40 つんつん
「そういえば、先輩って彼女さんがいたことってあったんですか?」
「え……」
椎名の家庭教師としての自覚をあらたにした後、唐突に彼女からそんな質問が降り掛かってきた。
「前から気になっていたんです。どうなんですか?」
「いや、あのな……」
ただの世間話のように聞いてくる椎名に動揺して言葉を詰まらせる。
俺からしたらかなりデリケートな話題のような気もするのだが、今どきの女子高生は全くそんなことはないらしい。
言葉を出せずにいる俺を、不思議そうな顔で見つめてくる彼女から、すっと視線を逸らす。
「ちなみに私の予想だと、先輩に彼女がいたことはないと思っています」
「お前よくそんなこと平気な顔で言えるな……」
「先輩のことならなんでも分かっちゃうって言ったじゃないですか。もしかして、違いましたか?」
「いや、合ってるが……」
椎名のおっしゃる通り、俺は産まれてこの方恋人がいたことはない。
たしかに中学生ともなると、周りでもそういう話題が増え、あいつとあいつが……なんていう噂話も嫌という程耳にしてきた。
そんな中で、俺はなぜか恋愛に対して全く興味がなかった。
一応、男子中学生としての一般的な異性に対しての意識などは多少あったが、その感情に振り回されて労力を割いたり一喜一憂する楽しさは俺には分からなかった。
高校生になってからもその感覚が抜けきらなかったのか、去年一年間でもそういった浮いた話は全くと言っていいほどに持ち合わせていない。
「まあ、一応一回だけ告白されたことならあったが……」
「そ、そうなんですか?!」
「お、おう」
さっきまで意外と素っ気ないというか、淡々と話していた椎名が、いきなり俺の言葉にがっついてくる。
「その話を詳しく!」と嬉々とした目で訴えてくるので、仕方なくその頃の記憶を思い出す。
あまり面白い話でも無いのだが……。
あれは中学二年生くらいだっただろうか。同じクラスではあったが、特に話したこともなかったある女子から告白された。
人生初の体験にびっくりもしたし、自分に好意を持ってくれていたことは多少嬉しかった。
だが、元々その女子の評判はあまりいいものではなかった。
学校では普通に友達と気さくに話しているが、裏では誹謗中傷を散々言いまくっているなんて噂もあった。
とはいえ、所詮それは噂で、真実は分からない。だが、俺は過去に一度だけ、その女子が放課後の体育館の裏手でその一片を聞いてしまったことがあった。
少し迷いもしたが、結局そのときはお付き合いは断り、俺はその女子を振った。
だが、残念なことに話はそこで終わらなかった。
どこから話が漏れたのか、はたまたその女子自身がしたことなのか、俺がその女子から告白されたことが少しだけ噂になってしまったのだ。
もちろん全員が俺を攻めていた訳では無いが、その女子と仲の良かった友達は俺を軽蔑するような態度を取ってきた。
大事になるようなイジメではなく軽いものだったのだが、当然いい気持ちはしないし、当時は精神的に疲労した覚えがある。
どちらかと言えば過去の苦い思い出の話かもしれない。
「私の知らないところで、先輩にそんな辛いことがあったんですね……」
「まあ、もう過去のことだ。今となっては何も気にしてないさ」
「そうですか? でも、そっか……」
「ん? どうした」
「い、いえ。なんでもないです」
俺が聞くとすぐに取り繕うが、一瞬椎名が安心したような顔をしていた。
俺の過去が深刻すぎなかったことにでも安心したのだろうか。
不思議に思いつつも、まあいいかと椎名のノートに視線を戻したその時、部屋に聞き慣れないリズミカルな音楽が鳴り響いた。
その音楽は椎名の携帯から発せられていたもので、電話の着信音だったらしい。
ちょっとすみません、と椎名が携帯を取り出し、画面を確認する。
「あっ、浩平くん……」
そして、小さくそんな言葉を漏らした。
その、椎名の言葉が聞こえてきた瞬間、自分の体がぴくっと固まったのを感じた。
「ごめんなさい、出ますね」
「……ああ」
俺から少しだけ距離をあけて、携帯を耳に当てる椎名。
さすがに内容までは聞き取れないが、ついさっき外で出会った浩平くんと同じ声が電子音となって聞こえてくる。
