にほぼ毎日、奏の頭を撫でてやっていないからな」
笑いながらそう答えると、椎名はちょっと複雑そうな顔をして「ちょっと奏ちゃんが羨ましいです」とこぼした。
俺はその言葉が意味することを考え、ちょっと戸惑いながらもなでなでを延長した。
最初の方はきゅっと目と唇を結んでいた椎名も、そのうちにほにゃっとした緩い表情になる。
その表情が猫のように見え、思わず顎の下も撫でてしまい、再び怒られる羽目になったのは言うまでもない。
反省してください陸くん。