つい先程別れ際に、あとで連絡すると言っていた言葉通りに彼は電話をかけてきたらしい。
その電子音の彼の声は弾んでいて、それに答える椎名も楽しそうに顔を緩めていた。
「(……なに考えてるんだ、俺は)」
ほんの数分前に決意を固めたというのに、結局目の前で見せつけられると、胸のあたりがチクチクする。
椎名の彼氏でもなかろう俺が、何を勝手にもやもやしているんだか。そもそも、明確な恋愛感情だって持ち合わせていないのに。
もちろん、椎名は大切な後輩で家庭教師としても大切な生徒だ。
椎名のことは可愛いと思っているし、守ってやらないと、というくらいには勝手に思ってしまっている。
だが、それはそれであり、彼女に対して抱いているのは恋愛感情ではないだろう。
もし、限りなくそれに近いものであっても、浩平くんに対して嫉妬まがいな気持ちを抱くのはおこがましいにもほどがある。
……それなのに、俺の心はざわざわと落ち着きを保てていなかった。
行き場のないその感情がぐるぐるとする中、胸のどこかでイタズラ心が湧いてきた。
別にこれは、何もこの胸のざわつきだけが要因ではない。
いつも椎名がからかってくることへの、仕返しの一つに過ぎない。
そう、要は『あれ』の出番ということである。
俺は、家で熟読したあの雑誌の内容を頭の中で再生しつつ、電話に集中している椎名にゆっくりと近づく。
さすがにそこまで近くに行けば椎名も俺の存在に気づき、電話を続けながら「どうかしましたか」と視線で聞いてくる。
俺はその問いに答えることはなく、右手を彼女の顔の前へ持っていき、人差し指を立てる。
そして、そのままゆっくりと近づけ、
ふにっ。
指先を彼女の頬に、くっ付けた。
想像のはるか上を行くほど彼女のほっぺたは柔らかくて、つい何度もつんつんとつついてしまう。
「っ!? あっ、あの」
当然椎名は驚いた様子で、あまりの衝撃に何も出来ずにただただオロオロと戸惑っている。
我慢できず、俺に何かを訴えるように言葉を出すが、電話の向こうの浩平くんから「ん、どうかした?」と聞かれれば、何も言えずに誤魔化すことしか出来ない。
俺は彼女が抵抗できない事をいいことに、つんつんのスピードを加速させる。
さらに、椎名が少し頭を動かして逃れようとしたところを、ふにゅっとその頬をつまむ。
もちろん、可能な限りの最小の力でつまんでいるが、俺の予想外すぎる行動ゆえに椎名はそれ以上逃げられなかった。
例には例による、あの雑誌の某ランキング7位『甘えるように頬をつんつんしてくる♡』である。
やはり、この雑誌は優秀だ。つくづくお世話になっている。
時間が経てば経つほど赤みを増していくその頬を、存分にいじり回す。
頬ををつんつんするのに飽きれば、次は耳へと手を伸ばす。
すでに赤く染まりきっていた耳に手を触れると、くすぐったそうに身をよじる。
罪悪感と背徳感、その両方をひしひしと感じながらふにふにと触れば、びくんっと体を震わせる。
「ひゃっ、ぅん。あっ」
そのうちに声も漏れ始め、それだけ聞いていればもうそっちの声にしか聞こえないほどだ。
さすがにこれには浩平くんも不信感を覚えたらしく「だ、大丈夫?」と遠慮気味と聞いてきた。
耳の自由を奪われた椎名は、その言葉への返事もままならないほどに乱れ、それはもういかがわしい状態になってしまっていた。
さすがに、ここまで来ると理性が戻ってきて、俺は椎名の耳から手を離す。
浩平くんのほうも「そ、そろそろ切るね?」と切り出し、椎名が「う、うん……」と返すとすぐに電話が切れた。
脱力したように肩を落とし、携帯を置く椎名。
彼女の息が整うのを見守り、数秒時間を置くと彼女も落ち着いてきた。
なんと声をかければいいのか分からず、黙っていると椎名の体がぷるぷると震え出す。
「先輩…………」
とても小さな、しかし強い意志を持った声で俺を呼ぶ椎名。
俺は、額に嫌な汗を滲ませながら「は、はい」と返事する。
そして、その返事でようやく顔を上げた椎名は、まだ赤らんだ頬をぱんぱんに膨らまし、
「正座」
そう、俺に告げた。
おまわりさん、この人です。